ご機嫌よろしゅうございます。
今月は膳所焼のお話しを。
膳所焼は遠州公との深いつながりが感じられる場所で焼かれた茶陶です。
琵琶湖の南端に位置する近江国膳所。天智天皇の頃湖畔に田を拓き、湖水の魚を取って朝廷にお供えしたことから「膳所」と称されるようになったといわれています。
1634年、膳所藩主となった石川忠総は、その父、大久保忠隣が小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人で、自身も忠総も遠州公と親交が深かったことから
その指導を受け茶器に力を注ぎました。
膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として
重宝されますが、忠総の死後は衰退していきました。
〇遠州公と伊賀焼
ご機嫌よろしゅうございます。
伊賀焼では、藤堂高虎を岳父にもつ遠州公の影響も伝わっています。
『三国誌』に「寛永年間小堀遠江守陶工をして茶器を製せしむ、其製極めて精良なり」
とあり、「遠州伊賀」と呼ばれています。「遠州伊賀」の特色は漉土にあって、それ以前の荒土の製に比べ肌が細かいことが知られています。
また「伊賀の七焼き」とも言われるように、伊賀焼の特徴である焦げや激しい造形は同じ作品を何度も窯で焼くことで生み出されるといわれることがありますが、「遠州伊賀」に関してはおそらく登り窯で一度の焼成で作られているようで、浅い火色に優美さが感じられ、「筒井伊賀」「藤堂伊賀」とはまた異なった繊細な雰囲気が印象的です。
昨年12月に根津美術館で開催された「新・桃山の茶陶」でも紹介されていましたが
伊賀焼の水指などは、藩が贈答品として用いるために大名がその生産や流通に携わっていたため、当時は市場にでまわることはほとんどありませんでした。
〇遠州公と信楽焼
ご機嫌よろしゅうございます。
この信楽の焼き物も遠州公が指導したといわれている窯の一つです。
遠州信楽は漉土を用い肉が薄く精巧を極めているといわれています。
代表的なものに長辺二方に浅い切り込みをつけ、
高台は三方に切り込みをつけた割高台風の筆洗型茶碗「花橘」
(2015年05月04日メールマガジン参照)と、
切形と呼ばれる見本をもとに焼かれた茶碗(HP参照)があります。
この茶碗は高取や志戸呂などにみられる形と同じで、
平天目形の一部を押さえ込んだ姿であり、「前押せ」といわれています。
遠州信楽の特徴である漉し土で作られたものの中でも、
極めて薄く作成された作品です。
信楽の土の味わいをいかしつつ、綺麗さびの瀟洒な美意識が投影され、
洗練された作品を生み出しました。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶の湯の中の信楽焼のお話しを。
信楽焼は先月ご紹介した珠光の「心の文」に
「ひせん物、しからき物」とあるように、
珠光が没する文亀二年(1502)までには備前や信楽の器が
茶の湯で使われていたことがわかります。
備前ともに信楽の水指の登用は早く、
15世紀頃には水指の生産が次第にはじまり、
茶会記には天正15、6年から盛んに用いられたことがうかがえます。
他の窯でも同様ですが、茶の湯道具はもともと茶陶として焼かれたのではなく、
早い時期のものは茶道具にふさわしい寸法やなりのものが「見立て」られて
水指として使われたもので、次第に茶陶の生産がはじまります。
信楽の花入は水指に比べて伝世品が圧倒的に少なく、
また作行には同時代の備前や伊賀のような強い作為は見られません。
ご機嫌よろしゅうございます。
備前焼が茶の湯に使われている様子は、侘茶の祖といわれる珠光が、
弟子の古市播磨法師にあてた「心の文」とよばれる文章でも確認できます。
「当時、ひえかる(冷え枯る)ると申して、
初心の人体が、備前物、信楽物などを持ちて、
人も許さぬたけくらむこと、言語道断也。」
初心者が備前焼や信楽焼を使うものではなく、まずは良い道具を持つことで
、その良さを十分に理解し、己の心が成長することでやがて辿り着くべきものである
と語っていますが、この焼き締めの素朴で飾り気のない陶器が侘茶を表現する茶陶として流行していたことがわかります。
来月は信楽焼についてご紹介します。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と備前焼についてのお話しを。
遠州公の指導によって生み出されたとされる備前焼はいくつかありますが、
なかでも藤田美術館所蔵の烏帽子箱水指は遠州公が「えほし箱」と箱書しています。
菱形に成形された姿を烏帽子の箱に見立てたと考えられています。
このような形の水指は(伊部手に)比較的ありますが、中でも作行の優れたものとしてこの水指は有名です。
また中興名物に挙げられている「走井」茶入は唐物丸壺を手本として作成されたと考えられます。桃山末期から江戸初期には塗土を施した茶陶が焼かれますがこれを伊部手と呼んでいます。この茶入にも塗土が施されていて、光沢ある肌に灰がかかり、胡麻釉とよばれる黄褐色の景色が特徴的です。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は備前焼の特徴をご紹介します。
