遠州公の愛した茶入

2014-9-13 UP

9月13日 遠州公の愛した茶入
「廣澤(ひろさわ)」

ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「廣澤」をご紹介します。

廣澤は千年を超える月の名所です。

釣鐘型のこの茶入は

澤の池の面に身をなして
見る人もなき秋の夜の月

という古歌にちなんで、
遠州公が銘をつけたとされています。
これほどの茶入を今まで見る人もなかった
という心からの銘とのこと。

この「廣澤」には蓋裏を銀紙で貼ると伝承されて
います。月の銘を持つ茶入に相応しい趣向です。

遠州公自身が茶会で使用した記録は見つからず、
内箱に金粉字形で「廣澤」と書き付けています。

遠州公所持の後、松平備前守、土屋相模守、
朽木近江守昌綱が所有。
松平不昧公が羨望したものの手に入れることが出来ず
天保の頃、姫路酒井家が所蔵。
現在は北村美術館に収蔵されています。

厄日と台風

2014-9-11 UP

9月11日 厄日と台風

ご機嫌よろしゅうございます。

夏のうだるような暑さからまだ抜け切らない頃
ですが、今度は台風の到来です。

「二百十日」は、「彼岸」「土用」などと同じく
「雑節」の一つです。
「立春」から210日目(9月1日ごろ)をいいます。

この頃は稲の開花期にあたり、台風がよく来るので
農作にとっては厄日とされています。

そして今日は二百二十日(にひゃくはつか)
立春から数えて220日目

八朔(旧暦8月1日)、二百二十日とともに
台風の来襲しやすい時期として三代厄日として
昔から数えられてきました。

この頃に吹く風を「野分」と呼んでいます。
江戸時代季語としても盛んに詠まれました。
厳しさ、荒々しさをはらんだ秋の風です。

芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな         松尾芭蕉

袱紗をつける位置

2014-9-5 UP

9月5日 袱紗をつける位置

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は袱紗を腰につける位置について

お茶を点てる際、点法で使う袱紗を
腰につけますが、これを右につける流儀と
左につける流儀があります。

遠州流は右側です。その理由は

近衛家の待医師であった山科道安が、近衛予楽院の言行を
日記風に著わした「槐記」という
文献の中にこんな記述があります。

宗旦は生まれ付き左利きにてあり故に…

千宗旦は利休の孫にあたり、後にその子供達が表千家、
裏千家、、武者小路千家をつくっていきます。

つまり宗旦から広まった千家流では
袱紗を左につけているということのようです。

要するに利き手の違い。
右利きだった茶人は、当然右につけていたと考えられます。

その違いが今お流儀の点法の違いにつながっていく
のだとすると、面白いですね。

虚堂智愚(きどうちぐ)

2014-9-4 UP

9月4日 虚堂智愚(きどうちぐ)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は南宋時代の高僧「虚堂智愚」について
お話をしたいと思います。

虚堂智愚は、四明象山(浙江省)の出身。
諸刹に歴住し、宋の理宗と度宗の帰依を受けた高僧で
日本から入宋した多くの禅僧が参じました。
とりわけ宗峰妙超(大燈国師)の師である
南浦紹明(なんぽしようみよう)はその法を継いで
帰朝し,大徳寺,妙心寺両派によってその法脈を今に伝えています。

後に茶道が大徳寺派の禅と密接な関係をもって発展することから
虚堂の墨跡は大変珍重されました。

その有名なものに「破れ虚堂」があります。
武野紹鴎が愛玩し、後に京都の豪商大文字屋が手に入れます。
ところが寛永14年(1637)、使用人が蔵に立てこもって
この掛け物を切り裂き、自害するという事件が起こりました。

この事件により「破れ虚堂」という名称が生まれ、
皮肉なことにその名声もこれまで以上に広まりました。

江戸時代後期に松江藩主、松平不昧が入手し、
永く雲州松平家に伝えられました。

現在ではどこが破れたのかわからないほど綺麗に
修復されて、現在は東京国立博物館の所蔵となっています。

今日はその虚堂智愚のご命日にあたります。
(1185ー1269)

やさいの日

2014-8-31 UP

8月 31日 やさいの日

ご機嫌よろしゅうございます。
きょうは8月31日、やさいの日です。

16世紀に来日したイエズス会士たちの報告には
当時の日本の食事について

―本来甚だ肥沃にして僅かに耕作することにより、
多量の米を得、即ち当国の主要なる食料なり。
又、麦、粟、大麦、カイコ豆、其の他豆類数種、
野菜は蕪、大根、茄子、萵苣(ちしゃ)のみ、
又、果物は梨、石榴、栗等あれども甚だ少なし。
肉は少なく、全国民は肉よりも魚類を好み、
其の量多く、又、甚だ美味にして佳食なり。
(永禄9年ビレラ書簡)

