ご機嫌よろしゅうございます。
今日は塗師 中谷光哉・光伸氏をご紹介致します。
漆器は、下地の木地に漆を塗り重ねて作る工芸品。
狩猟・石器時代には既に使われていた漆は、その美しさだけでなく、
器の強度が増し、長持ちするという実用性も併せ持ちます。
また漆器自体が「japan」と英語で表記されることもあるほど、
漆器は日本を代表するものに数えられます。
石川県の山中温泉で有名な地域。ここに400年以上の歴史を持つ山中塗の技術が今に伝わっています。
中谷光哉氏は、1931年に小樽に生まれ、京都で一閑塗の修業をした後、
家業の山中塗を継ぎました。
戸川宗積先生とのご縁で向栄会の職方となり、
ご先代紅心宗慶宗匠・宗実御家元のお好みの道具を数々手掛けています。
長男の光伸氏は大学卒業後二年、茶道具の問屋で流通を学んだのち父・光哉氏に師事、
ご家族で漆器の制作に取り組んでいらっしゃいます。漆塗の手法は
○木地に下地を塗って磨き、塗って磨きを繰り返すことで光沢の生まれる「真塗」
○漆を薄く塗って木目を出す「掻き合わせ」
○生漆(きうるし)をぬって拭くことを繰り返し、木目を生かす「拭き漆」
○木地に和紙を貼り、上に漆を塗る「一閑張」
に大きく分けられます。同じ漆器でも、その手法を変えることでそれぞれに特徴的な風合いを持たせ、道具に様々な表情を演出することができるのです。
「御家元からは『格好の良さ』について度々指導いただいています。」
とお話しされる中谷さん。御家元にいくつかご覧いただいて、ここをこうした方が格好良いんだよね。とご指摘受けたところはもう一度作り直します。
格好いいとは文字通り「形姿の良さ」
美しく見える形というのは、単なる形や見栄えの良さだけでなく
素材を生かし、余分を取り払ったシンプルな中に残る
メリハリとシャープなライン、そしてその中に込められた
品格が表れた姿。他の茶道具との調和。そのセンスをいかに作品にだせるか
ということを常に意識して作品を制作していると仰っていらっしゃいました。
ご機嫌よろしゅうございます。
三重県と滋賀県の県境に連なる鈴鹿山脈の裾野に
清水氏の「楽山窯」があります。
写真:清水久嗣氏
久嗣氏は初代・清水楽山、父・日呂志氏と数えて四代目。
平成四年に父・日呂志氏に師事しました。
初代楽山氏は三重県の万戸焼に、高麗の作風を加え高い評価を得ました。
そして韓国に焼き物の指導で出かけていた父・日呂志氏は
李朝の土質、作風などを研究し現地に窯を造り作品を制作しています。
韓国で作られたものと日本で焼いたものを区別するため
箱書は韓国で作ったものを「駕洛窯造」、日本で作ったものを
「楽山窯造」と書き分けています。
遠州茶道宗家11世宗明宗匠の代からお付き合いがあり、代々御家元の指導を
受けながら作陶、綺麗さびの美に通じる作品を多く生み出してきました。
遠州流は高麗茶碗を好んで用います。
そもそも高麗茶碗は朝鮮半島で焼かれた日常雑器の中から、日本の茶人が
お茶の心にかなうものを見出し用いたことに始まります。
日用品としては欠陥ともいえるひづみやしみをあえて楽しむ日本人の
感覚が高麗茶碗をつくりだしました。
「茶碗の中でも特に高麗物が好きですね。」と語る久嗣さん。
その高麗茶碗の特徴を研究し、作陶に取り組んでいらっしゃいます。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は釜師の根来琢三氏をご紹介いたします。
先祖は和歌山に住み、江戸時代には紀州藩の鉄砲隊をしていた
武家の流れをくむ根来氏。
その根来氏が、祖父・実三の代で釜師となり、二代茂昌氏、
そして琢三氏で三代目。
実三氏が東京で鋳金工芸作家であり、東京美術学校で指導をしていた
香取秀真氏から、11世宗明宗匠を紹介され、
遠州流職方としてのお出入りがはじまりました。
琢三氏が初めて釜を作ったのは高校3年生。
玉川大学芸術学科金属工芸コースで金属工芸の基礎を学び、
大学三年から釜をつくりだし本格的に釜の制作を始めたのは
大学卒業後二十二歳、以来一度も就職した経験がないので、
ボーナス時の世の皆様が羨ましいとおっしゃる根来さん。
