皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
新米がとても美味しいですね。
本日は新嘗祭です。
≪祝祭日:新嘗祭≫
新嘗祭は、天皇が新穀を天神地祇(てんじんちぎ)にすすめて、感謝の祭りをし、また自らも新穀を食せられる儀式です。
天神地祇とは、詳しい説明は避けますが、天津神、国津神のことで、「津(つ)」は「の」という意味であり、つまりは「天の神」、「国の神」に新穀を捧げる祭儀、ということです。
新嘗祭は数ある祭儀の中でも特に重要なものとされており、もとは天照大神が行ったと神話にあります。
飛鳥時代の皇極天皇の時から毎年11月に行われるようになり、一時中断する期間もありましたが、現在では毎年11月23日に伊勢神宮をはじめ、全国各地の神社で行われます。
祭典の方式は祭祀令の規定するところに従い、3つに分けられた儀式を天皇・皇太子が1日かけて行います。
全国の神社でも祭事は行われ、その年の収穫に感謝を捧げます。
ちなみに、唯一、出雲大社だけは、古伝新嘗祭といって他と異なる方式で祭事を行います。
もしご興味のある方は、参観できる神社もありますので、祭事にご参加されてみてはいかがでしょうか。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
≪食べ物:白菜≫
お鍋の中でぐつぐつ煮える白菜に出会う季節となりました。
11月上旬に収穫期を迎える白菜は、お鍋はもちろん、漬物や煮物など、様々な形となって食卓に並びます。
原産は華北・満州で、結球白菜と、不結球白菜の二種があります。
日本には昔からあるように感じますが、なんと入ってきたのは明治8年(1875)、中国から東京博物館に出品されたのが始まりとされています。
その時には栽培に至りませんでしたが、その後、日清、日露戦争で出征した軍人が大陸で白菜を認識して帰り、栽培に成功しました。
白菜は現在、日本全土で栽培され、種類も、山東白菜、茨城白菜、愛知白菜など多種にわたります。
ちなみに台湾の故宮博物館の三大至宝の1つと言われているのが、「翠玉白菜」です。
半分が白、半分が緑のヒスイ輝石で、上部にはキリギリスとバッタが多産の象徴として彫刻されており、大変美しい作品です。
来年、東京国立博物館で開催される『台北・故宮博物院展』に海外で初めて出展されるとのことで、注目を集めています。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
昨日の七五三に因んで、千歳飴のお話をいたします。
≪食べ物:千歳飴≫
起源は、元和年中(1615~1624)、大坂で初めて水あめを作った豊臣家の平野甚右衛門が、江戸へ出て浅草寺の境内で売り始めたという説と、また元禄宝永のころ、江戸の飴売り七兵衛が、その飴を千歳飴あるいは寿命飴と呼んだのが初めてとする説の2つがあります。
梱包する袋には、鶴亀や、松竹梅、翁、大婆が描かれ、縁起の良い図案が載せられます。
また、飴が神社に結びつくのは、飴が供物であったからとされています。
細長い千歳飴を食べると長寿になるとされ、子の成長を願います。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は七五三です。
≪年中行事:七五三≫
七五三は3歳・5歳・7歳の子供の成長を祝う日本の年中行事です。
もとは吉日を選び、一定の日を選びませんでしたが、江戸時代、徳川綱吉の子・徳松の祝がこの日に行われたことから、11月15日に七五三を行う風習が生まれました。
3歳・7歳は主に女児の祝で「帯の祝」といって付紐を取って帯を締め始めます。
5歳は主に男児の祝で、「袴着の祝」といって袴をつけます。
七五三という名称が全国的に一般化されたのは明治以後で、商業政策によって盛大化し、関西でも盛んに行われるようになっていきました。
7歳に「紐通しの祝」といって、帯をし始めます。
