テディベアと遠州流

2014-7-4 UP

7月 4日 テディベアと遠州流

ご機嫌よろしゅうございます。

皆さんはテディベアご存知でしょうか?
このクマのぬいぐるみは、子供から大人まで
広く愛されています。

シュタイフ社(Steiff)は、1880年にドイツで誕生し、
世界で初めてテディベアを作りました。
職人の手作業で一体ごと丁寧に作られています。
このシュタイフ社では世界限定ベアを制作しています。

例年この限定物は瞬時に売り切れてしまうそうです。

この夏
お家元監修の茶道テディベアがシュタイフ社発売されます。

詳細はまた後日に

今回の限定テディベアは世界限定1500体。シリアルナンバーが刻まれた証明書が付いているそうです。

夏越の祓(なごしのはらい)

2014-6-30 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
 今日は6月30日 「夏越の祓」という行事が
 行われる日です。
 旧暦の六月は、夏の終わりの月ということで「夏越の祓」と
 呼ばれます。一年の前半が過ぎたところで、
 その半年の穢れを祓う行事です。
 
神社では大きな茅(ちがや)の輪が飾られ、
 参詣者がその輪をくぐり、厄除けを祈願します。
 この行事は神話に由来しています。
 
スサノオノミコトが、かつて旅先で宿を与えた一族に対して
 茅の輪を渡し、それを身につけた一族の子孫であれば
 疫病から逃れられる
 と記された「備後国風土記」に由来します。
 (一方宿を断った弟の家は滅ぼされてしまいます。)
 宿を与えた人物の名は「蘇民将来(そみんしょうらい)」といい、
 この名は茅の輪くぐりの時に唱えられたり、
 「蘇民将来子孫家門」と書いて家の入り口に貼る
 風習が残っています。
 
宗家の近くでは、東京大神宮でこの茅の輪が飾られますので、
 半年の厄を払いに、足を運ばれてはいかがでしょうか?

荒木村重の末裔・岩佐又兵衛

2014-6-29 UP

6月 29日 荒木村重の末裔・岩佐又兵衛

岩佐又兵衛は先週日曜日にご紹介しました
荒木村重の子供です。

又兵衛が生まれた翌年、村重が信長に反旗を翻し、
一族のほとんどが惨殺されてしまいます。
しかし赤ん坊だった又兵衛は落城間際に乳母に救い出され,
幸いにも生き残り、本願寺に預けられたとされています。

その後、岩佐という母方の姓を名乗り、京に住んで絵師となりました。

その才能を買われ、40歳頃から20年ほど
福井藩で絵師として藩主や有力者の御用を務め
その後三代将軍徳川家光の娘・千代姫が
尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ
江戸に移り住みます。

浮世絵の先駆者として名高い人物です。

遠州青年の日

2014-6-28 UP

6月 28日 遠州青年の日

ご機嫌よろしゅうございます。

慶長十二年(1607)6月28日は遠州公が29歳の時に
参禅の師である円鑑国師(春屋宗園)
の頂相(ちんぞう)に賛をいただいた日です。

頂相は師または高僧の肖像画を描いたもののことです。
禅宗においては非常に重要視されていました。

この頂相、絵はまだ書かれておらず、円鑑国師は白紙の状態で
先に賛を書いたことになります。

当時は絵を描く前に賛を書いたり、
生きているうちから自分の姿を描かせる寿像というものが
ありました。(詳しくは「小堀遠州の書状」江月宛 鉄鉋の文を参照)→鉄の後の字が変換できませんでした。

この6月28日を遠州青年の日として、
門人が改めて遠州流を学ぶ日とするため
設けられました。

お点法を復習したり、
歴史や道具について調べて見たり
今日はじっくり茶の湯に向き合ってみてはいかがでしょうか?

豆腐のように、、、

2014-6-27 UP

6月 27日 豆腐のように…

ご機嫌よろしゅうございます。
長い梅雨もあと少し、本格的な夏の到来が近づいてきました。
豆腐も冷奴が美味しい時期になりますね。

今日は3月23日に「懐石と菓子」というテーマで行われた
公開討論会において、お家元がお話しくださった
豆腐の話をご紹介します。

松平不昧の歌に

世の中は丸で四角で三角で
豆腐のように飽きられもせず

という歌があります。
なるほど豆腐という食材は形を様々に変え、
また冬には湯豆腐、夏には冷やして
常に人々に愛される食材です。
こんな豆腐のようにどんな状況にも順応し
ていける人間になりたいものです。

さて、豆腐にはよく、紅葉の型抜きにした人参が添えられている
のを目にするのではないかと思います。

この不昧公の歌にも、豆腐に添えられた
紅葉の人参が描かれた絵があります。
この紅葉には実は意味があるそうで、

・豆腐にこうよう(紅葉→効用)がある
ということ、また
・よくこうよう(買うよう)に
というかけ言葉になっているのだそうです。

彩りというだけではなく
紅葉の人参にこんな意味がこめられていたのですね。

遠州公の会席

2014-6-20 UP

6月 20日 遠州公の会席

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は遠州公が会席で使用した「角切らず」の縁高について。

私達がよく目にする縁高は、
木地に漆をかけた、いわゆる塗り物が
ほとんどではないかと思います。

遠州公の時代、
木地のままの器が会席でよく使用されました。
漆をかけていないので、当然器に盛った食べ物
の汁などで染みができてしまいます。
そのお客様のためだけの、一度きりのもの
という意味で、使い回しのきかない
木地の器は、当時塗りものよりも正式なものでした。