祖父・実三氏の頃から横浜の寺家町で釜を作っています。
釜を作るために大量に炭を消費するのですが、
その炭を生産する寺家の環境が適していたようです。
現在、釜をつくる家も神奈川県では根来氏を含めて二軒しかありません。
その高い技術を要する釜の作り手は年々減る一方で、
「釜一つ あれば茶の湯はなるのを…」
と利休百首にもあります通り
茶の湯をするには欠かせない道具です。
ご機嫌よろしゅうございます。
本日から10月の向栄会展まで、お一人ずつ職方をご紹介していきます。
まず最初にご紹介する方は向栄会会長を務める藤森工務店の宇佐見忠一氏です。
藤森工務店は昭和の名工とうたわれた藤森明豊斉の意志を受け継いだ
数寄屋建築を専門とする工務店です。
護国寺・五島美術館・根津美術館・箱根彫刻の森美術館等などのお茶室を手掛けており、
現在の宗家道場に建てられた成趣庵も、御先代の意向を受けて
藤森工務店が施工しました。
宇佐見氏は、大学卒業後藤森工務店に入社。
遠州流茶道は宗積先生に師事し、数々の数寄屋建築に携わってこられました。
昨年の3月には上田卓聖氏に社長を一任し、
自身は会長として現在も後身の指導をされるなどご活躍中です。
綺麗さびを体現するには、お茶の道具だけでは完成しません。
遠州公の目指した茶の湯の世界を演出する、一番大きな装置が茶室といえます。
茶陶や掛物等たくさんの役者達が共鳴しあいながら、
茶室という空間の中でドラマチックな展開が繰り広げられ、
茶の湯の世界がより深く豊かなものになっていきます。
〇職方さんに質問!
数寄屋建築の数寄屋とはどういう意味でしょうか?
茶室を「数寄屋」とも言ったりしますがその定義は難しいものです。
建築の歴史の中でその意味合いも変化していきましたが、
「数寄」の言葉通り、「好き」に通じ、定石の建築方法と離れ、
その方のお好みで建てるといった意味合いもあります。
また数寄屋建築では角材ではなく丸太を主役とする建物でもあります。
ご機嫌よろしゅうございます。
本日八山氏のインタビュー最終回です。
最後になってしまいましたが、
この場を借りまして改めて皆様に
御礼を述べさせてください。
昨年の九州北部豪雨では多大なるご支援
・お力添えを賜りまして深く御礼申し上げます。
おかげをもちまして、新たな窯も築窯し
火入れも間近となりました。
私本人も何かが変わったと言葉では表現
できませんが、いつかご高覧をいただき
作品を通して語り合えることを
心より願っております。
○御家元からの提言
遠州公以来の綺麗さびを象徴する高取焼の真髄を
究めるように重ね重ね精進を希望致します。
高取焼の特徴
ご機嫌よろしゅうございます。
高取焼はその時代の流れの中で作風を変化させていきました。
永満寺窯時代には厚手で荒々しさのみえる様子。
土も粘り気の乏しい土。朝鮮の技法を用いて御用の陶器を焼き始めた
八山の試行錯誤の時期と思われます。
内ケ磯時代の前半は唐津焼や美濃の影響を受けた歪みの
強いものが多く焼かれています。これまで唐津焼として
伝わっていたものの中にこの時期の高取焼であったことが
確認された作品もあります。これまでは白旗山以降と思われていた、
遠州公の影響のうかがえる優美な茶入や水指も
内ケ磯末期には作られるようになります。
主君に帰国を願い出て怒りを買い、蟄居させられた山田窯では
日常雑器などを主に焼き、作為のない素朴な作風に戻ります。
(尚、この山田窯の時代にも内ケ磯窯は五十嵐次左衛門によって
続いていたと考えられています。)
主君忠之の許しを得て、新たな御用窯を築いた白旗山窯。
この頃、茶人小堀遠州の指導による「遠州髙取」
様式がほぼ完成します。
次週は高取焼と遠州公についてのお話をご紹介いたします。
ご機嫌よろしゅうございます。
今月から高取焼のご紹介をいたします。
薩摩焼・上野焼でも触れました通り、豊臣秀吉の2度にわたる
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、西国大名たちは、
多数の朝鮮人陶工を連れ帰り、各地に焼き物の窯を開かせました。
