24日
雨降風不止 けふはここにとどまるべきなどいふ
巳時許りに天晴 風もしづまる 立小田原
湯本相雲寺を経て あしがらの 山にかかる
遠近に重る山々 谷々のこずえ 色々に染出す
にしきをさらすかと うたがふ
あまりの面白きに ゆきもやらず とある岩がねに
たすけられて 独見る 山の紅葉といふ心を
思ふかひ なき世なりけり
あしがらの 山の紅葉も君しなければ
やうやうやまをよぢて 葦河の新宿に着
暫 休息して それより山中の里を過ぎて
夕陽とともに山をくだりて 三嶋の里に着 一宿
折節思ひ出ることありて うたたねの夢見て
かり枕 かたぶくるより うたたねの
夢をみしまの ひとのおもかげ
此歌の詞書 思子細有て委(くわしく)かかず
今宵の宿となる小田原で、思いがけず知り合いが
数人訪ねきて、夜が明けるまで語り明かした遠州公。
一体どんな方が会いにきたのでしょう?
明け方には雨風が激しくなり翌日の箱根越えが思いやられます。
よるなみの聲にめざます かり枕
忍ぶ別の 夢ぞみじかき
小田原宿は江戸を出て最初の城下町にある宿場になります。
山上宗二が小田原北条氏に招かれたことから
茶の湯も盛んであったようです。
また小田原では釜も作られていました。
天明釜の流れを汲み、釜師・西村道冶が元禄13年(1700)に
書いたと伝えられる『釜師由緒』には
「…天猫文字或は天命と云、小堀遠州公御改名と云う、…」
という興味深い一文が記されています。
ご機嫌よろしゅうございます。
藤沢を経て、馬入川を渡し船で渡ると、大磯。
さらに進んでいくと、静かな風と穏やかな波の音が
心地よく聞こえます。
この場所は「こゆるぎの磯」と呼ばれ、古代から
「よろぎ、こゆるぎ、こよろぎの磯」と
万葉・古今・新古今などの歌にも多く詠まれてきた場所です。
明治期には政財界の別荘地として愛されました。
その美しい景色を眺めつつ旅への想いとともに
遠州公が歌を詠みます。
こゆるぎの いそがぬ旅も すぎて行
別路とめよ あしがらのせき
大磯は日本初の海水浴場としてその名を知られ、
現在でも大変人気があります。
写真:大磯観光協会提供
ご機嫌よろしゅうございます。
9月23日 晴
遠州一行は神奈川の宿を早朝に出発します。
帷(かたびら)の里、いまの保土ヶ谷あたりをすぎ、
遠州一行は藤沢に差し掛かります。
藤沢は東海道の江戸日本橋から数えて6番目。
多くの道が集まる場所でもあり、東海道からの分岐点の町として栄えました。
そして藤沢は遠州公の父・新介正次公が亡くなった地でもあります。
慶長9年(1604)2月。江戸出府の途中、相模国・藤沢にて65歳で急逝。
戦乱の世を駆け抜け、ようやく平和をむかえようとしていた時代、
外様であるはずの小堀家は備中を任されるなど、譜代並みの扱いを受け、
政務に奔走しました。
遠州公この時26歳、この旅のおよそ17年前。
そして父の遺領、備中奉行を継ぎ、父と同様忙しい日々を送ることとなります。
藤沢の地に足をいれた遠州公は、亡父に想いをよせていたことでしょう。
写真提供 田中宗未先生
23日天晴
神奈河を立、帷里(かたびらのさと)
藤沢を過て 船渡を経て 大磯にかかる
そこをゆき過ぎて磯辺を通る 風静に
浪の音をだやか也 ひとに問へば爰(ここ)なむ
こゆるぎのいそといふをききて
名所に寄する別といふ心を
こゆるぎの いそがぬ旅も すぎて行
別路とめよ あしがらのせき
なをゆきゆきて夕方 山の端にかかると
きく河のさとを過 さ河を渡りて 小田原に着 一宿
思の外友の入来て ひとりふたりして語て其夜も更けぬ
鶏鳴を聴くより雨振出 風烈(はげしく) 浪の音高
忍ぶ別れ旅宿枕といふこころを