この年から幼児は一人前の生存権を認められたこととなり、「7つ前は神の子」とされてきた子供にとって、第2の誕生ともいうべきものでありました。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は「選日」のひとつ、不成就日です。
≪選日:不成就日≫
不成就日は、何をやっても不首尾の結果を招く凶日とされ、昔から事を起こすには用いてはならない日とされており、婚礼、開店、柱建て、新生児の命名、移転、使用人の雇用、契約事、相談事などは見合わせたほうがよい日とされています。
干支・六曜・十二支などとは関係がなく、陰陽から生まれた説もありますが、根拠は明らかになっておりません。
いつの日がそれにあたるか、と申しますと、1年を2つに分け、各月の順に3・2・1・4・5・6の日とそれから9日目の日を不成就日としています。
つまり、
1月・7月は3、11、19、27日。
2月・8月は2、10、18、26日。
3月・9月は1、9、17,25日。
4月・10月は4、12、20、28日。
5月・11月は5、13、21、29日。
6月・12月は6、14、22、30日。
となります。
また、不成就日は不浄日(ふじょうにち)ともいわれ、特に正月3日を初不祥の悪日といって、何もしない日とされています。
皆様ごきげんよろしゅうございます。
本日は遠州流茶道の支部の1つである男鹿支部についてお話します。
《支部:男鹿支部》
昭和38年に、秋田県男鹿市で発足した男鹿支部は、先代の紅心宗匠が家元を継承した後に初めて発会した支部です。
これまで昭和48年と、平成元年に2回全国大会を開催しており、多くの会員数を誇る支部として長く活動されてきました。
男鹿支部のある男鹿半島は出羽山脈の西端に位置し、長い時を経て島から半島になったもので、鯛、サザエ、アワビなどの海の幸と、梨、メロンなどの山の幸に恵まれ、奇勝絶景の地域として知られています。
また、なまはげのゆかりの地でもあり、毎年冬に祭りが開催され、多くの観光客が訪れています。
今年は発会から50年の節目の年。
これからのさらなる発展に期待がされています。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
今から37年前の10月、歌舞伎座でどんな演目が上演されていたかご存知でしょうか。
本日はそのことについてお話ししたいと思います。
≪これまでの行事1:歌舞伎『小堀遠州』≫
1976年10月、歌舞伎座では『小堀遠州』が上演された。
田中喜三作、戌井市郎演出、そして先代の紅心宗匠が監修をし、遠州、織部、細川忠興の三者を中心とし、史実を基にして物語が作られた。
主役の小堀遠州を演じた17代目の市村羽左衛門は、後に人間国宝となる名役者で、8代目坂東彦三郎の父親である。
物語は、遠州が起こした将軍の公金一万両流用事件を、ライバルであった細川忠興が、遠州との問答の末、遠州の茶の湯に対する心を認め、手を差し伸べて解決する、というものであった。
この演目は、その年の脚本の中で、「芸術的純正度のみに偏らない、特に娯楽性に富んだ」脚本に対して与えられる『大谷次郎賞』を受賞した。
現在でも『大谷次郎賞』の解説があるHPのページには、はっきりとその写真の中に『小堀遠州』の脚本表紙が見て取れる。
また月刊『遠州』の昭和53年7月号~10月まで、この演目の脚本が写真入りで連載されているので、もしご一読されたい方は大有にてお求め頂きたい。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
「十団子」を知っているだろうか。
静岡県の打津の峠にさしかかったところの名物として当時知られていた団子である。
その団子がなぜ十団子かというと、容器から杓で掬うとき、必ず一度に十個ずつになるからだという。
早速その技を見せるように命じた遠州は、店主の女房が自在に団子を掬う様を見物し、時間を忘れて楽しんだという。
その後、十団子は小豆粒ほどの固い小さな団子を数珠のように連ねた新たな十団子が登場し、こちらの方が有名になります。
遠州が見た技はもはや現代では見ることは叶いませんが、今でも近辺は江戸時代を感じさせる住まいが残っています。