福岡藩主黒田長政もその一人で、連れ帰った陶工・八山に
直方市鷹取山の麗に窯を築かせたのが高取焼の始まりです。
八山は日本で高取八蔵と名乗ります。
この鷹取山は、以前ご紹介した上野焼の窯元と山を隔てて
隣あった場所に位置します。
その後、慶長19年(1614)に直方市・内ヶ磯に、
寛永元年(1624)年に山田市・唐人谷に、寛永7年(1630)に
飯塚市・白旗山(現・飯塚市幸袋)に窯を移します。
八蔵はこの地で亡くなり、二代目八蔵が寛文5年(1665)に
小石原村鼓釜床に開窯。 この地が山奥で殿様がお越しになるには
難しいとのことで、その後大鉋谷窯や東皿山窯が築かれます。
以後高取家は明治まで、鼓村と城下町の両方で掛け務めが続きました。
〇薩摩焼と小堀遠州
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は薩摩焼と遠州公にちなんだお話を。
遠州公が自身の茶会で薩摩焼の茶入を使用した記録が寛永五年(1628)、遠州公49歳の9月14日朝にあります。
また、遠州公が指導した薩摩焼として有名なのが、
「甫十瓢箪」と呼ばれる瓢箪形茶入です。
遠州公の号である宗甫と、数の十個にちなんで、「甫十」と呼ばれています。
現存が確認されているものは数点で、
甫十瓢箪の一つである銘「楽」や「玉川」
が有名です。
茶入の底に「甫十」の彫銘があり、瓢箪形の耳付小茶入であるとされています。
耳の代わりに茶入の胴の二方に小堀家の家紋である七宝輪違い紋があります。
ご機嫌よろしゅうございます。先週に引き続きまして
青嶋さんにお話しを伺います。
●遠州公の時代から現在まで、志戸呂焼は瀟洒な
茶陶を生み出しています。青嶋さんも宗実御家元の
ご指導を受けて遠州好みの作品を制作されていますね。
御家元のご指導や他の作陶と違う点について教えてください。
青嶋さん:御家元のところに伺うと古いものをよく拝見させてい
ただく機会があり、部分的に形や細工を変えてみる等の細かい点も
ご指導をいただけるのでとてもわかりやすく勉強になります。
志戸呂焼は渋めの釉薬が多いので、遠州好みの端正な形や薄造りを
心掛けて茶道具以外にも取り入れています。
●利陶窯は志戸呂で唯一の登り窯と伺いました。
登り窯の大変な点を教えてください。
青嶋さん:まずは燃料の赤松を確保することが難しくなってきました。
利陶窯の周辺には無いので山梨県や長野県から運んで来ます。
●赤松を燃料に焼かれているのですか。
青嶋さん:赤松は松やにが多く見られるように、樹脂が多いので
火足が長く温度が上昇しやすいために焼き物ではよく使われています。
杉や檜でも焼いた事はありますが、時間がかかるうえに作品の
発色がよくありません。赤松は樹脂が多いためか煤(すす)が
多く燻された感じで色に深みが出るように思います。
2日かけて500点程の作品を焼くので登り窯を焼くのは年1~2回です。
500点焼いても壊れるものが多いので完成品は僅かです。
●作品が出来上がるまでには大変な苦労があるのですね。
本日はありがとうございました。
志戸呂焼 青嶋利陶さんにインタビュー
ご機嫌よろしゅうございます。
●今日は志戸呂利陶窯の青嶋利陶さんのお話を伺います。
青嶋さんはいつお会いしても穏やかで、ご一緒する時は
ほっと空気が和やかになるような優しい雰囲気をお持ちの方です。
青嶋さんはいつ頃から作陶をはじめられたのですか?
青嶋さん:父親の実家が静岡市で賎機焼という焼き物を
家業としていたのでそこで27年前に習い初めました。
その3年後に本多利陶先生に弟子入りして志戸呂焼をはじめました。
●遠州公の指導のあった志戸呂で、ご先代宗慶宗匠や
林屋晴三先生の指導もあり本多利陶先生が平成3年に金谷の地に
利陶窯を作られたのですよね。遠州公が東海道の往来で、
花器の指導をしたという話を聞いたことがありますが、
その指導を受けた作品は残っているのでしょうか?
青嶋さん:当時大名が直接作陶の指導をするという事は
あり得ないと思われるので花器の話は伝説的なものだと思います。
(次週に続く)