遠州公と志戸呂
ご機嫌よろしゅうございます。
寛永年間(1624-1643)に小堀遠州公が
茶器製作の指導をされ、優れた作品を
つくりだしました。
加藤庄右衛門から名を五郎左衛門に改めた
初代の弟子が五郎左衛門を襲名してその仕事を
担当したようです。しかしながら明らかに
遠州好を類推できる茶入及び茶碗は数が
多いとはいえません。その中で、茶入「初桜」は
いかにも遠州の好みを投影した作品といえます。
志戸呂独特の雰囲気を表す渇釉と濁黄色を交えた釉薬。
そしてすっきりとした肩の稜線と腰の柔らかな曲線。
松平備前守の箱書
宿からや 春の心もいそくらむ
ほかにまたみぬ 初さくらかな
が記されています。もう一つ、大正名器鑑所載の
「口廣」茶入には
この壷を 何とか人はとうとうみ
志戸呂もとろの茶入なるらむ
という歌を松平不昧が箱に書付けています。
志戸呂の歴史
ご機嫌よろしゅうございます。
島田市金谷に位置する志戸呂窯の歴史は古く
十二世紀後半の平安時代には施釉をしない
山茶碗などがつくられました。
その後は一時途絶え200年ほどの時を経ます。
以前ご紹介した、瀬戸から美濃へ陶業の中心地が
移っていった時代を俗に「瀬戸離散」と呼んだり
しますが、この時期に金谷にも陶工が移り住んだ
とされ志戸呂も復興。古瀬戸に似た作品がつくられました。
その志戸呂の全盛も平和な時代の到来と本家の瀬戸が
力を盛り返し、15年ほどで終わりをつげます。
天正十年(1582)には駿河国を領有した徳川家康公が
美濃の陶工加藤庄右衛門影忠を招いたり、天正十六年(1588)
には陶業差し許の朱印状を与えて優遇し、志戸呂の窯を
奨励しました。また、尾張瀬戸地方の陶工の移住によって、
志戸呂焼の生産が本格的に行なわれたと考えられています。
陶工・尊楷
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は上野焼の開祖・尊楷についてご紹介します。
三斉に従い豊前小倉入りした尊楷は、
移住した地の名をとって上野喜蔵高国と改名し、
十五石五人扶持を拝領します。
後に細川家の移封に従い、長男と三男を伴って
肥後八代に移って高田焼を創始しました。
この時、子の十時孫左衛門と娘婿の渡久左衛門を残し、
上野焼を後継させます。
尊楷は、慕っていた忠興が亡くなると自らも
扶持を返上して出家し宗清と名乗り、
承応3年(1654)年、89歳で生涯を閉じました。
熊本県八代市の上野喜蔵の墓が今も残っています。
当時の高僧である清巌宗渭の箱書きを残す
喜蔵作の貴重な八代茶碗・銘「ねざめ」が出光美術館に
所蔵されています。
史料的に喜蔵作と確定できるのはこの茶碗のみと言われています・
〇上野焼の歴史
ご機嫌よろしゅうございます。
今月は九州の焼き物、上野焼についての
ご紹介をいたします。漢字だけみると
「うえの」?と読みたくなりますが
「あがの」と読みます。
上野焼は利休の高弟子で知られる細川忠興(三斉)が、
関ヶ原の戦いの後に豊前藩主となり、
慶長7年(1602年)に朝鮮出兵で渡来していた
李朝陶工の尊楷を招き、陶土に恵まれた上野の地
(釜の口窯)で窯を築いたのが
始まりとされています。
細川家が転封を命じられ尊楷も共に熊本へ移って
以後も尊楷の妻や孫が窯を守り、
小笠原家歴代藩主が愛用した藩窯として栄えました。
昭和58年には国(通産大臣)の伝統的工芸品の指定を受け、
現在は20以上の窯元が上野地区などに点在しています。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は瀬戸焼の始まる前のお話を。
日本の焼き物の歴史は土器に始まります。
今から一万二千年前あるいはもっと前から
縄文土器が作られていました。
それから弥生土器、土師器、更に五世紀前半には
大陸の影響も受けて須恵器といった
新しい焼き物が各地で生まれていきました。
七世紀には三彩と呼ばれる緑釉陶器、
九世紀から十一世紀頃には灰釉陶器が生産されます。
灰釉陶器は自然の草木灰を原料とした高火度釉を
施した焼き物。このような焼き物の次に無釉の焼き物
「山茶碗」へと生産が移行していきます。 山茶碗は猿投山など生産窯が多くある丘陵地で
大量に拾われることからの俗称です。
瀬戸では釉薬のかからない山茶碗から、13世紀あたりに
再び施釉の焼き物が生まれ、いわゆる「古瀬戸」へと
つながっていきます。
ご機嫌よろしゅうございます。
先週まで水辺のものにちなんだ文様をご紹介してまいりました。