備前焼は釉薬を一切使用せず、1200〜1300度の高温で焼成します。二週間以上焼きしめるため、投げても割れないと言われるほど丈夫で大きな甕や壺が多く作られました。
備前焼の土は、100万年以上前に山から流出し蓄積された土の眠る田畑から採掘されます。きめ細かく粘り気があり鉄分を多く含みます。この鉄分が備前焼の茶褐色の地肌を作り出します。
備前焼では絵付け施釉などを行わないため、全ては土と火にゆだねられます。
窯への詰め方や温度、焼成時の灰や炭などの具合で生み出される景色が、世界に一つの作品を作り出します。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と朝日焼についてのお話しを。
朝日焼は慶長年間(1596~1615)、奥村次郎右衛門籐作(生没年不詳)が宇治朝日山に築窯したことが始まりとされています。
初代藤作の作った茶碗は豊臣秀吉に愛玩され、御成りあって以後藤作を陶作と改め、家禄を賜ったと伝えられています。
そして正保年間(1644~1648)に、当時茶の湯の第一人者であり、宇治に隣接する伏見の奉行をしていた遠州公の指導と庇護を受け、遠州筆の「朝日」の二字を使うことを許されたといわれています。
茶碗に印を残すという行為は当時珍しかったようです。
また遠州公は宇治の茶師である上林家との交流もありました。
朝日焼は宇治のお茶を壺に詰めて納めるときに、「このお茶碗で召し上がってください。」
茶碗を添えて送ったといわれ、宇治茶の発展に伴って進物として需要が高まりました。
そして、遠州好みの茶陶として公家や茶人をはじめ全国の大名に広く知られ好まれるようになりました。
ご機嫌よろしゅうございます。
今週からまたテーマを遠州公の指導した茶陶に戻りまして、お話をしてまいります。
今回は朝日焼。
京都の南、宇治川の流れと山々の緑。
豊かな自然に恵まれた宇治は平安時代、貴族の別荘地でした。平等院鳳凰堂でも知られるこの地ですが、京都のにぎやかさとは異なる穏やかな時の流れを感じます。
宇治川の朝霧に守られながら栽培される抹茶は、栂尾と並び第一の産地に。
天下人達が宇治の茶を好んで求めました。
そしてこの宇治川の源流となる琵琶湖から流れくる土が粘土となり、朝日焼に使われる陶土となりました。
宇治此の頃は茶の所となりて
いづこもいづこも皆(茶)園なり
山の土は朝日焼の茶碗となり
川の石は茶磨となる
竹は茶杓茶筅にくだかれ
木は白炭に焼かれて茶を煎る
と江戸時代初期の北村季吟が、山城の名所名勝記「兎芸泥赴」に記しています。
宇治という土地で「茶」というものの存在がいかに重要であったかが伝わります。
そしてこの地で焼かれた朝日焼は、後に「遠州七窯」の一つとして数えられるようになりました。
次回は遠州公と朝日焼についてご紹介致します。
宗家研修道場の稽古や遠州流茶道の茶会では「源太萬永堂」の
お菓子をよくいただきます。
源田萬年氏は、修業先で戸川宗積先生のお稽古場にお菓子を納めるようになり
その後独立、宗積先生から本名の「源田」にちなんで、歌舞伎「悪源太」から
「源太」の名前をいただきました。
悪源太は豪勇で知られた源義平のあだ名。強いという意味と源が太るという
縁起の良い字ということでこの名がつけられました。
以来50年、都内の茶室をほとんど知りつくし、その茶室の照明を考慮に入れた上で、
季節やテーマに沿った取り合わせを考えます。
御子息の恒房氏も大学卒業後、父・萬年氏に師事、共に四季折々の菓子を作り出しています。
最近御家元にご指導いただいた中で印象に残っているのは、昨年の東京茶道会の2月、招待茶会のお見本をお届けしたときということで、その際のお話を伺いました。
「例年は新春の茶会ということで梅をモチーフにした菓子をご提案させて頂いておりますが、前年御家元が華甲をお迎えになられたこともあり、もっとおめでたい感じに祝意を表したものにしてはどうかとお話しを伺いましたので、酉年にも因んだものとして
丹頂をイメージしたものをいくつかお持ちいたしましたが、単に丹頂ではありきたりな見慣れた雰囲気で物足りなく思うとご指摘いただきました。
どうしたものかと思っていたところ、見本の中の茶巾絞りでお持ちしたものを
お家元がお手持ちの鶏の香合のような形で出来ないかとお話しがありました。
鶏は新しい年の日の出とともに一番最初に鳴く「明けの鳥」で大変縁起の良いものとされています。
いいアイデアを頂いたので、それなら工夫してなんとか形にしてみようと思いました。
思ったよりもなかなか難しく、最初は思うような形にならなかったり、揃わなかったり、頂点の感じが上手くいかなかったりと、多少苦戦しましたが、、、
当日お届けしてご覧頂いた時にこれならいいんじゃないかというような一言で及第点はいただけたのかなと一安心しました
もうひとつ思案していた菓銘も「鶏頭」となるほどと思うぴったりな(絶妙な)ものを付けて頂きました。席中でも御常家元のご趣向に皆様からも好評でした。」
お茶席で出会うお菓子の一つ一つに込められた意味と想い、
それらを心で感じながら大切にいただきたいものです。