豆撒き

2025-3-1 UP

 本年の節分は2月2であった。2月3日のイメージが強く、私自身もそう認識していたのであるが、実は2021年も2月2日が節分であったそうである。それは1897年以来ということで124年ぶりのことなのだが、あまり記憶に残っていない。おそらくコロナ禍の最中で、「鬼は外、福は内」の追儺〔ついな〕の声を控えめにしたせいだろうか。人間の記憶というのは、一番強いものに影響されるものなのであろう。ちなみに、1984年は2月4日が節分で、2021年はそれ以来37年ぶりに2月3日以外の日であったということも今回初めて知ったのである。

 今年の2月2日は宗家において真台子Dクラスの稽古日であった。小堀家氏神の神楽坂若宮八幡神社恒例の豆撒きを毎年勤めているが、今般は台子の点法を終えた門人の方々も参集して、私自身、いつもよりも楽しかった。

 さて小堀家の豆撒きは、だいたい夕刻に行なっている。これは父紅心のころから同様であるが、鬼つまり邪気が夜の暗闇に紛れ込む前に行なうものだと聞かされた。ほかにも撒いた豆の片付け方や、食べる豆の数とか、わが家には子供のころから教えられたルールがあり、いまもそれを継承しているが、これも調べてみるとさまざまあるようである。元来、節分の習わし自体が、中国から入り、宮中行事となり、そしてそれが民間に拡がっていっているわけであるから、いろいろあってよいと思う。無病息災、厄祓いを願う私たちの思いこそ一番大切なのである。

 私は、こういった習慣を守り伝える姿勢は、大切にしたい。信じること、願うこと等々、人間の人間たる原点であるといってよいと思う。そして一方で、畏れという考えにも通じる。恐れではなく、敬いかしこまるということは謙虚な心持につながっているのである。他人に対して、自然に対して、いつも人はそうありたいと願うものである。

 昨今のSNSの時代になって、この気持ちが希薄になっているのは、大いなる心配でもあり悲しいことである。過日アメリカのトランプ大統領が参列したワシントン国立大聖堂での礼拝で、主教がマイノリティの人、移民の人たち、つまり社会的に強い立場にない人に対しての、慈悲の心の大切さを説いた。あの言葉を聞いて異論をもつ人はいないはずである。

 少なくとも茶の湯を学ぶ私たちは常にその心を忘れてはいけないと感じたニュースであった。

 豆撒きにちなむ茶道具に、祥瑞香合の豆男と呼ばれるものがある、呉須の有馬筆香合とともに、遠州公好みであるとむかしから珍重されているものである。節分の日に茶会をすることがあれば使ってみたいと思っているが、なかなかそのタイミングに出会わない。というわけで、かつて私は一度、自分が年男の新年の点初めで使用したことがある。したがって三年後の申年の点初めに再登場をお約束しておこう。