とあり、大根、茄子などを食べていたことがわかります。

それらももとは外来種で、日本原産の野菜と考えられるのは
フキ・ミツバ・ウド・ワサビ・アシタバ・セリなど。

白菜やトマト、玉ねぎのような
現在私たちが毎日のようにいただく野菜のほとんどは
江戸時代~明治以後に日本に入ってきたもの
ということに驚きます。

虫聞き(むしきき)

2014-8-27 UP

8月 27日 虫聞き(むしきき)

夏の夜
虫の音が聞こえると、
暑さも少し和らぐような気がします。

東京向島の百花園では例年「虫ききの会」
が開かれます。

虫ききの会の始まりは、
天保二年(1831)
仏教の不殺生の思想に基づいて、
捕らえられた生き物を、山野や沼地に放って
供養する仏教の儀式「放生会(ほうじょうえ)」
が原型。

向島百花園では、天保二年に没した
初代佐原鞠塢(さはらきくう)を追善するために、
縁者が「放生会」を行ったことが始まりといわれ
明治には来園者が虫の音を楽しむという企画ができ
今日の夕涼みをしながら楽しむ夏の風物詩
「虫ききの会」になったそうです。

江戸後期、仙台出身の骨董商だった
佐原鞠塢(さはら きくう)が開いたのが
植物庭園「向島 百花園」です。
太田南畝や酒井抱一などの文化人が
佐原鞠塢のもとに集いました。

鶏卵素麺

2014-8-26 UP

8月 26日 鶏卵素麺

ご機嫌よろしゅうございます。

夏になると食べたくなる素麺。
今日はその素麺の姿をした甘いお菓子
「鶏卵素麺」をご紹介したいと思います。

「鶏卵素麺」はその名の通り氷砂糖と卵黄で、
素麺状つくられたお菓子で、安土桃山時代にポルトガルから
伝来したといわれています。

江戸時代に出島で製法を学んだ松屋利右衛門が
1673年に博多に戻って販売を開始し、
延宝年間に福岡藩三代目藩主の黒田光之に鶏卵素麺を献上し
御用菓子商となったといわれています。

森八の「長生殿」、大和屋の「越の雪」に並び
日本三大銘菓の一つに挙げられることもあります。
(鶏卵素麺のかわりに「山川」が数えられることもあります。)

卵のコクと甘み、しゃりっとした食感が独特で
一度食べるともう一つ食べたくなる銘菓です。
お茶席でもいただきやすいよう、
最近では素麺を昆布で束ねた形のものも
販売されているようです。

処暑(しょしょ)

2014-8-23 UP

8月 23日 処暑(しょしょ)

初秋や海も青田の一みどり
芭蕉

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は24節気でいう「処暑」
処暑とは、暑さが終わるという意味です。

『暦便覧』では
「陽気とどまりて、初めて退きやまむとすれば也」
とあります。
台風襲来の特異日ともされており注意が必要です。

とはいえまだまだ昼間は暑い日が続きますが、
朝夕は涼しい風が吹いて、
過ごしやすい日も増えてくる頃ではないかと
思います。

それにしても今年は5月から30度を超える日が
続き、夏が長く感じられます。

今宵は月を眺めてみませんか?

2014-8-21 UP

8月 21日 今宵は月を眺めてみませんか?

ご機嫌よろしゅうございます。

十五夜に限らず、特定の月齢の月が出るのを待ちながら
飲んだり食べたり、宴を開いて楽しく過ごす

そんな「月待ち講」という
行事が江戸時代に流行しました。

特に旧暦7月の26日、

人々は飲んで騒いで楽しいひと時を過ごしながら
二十六夜の細い下弦の月が出るのを
待ちました。

明るい電気と絶えず流れるテレビの映像に
つい見入ってしまう現代とは比べものにならないほど
時がゆったりと流れ、
豊かな楽しみ方だなあと感じます。

今日はその二十六夜です。
月がでるまで宴会を…とまではいかずとも
お休み前にほんの少し夜空を見上げてみませんか?

清少納言も食べていたかき氷

2014-8-20 UP

8月 20日 清少納言も食べていたかき氷

ご機嫌よろしゅうございます。

暑い夏に食べたくなるかき氷
実は平安時代にも同じようなものがあったようです。

清少納言は「枕草子」の中で
かき氷を「あてなるもの」つまり
上品なものの中に挙げています。

削り氷にあまづら入れて
新しきかなまりに入れたる
水晶の数珠 藤の花 梅の花に雪の降りかかりたる…

削った氷にアマヅラの甘い煮汁をかけたものを金属の器にのせる。
氷の冷気で金属の器も冷え、水滴がつく様子も
見ていてとても涼しげだったことでしょう。

もっとも今のように氷がいつでも手に入る時代では
なく、氷室と呼ばれる天然の貯蔵庫に保存していた氷を
削ったもので、当時は大変貴重なものでした。

カキ氷が庶民の口に入るようになったのは
氷が比較的入手しやすくなった明治になってから
のようです。