よるなみの 聲にめざます かり枕
忍ぶ別の 夢ぞみじかき
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公が江戸屋敷を出発して一泊目となる神奈川では、
親しい友人からの名残を惜しむ餞別が続々と届きます。
かへりこむと ちぎるもあだし
人ごころさだめなき世の さだめなき身に
遠州公の返歌から、当時の旅行が現在に比べていかに
心細いものだったかということが伝わってきます。
遠州公の宿泊した神奈川は、東海道五十三次のひとつ
である神奈川宿、日本橋をでて3番目の宿場町で、
現在の横浜駅周辺でした。
この横浜駅、鉄道本数の増加や乗り入れ・地下化、
駅周辺の商業施設の参入などで駅の構造も大幅に変化し、
現在でも構 内のどこかで必ず工事が行われている
「完成しない駅」で、日本の「サグラダ・ファミリア」
とも言われています。
酉 9月
22日天快晴 午時許にむさしの江戸を立したしき人々のここかしこ
馬の餞すとて 申時許 科河(しながわ)の里をいでて
いそぎけれども 酉時許に神奈河里に着
此所に一宿 宵燭ほどに又ともだちの名残
おしみて馬の餞すとて 酒肴 小壺に茶を入 文添てをこせたり
その返事 その返事 取集たる言種いひやる次に
別といふ心を
かへりこむと ちぎるもあだしひとごころ
さだめなき世の 定めなき身に
…
小堀宗慶著「小堀遠州 東海道旅日記 上り」
編集小堀遠州顕彰会 にっかん書房
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は染付・祥瑞についてのお話しを
請来陶磁のなかでも最も多く伝世しているのが
古染付と祥瑞です。
古染付は明時代末期、天啓年間(1621~28)頃に、
また祥瑞は崇禎(てい)年間(1628~45)頃に日本
の注文によって景徳鎮の民窯で焼造されたといわれ
てきた染付陶磁で、日本からの注文によって焼造さ
れたといわれています。
遠州好みとして知られる祥瑞の鳥差瓢箪香合は、
上下の円窓の中に鳥が描かれており、鳥を捕獲する
鳥差を表しているとされ、松花堂昭乗の下絵で、
遠州公の意匠により景徳鎮へ注文されたものと伝わっています。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は阿蘭陀茶碗をご紹介します。
遠州公の時代には既にオランダからの
陶器が舶来品として入ってきており、
オランダへの注文に関しては長崎のおらんだ
商館の記録が残っています。
注文が盛んになるのは寛永年間(1624~44)
末頃からで、土型や木型を本国に送って作ら
せています。
遠州公の箱書のつく「おらむだ 筒茶碗」
は遠州公の好んだ高取や薩摩などの半筒茶碗
と同じ形に、小堀家の家紋である七宝文をあ
しらっています。
こちらはおそらく前田利常か堀田加賀守を通
じて注文したものと推測されます。
ご機嫌よろしゅうございます。
これまで遠州公ゆかりの茶陶をご紹介してまいりましたが、
遠州公が指導した茶陶は国内だけではありません。
オランダ・中国・朝鮮と海外の窯にも好みの茶陶を焼かせていました。
現在、茶会で海外の道具を取り入れることはよく行われますが、
江戸前期の茶会記にみると、染付・青磁など用いているのは
遠州公を始め武家茶人や僧侶で、利休以来の千家の茶の湯では
この種の茶陶はほとんど使われていません。
17世紀に海外から請来された茶陶の多くは武家社会や交易に
関わった人々の間で珍重され、茶道界全体に行き渡るのは
もう少し後のことになります。
今月は遠州公が指導した海外の茶陶をご紹介致します。