今日は「網」についてのお話を
漁業で使用する網代も茶の湯の中によく登場します。
志野や織部などの美濃焼には網干はよく描かれる文様です。
昨年ご紹介した能「桜川」を題材とした西村道仁作の
「桜川釜」は肩から胴にかけ網目を表し、羽落ち近くに
桜の花二輪。
これは我が子を探す狂女が、子供と同じ名の桜を網で掬う
様子を想起させます。
また名物裂では織田有楽の所持と伝えられる「有楽緞子」
の地紋に網目文様が見られます。
他、文様ではありませんが、風炉先に網代を用いて
涼しげな様子を茶席に取り入れますし、
茶室の点法座の天井には、網代天井がよく用いられます。
落ち天井になったつくりは亭主の謙遜の意を表したもの
と言われています。
ご機嫌よろしゅうございます。
明日、8月29日は「焼き肉の日」です。
「8(や(き))2(に)9(く)」の語呂合わせと
夏バテの気味の人に焼き肉でスタミナをつけてもらおうと、
平成5年(1993年)に全国焼肉協会が定めました。
そこで今日は肉にちなんだお話を。
675年の天武天皇の時代、仏教における殺生の禁の思想から
肉食の禁止令が制定されます。
以後日本で肉食を禁ずる歴史は続きますが、
その禁をかいくぐるようにイノシシを牡丹、馬を桜、鹿を紅葉
と呼ぶ隠語も生まれます。
江戸時代には「滋養強壮」のための薬として食べられていたので
やはり日常的に口に入るものではなかったようですが
鳥は食されていました。(鶏はたべません)
茶の湯の会席にも山鳥や鶉、雉などの焼き鳥が登場し、
特に鶴は貴重で一番のおもてなしとされました。
将軍も正月には鶴を食したそうです。
ちなみに松屋会記で有名な松屋家は、手向山八幡宮の氏子で
神の使いが鳩であることから、鳥肉を食べることは禁じられていました。
そのため、遠州公も松屋久政を招いた茶会では、他のお客様に
鳥を出しても、久政には鯛などの別の献立を用意していたことが
会記を見ると分かります。
ご機嫌よろしゅうございます。これまで波の文様を
幾つかご紹介してきました。
今日は「青海波」のお話をしたいと思います。
「青海波」は同心円を幾重にも重ねた波文で、
ペルシャ・ササン朝様式の文様が中国を経由して
伝播したといわれています。
唐楽から伝わった雅楽の舞曲「青海波」で舞人が、
この形の染文の衣装をつけて舞うのが
名前の由来と言われています。
元禄の時代に勘七という漆工がこの波形を刷毛で
描くのを得意とし、大いに流行したため世間で
彼を青海勘七と呼びました。
名物裂では本能寺所伝とされる本能寺緞子や三雲屋緞子
織部緞子などがあります。
本能寺緞子は二重の青海波に捻り唐花と8種の宝尽しの図柄で
大名物油屋肩衝の仕覆として
三雲屋緞子はその色替りとされる裂で中興名物の「染川」や
「秋の夜」の仕覆に。また織部緞子とも呼ばれる
青海波梅花文緞子は大名物の松屋肩衝にそっています。
ご機嫌よろしゅうございます。
今月のお菓子は「緑陰」です。
葛に包まれたお菓子ですので、冷蔵庫ではなく保冷剤などを
使って優しく冷やし、お客様にお出します。
木々の緑がつくってくれる木陰に一休み。
夏らしい情景が浮かびますが、
今週の関東はまるで梅雨に戻ったかのよう。
木陰に雨宿りしたくなる日が続いています。
ご機嫌よろしゅうございます。
七夕の頃には「笹の葉さらさら軒端に揺れる..」
と歌われ、夏には笹や竹の風に吹かれる音が
爽やかに耳に届きますが、七夕の飾りや短冊を
笹竹に飾る風習は、もともと盆に先立ち精霊の
訪れる依代として立てたことに由来します。
またお正月には門松として竹を用いるなど、竹は
神の依代として欠かせない存在です。
文様としては松・梅とともに三友と呼んだり、
その高潔な姿を君子にたとえ四君子(梅・菊・蘭・竹)
と称されてきました。
以前ご紹介した名物裂の「笹蔓緞子」の文様は、松竹梅の
意匠化であり、茶人に大変愛された文様で、笹蔓手として
類裂が多く作られました。
また、冬の季節には雪との組み合わせで描かれた「雪持竹・笹」
などの姿で好まれて佂や茶器などに多く描かれています。
茶の湯の道具としての竹も、「竹に上下の節あり」と
あるように、その精神性からも非常に密接なつながりの
ある素材として親しまれてきました。
竹の花入や茶杓は、他の道具の中でもとりわけ作者の
人となりを表す道具として扱われます。
遠州公が削った茶杓にこんな歌が添えられています。
歪まする人にまかせてゆかむなる
これぞすぐなる竹の心よ
しなやかな中に、決して折れない真の強さ
竹の心が詠まれています。