12月 24
ご機嫌よろしゅうございます。
いよいよ今年も残すところあと一週間と なりました。
大晦日の年越しに欠かせないものといえば、 年越し蕎麦。
この風習は江戸時代から定着したといわれています。
蕎麦のように、“細く長く”ということから
「健康長寿」「家運長命」などの縁起をかついで
また他の麺類よりも切れやすいことから
「今年一年の災厄を断ち切る」ということから
食べられるようになったという説もあります。
また年末の茶の湯の菓子としては、蕎麦饅頭が出されたり、
宗家の除夜釜では、蕎麦粉を練って茹でたものに
温かい餡をのせて頂く「蕎麦がき」が振舞われます。
お客様の到着にあわせて茹で上げられる
この蕎麦がき。蕎麦と餡の優しい甘みは絶妙です。
この蕎麦がきをいただきながら
一年を振り返り、年の瀬を迎える喜びが
じわじわと湧いてきます。
12月13日 心の駒(こま)
ご機嫌よろしゅうございます。
今年も残すところあと数日となりました。
茶の湯では年の初めに用いた干支のお道具を
この年末に再び使って、
一年を振り返りつつお茶をいただきます。
宗家の稽古場では、家元が今年好まれた
「手綱・七宝文」の茶碗が再び使われていました。
遠州公自詠の和歌に
よしやただ 心の駒は あれぬとも
ついにのりしる 道を尋ねむ
という歌があります。
駒というのは馬のことで
どんな荒馬であっても、その御し方次第で
最後にはその荒馬も乗りこなすことができる
ということから、
激しい変化に翻弄される日々の中にあっても
己の心を正しく持ち、荒馬のごとく
乗りこなすことができれば、仏の世界を知り
立派な人間となることができる
ということを表した歌です。
遠州公の時代から400年以上経った今
世の中は便利なものに溢れ、豊かになりました。
しかし、私たちの心はどうでしょう?
どのような状況にあろうとも、
己の荒馬を乗りこなし、
自在に操れるようにありたいものです。
12月 12日 金森宗和(かなもりそうわ)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と同時期に活躍した茶人
金森宗和についてご紹介します。
天正十二年(1584)、秀吉のもとで
飛騨の国を預かる可重(ありしげ)を父に、
嫡男として生まれます。
しかし、慶長十九年(1614)の大阪冬の陣で
の徳川方を批判したことで父・可重に廃嫡され、
母とともに京都へ移り住みます。
その後、遠州公や、松花堂昭乗などと交流を
深める中で、茶の湯についても大きな影響を
受けていきます。
京都や大阪周辺の町人は「宗和流」
と称して、宗和の茶を好み学ぼうとしたようです。
織理屈
綺麗きっぱは遠江
お姫宗和に
武蔵宗旦
という言葉があるように、公家との交流も深める中で
姫好み、公家好みの印象が強い宗和ですが、これは
後代に生まれた印象のようです。
明暦二年(1656)73歳でなくなります。
12月 9日 事始め(ことはじめ)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は、昨日少し触れました「事始め」について
ご紹介します。
師走に入って、一年を振り返り、そして
新年を迎える支度を始める時期
煤払いや、松飾り、餅つきなどの正月準備が
いよいよはじまります。
これを「事始め」の日といい、
関東ではコトノカミの祭祀を行う八日
に始まるといわれ、
江戸時代には陰陽道の影響から、
陽数(縁起の良い数)である十三から、
十二月十三日が江戸城の「御煤納め」と定められ、
この日が「正月事始め」とされるようになりました。
関西でも十三日が「婚礼日以外全て吉」
といわれる「鬼宿日」であることから、
十三日が事始めという地域も多いようです。
12月 8日 臘八(ろうはち)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は12月8日。
お釈迦様が悟りを開いて仏となった日で
臘月(12月の異名)の8日であることから
臘八とよばれます。
35歳のお釈迦様が、12月1日から7日にかけて、
菩提樹の下で瞑想し、明けの明星を
見て悟りを開いたのだそうです。
成道会(どうじょうえ)、臘八会(ろうはちえ)
とよばれる法要が多くの寺院で行われ、
乳粥がふるまわれたりします。
また関東では、
新年への準備をはじめる「事始め」の日
でもあります。
これについてはまた明日ご紹介します。