遠州公の会記には
「木地 縁高 角不切(すみきらず)」と書かれており
一枚のへぎ板( 鉈を使わず手で割いた板)
で切らずに作った大変手間のかかる器を使用しています。

いい塩梅(あんばい)

2014-6-18 UP

6月 18日 いい塩梅(あんばい)

ご機嫌よろしゅうございます。

梅雨の季節は梅のなる頃というお話を
昨日いたしました。

梅といえば
「いい塩梅」という言葉がありますが、
これはお塩とお酢のことです。
塩は人体に不可欠なもの
また食酢が普及する以前は、梅の塩漬けで出来る
梅酢が利用されました。
ここから味加減のことを「塩梅」という言葉が生まれます。
この塩と酢が日本の調味料の原型です。

これに後々醤油やひしおが加わっていきます。
古来、上流階級の料理は、食事とともに調味料が出され
食べる本人が味をつけて食べるスタイルでした。
それが茶の湯において限られた空間の中、
食事をいただくようになってはじめて
(調味料を出せないため)予め味付けをしてお出しする、
現在に通じる調理法と
なったのです。

現在月刊「遠州」に掲載中の宗有公の「数寄記録」
において12ヶ月の献立が記されていますが、ここで

「夫(それ) 会席の献立 趣向 塩梅は
浜の真砂にて 何ぞ極まらむ」

と書かれています。

2014-6-17 UP

6月 17日 梅

ご機嫌よろしゅうございます。

うっとおしい梅雨が続きますが、
「梅雨」の語源は、梅の実が熟す季節に降る雨
といわれています。

初春に美しい花を咲かせていた梅は、
この時期、丸くて青い実をつけます。

梅酒につけるには青くてかたい実を
梅干しは完熟のものが適しています。

梅干しは平安時代には既にあったようで
当時は、熱さましなどの薬用として食されていました。

戦国時代、武将達は
食糧袋に「梅干丸(うめぼしがん)」
を常に携帯していたそうです。戦場で倒れたときや元気を失った
時、 また合戦中の休息に梅干しを見て唾液分泌を盛んにし
脱水症状を防ぐ目的にも使われました。
梅干しは戦略物資の一つとなり、
武将たちは梅の植林を奨励したそうです。
現在でも梅の名所や梅干しの産地として残っています

和菓子の日

2014-6-16 UP

6月16日 和菓子の日

ごきげんよろしゅうございます。
今日6月16日は「和菓子の日」です。

848年(承和15年・嘉祥元年)の夏
豊後の国(大分県)が献上した白い亀を吉兆として
元号を「嘉祥」と改めます。この改元を祝い、
仁明天皇が6月16日に16の数にちなんだ菓子や
餅などを神前に供え、疫病除けや健康招福を
祈願した故事から、昭和五十四年(1979)に
全国和菓子協会によって制定された記念日です。

この慣わしが、様々に形を変え、
健康招福を願う行事が明治時代まで盛んに行われてきました。

江戸時代には嘉祥は重要な儀式と位置付けられ、
江戸城の大広間に約2万個の菓子が並べられ、
将軍自ら大名などに手渡すという儀式があったそうです。
しかし将軍が手ずから菓子を与えるのは最初だけで、
以後は途中で奥へ退出してしまい、大名・旗本は自ら菓子を
とっていきました。
2代将軍秀忠までは、将軍自ら菓子を与えたので
数日肩が痛かったとか。(「虎屋文庫」)

会席と懐石

2014-6-13 UP

6月 13日 会席と懐石

ご機嫌よろしゅうございます。
きょうは「かいせき」のお話を。

「懐石」と「会席」
同じく「かいせき」と読みますが、
この違いご存知でしょうか?
三月に行われました、「懐石と菓子」を主題とした
公開討論会で、冒頭お家元が解説してくださいました。

茶事で使われてきた漢字は本来「会席」のほうでした。
「懐石」の字が現れるのは元禄三年(1690)
利休没後百年に立花実山が書いたとされる「南坊録」から

「懐石」には 修行僧が、温めた石(温石)を腹に当てることで
空腹をしのいでいたことから懐の石という字が当てられており、
華美に走る傾向にあった当時の茶の湯に警鐘を鳴らす意味で
実山はこの字を当てたと考えられます。

酒井宗雅や松平不昧、井伊直弼などの大名、石州系ではこの
「懐石」の字をよく使っていたようで
一般的に使われるようになるのは明治頃からです。

遠州公の時代より古くから記録に残るのは「会席」
の方で、遠州流ではこれに習い、「会席」の字を用います。

普段私達が料亭で目にする「懐石」のお料理は
とても、修行僧の禅の精神からくる言葉とは結びつかない
豪華さで、語源を聞くといささか違和感を覚えます。