12月5日 越の雪(こしのゆき)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日はお菓子のお話を。
日本三大銘菓とよばれるものには
「長生殿」、「山川」、
(これに鶏卵素麺がはいることも)
そして今日ご紹介する「越の雪」
があります。
まるで雪が降り積もってできたような風合い
サイコロのような形のその白く可愛らしいお菓子は
一つ口に入れると、ほろっと溶けて
優しい甘みが広がります。
安永7年(1778年)に長岡藩9代藩主だった牧野忠精公が
病に伏されていた際、 作られたのが「越の雪」の始まりです。
これにより、忠精公から『越乃雪』の名をいただき、
文化6年(1809年)には藩の贈り物用菓子の御用達
となりました。
藩主や藩士の参勤交代の折、贈答品として大変活躍した
ようです。
12月 4日 遠州椿
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公は茶湯や作事、様々な分野で活躍し、
当時の文化に影響を与えますが、
その影響は着物の文様にも残っています。
着物の文様に「遠州椿」というものがあります。
もともと連歌師が好んで栽培したことや、
江戸時代に入って徳川秀忠や大名が好んで栽培したこと
から、「百椿図」と呼ばれる椿の姿が描かれた本が刊行されたり、
庶民の間でも椿が流行し、様々な品種がつくられ、
より鑑賞的な要素が加わりました。
遠州公も椿を愛好していました。
遠州公が椿を図案化し、
好んで使用した文様であったということから、
その名がついたとされています。
12月 3日 お歳暮(せいぼ)
ご機嫌よろしゅうございます。
今年も残りあとわずか、ともなると
お世話になった方々へのお歳暮を
お送りしなくてはと準備される方も
多いかと思います。
お歳暮は
もとは新年に来訪する歳神様や祖霊への
お供え物から発生し、のちにその意味合いが
お世話になった方への年末の贈答儀礼として
日本に定着していったといわれています。
新巻鮭が定番であった品物も、
現在では洗剤や菓子等やちょっと珍しい商品まで
様々な選択肢が増えました。
関東では12月に入ってから、
関西では「事始め」以降に贈ることが
多かったようですが、その地域差も
今ではだいぶ縮まっているように感じられます。
一年間を振り返り、贈る相手のことを考えてあれこれと
品物を選ぶのも日本らしい師走の風景です。
12月1日 師走
ご機嫌よろしゅうございます。
今日から12月。
師走という言葉はよく知られますように
「師」が走るほど忙しい月だからと言われ
この「師」が、「先生」とも「お坊さん」とも
様々な解釈があるようです。
また極月(ごくげつ・ごくつき)大呂(たいりょ)
臘月(ろうげつ)など多くの異称がありよく表しているのが、
極月といえます。
遠州流の十二月、直門では納めの会などが行われ、
また週末には恒例の茶筅供養などの茶会が
催されます。一日一日がやはり、走り過ぎて行く
かのような慌ただしさですが、そんな中でも
毎年欠かせないのが、宗家道場、茶室の大掃除です。
天井からはたきをかけ、埃を落とし、
天井の梁から柱の一本一本、畳の隅から隅まで
丁寧に布で磨いていきます。
窓も曇りなきよう綺麗に拭き取られ、
今年の塵埃を払って、新しい年を迎える準備に
取り掛かります。
この月は、至る所の掃除をしながら
今年という一年間を振り返る、
忙しい中にも静かな時が流れるひと月です。
11月 19日 茶壺の中
ご機嫌よろしゅうございます。
十一月も中旬となり、挽きたての新しい抹茶が
各茶家でも楽しまれていることでしょう。
自分で石臼で挽いたお茶は、手間はかかりますが
その香りも色も格別です。
遠州公も、水屋常住の大きな石臼とは別に、
手元でちょっとお茶を頂きたい時に、少量
挽ける「小車」という銘のついたコンパクトな茶臼を
持って挽きたてのお茶を楽まれていたようです。
さてこの茶葉が詰められてくる白い袋は
なんという名称かご存知でしょうか?
八十八夜につまれたお茶は
濃茶にされるごく良質の葉茶を、
半袋(はんたい)と呼ばれる袋に、10匁(もんめ)(37.5g)ずつ
詰めていきます。
この半袋、半分の袋と書きますが、
これはもともと20匁が一つであったのですが
お茶が大変貴重で高価だった当時は、
20匁を求めるにはなかなか手が出ないので、
その半分の10匁を袋に詰めて、「半袋」
としたのだそうです。