7月 6日(月) 長生殿(ちょうせいでん)
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年ご紹介しました日本三大銘菓のうちの
今日は 日本三大銘菓の一つ、長生殿について
ご紹介します。
長生殿の生まれた金沢は前田家が遠州公の指導を受け、
熱心に取り組んだこともあり、茶道が大変に盛んな土地です。
そしてそれに伴い、和菓子の文化も発達しました。
この長生殿のように、茶道の発展とともに、
日本の各地で茶菓子としての
伝統的な銘菓が誕生していきます。
今と異なり、流通の発展していなかった時代には
大変に希少価値のあるものでした。
銘菓「長生殿」は、寛永年間(17世紀前半)
森下屋八左衛門が前田利常の創意により、
遠州公の書いた「長生殿」
という文字を墨型の落雁にした
ことがはじまりと言われています。
この「長生殿」の名は、唐の白居易「長恨歌」の末章
七月七日長生殿 夜半無人私語時
より、唐玄宗と楊貴妃が愛を語りあった場所である
長生殿から由来しているといわれています。
そしてこの詩、後には
在天願作比翼鳥 在地願爲連理枝
と続き、
天上にあっては、鳥の両翼となり
地上にあっては、連理の枝となりましょう
と永遠の愛を誓う歌が続きます。
遠州公はどんないきさつでこの長生殿という字を
書かれ、利常公がこの菓子をつくられたのか
明日の七夕の日に、そんなことに想いを巡らせながら
このお菓子を頂きたいと思います。
6月 22日(月)夏至
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを
雲のいづこに月やどるらむ
古今集 清原深養父(ふかやぶ)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は二十四節気の夏至にあたります。
一年で最も昼が長い一日。
つまり、夜が短い一日でもあります。
冬至と比較すると、昼間の時間差は4時間以上
にもなります。
「秋の夜長」に対して「夏の短夜」
とも表される夏の夜ですが、
その「短夜」を美しく歌ったのが
この歌です。
夏の夜は短くて、まだ宵と思っているうちに
明け方になってしまったけれど、
これでは月は一体雲のどのあたりに
宿をとるのだろう
歌の前に「月のおもしろかりける夜、暁がたによめる」
という詞書があります。
短夜にあっという間に見えなくなってしまった、美しい月
その月の名残を惜しんで深養父が詠んだ歌です。
深養父は平安時代中期の歌人で曾孫は清少納言です。
秋の月と比べて、あまり意識されることも
ありませんが、こんな夏らしい趣のある月
を愛でるのもよいものですね。
6月 19日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」その1
ご機嫌よろしゅうございます。
元和七年(1621)四十三歳の折、
江戸から京都への道中を記した旅日記が残っています。
まだ人々が自由に旅を楽しむことができなかった時代。
遠州公は公務のため江戸をたち、京都へ戻ります。
9月22日に江戸を出発、
10月4日に京都へ到着するまでの12泊13日の
様子を、和歌や詩を交え書き記しています。
道のりにして500キロ
東京から京都まで、新幹線に乗れば3時間かからない
現在に比べると、時間ははるかにかかります。
大変なことも多かったことと思いますが
四季の移り変わりを直接に感じ、
道みちの様子を眺めながら、そして知己との交流
を深めながらゆっくりと進む当時の旅は、
とても楽しそうです。
この旅日記は各大名から書院飾りとして求められた
りしたようで、二代目大善宗慶、権十郎蓬雪、
三男十左衛門正貴などが、父である遠州公の旅日記を
書写しています。
来週はその一部を紹介します。
6月 10日(水) 遠州流茶道の点法
「天籟(てんらい)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は立礼卓「天籟」をご紹介します。
「天籟」は永遠、無限をコンセプトに
宗実お家元がお好みになった立礼卓です。
天籟の意味は、
自然の調和などを意味する言葉です。
その名の通り、漆黒に銀の輝きが散りばめられた
美しい卓です。
天板は無限を表す「∞」の形になっており、
道具組によって、赤と黒の二種類の天板に
組み替えることができます。
前面に施された紋は七宝とenshuの文字を
巧みに組み込んだデザインとなっていて
曲線と直線のラインが生かされた
モダンなつくりの卓です。
遠州流茶道ではご先代の佳扇卓などもありますが、
この「天籟」は普通の自宅でも使えるよう、
コンパクトにつくられています。
6月 3日 (水)遠州流茶道の点法
「香所望」
ご機嫌よろしゅうございます。
梅雨の時期、湿気が多くなり過ごしにくく
感じる一方、お香を聞くにはとても
よい環境となります。
今日は通常のお点法の話から離れて
お香についてお話ししたいとおもいます。
最近ではあまり行われることはないようですが
お茶事の際には花所望、炭所望など
お客様に所望をすることがありました。
そのうちの一つに香所望があります。
お香は炭の匂いを消したり、
空気を清浄にするという意味もあり、
炭点法の最中に火中にくべられます。
また香炉を飾る場合もあります。
茶室に入った際、棚に聞き香炉が飾ってあった場合、
お客様は香炉を拝見し、それから香の所望をします。
亭主は自分の香を焚き、その後お客様にも
香を所望するのです。
ですから、本来お茶に招かれた際
所望に応えられるよう、
自分の香を香包みにいれておくのが
茶人の心得でした。
5月 29日(金)遠州公所縁の地を巡って
小室の領地へ
ご機嫌よろしゅうございます。
元和五年(1619)遠州公四十一歳の時
備中国から、近江国に転封となります。
この近江は遠州公の生まれ故郷であり、
浅井郡の小室の地が領地となります。
これから小堀家は七代宗友公まで、
代々小室藩主となります。
遠州公はこの小室の屋敷内に「転合庵」と「養保庵」
という茶屋を設けましたが、多忙な遠州公は
ここにはほとんど住まわず、二つの茶屋も
小室に帰国した際に楽しむために作られた
ようです。
二代宗慶公の時代に陣屋が建設されました。
小室藩の陣屋は、藩主が住まう館と、
それを囲むように家老や家臣団の屋敷が配置され、
藩の政治機構が整えられました。
二代目以降もほとんどこの小室の陣屋に藩主は
おらず、小室藩の実際の治世は家臣達が担っていました。
現在、かつて小室藩の陣屋が置かれていた付近には、
小室藩が祀ったとされる山王社(現日吉神社)や
稲荷社や弥勒堂などの祠堂、家老の和田宇仲の屋敷に
湧き出ていた泉から引かれているという宇仲池など
のみが残っています。
5月 15日(金)遠州公所縁の地を巡って
大坂天満屋敷の拝領
ご機嫌よろしゅうございます。
元和三年(1617)遠州公三十九歳の時、
幕府から大阪の天満に屋敷を与えられます。
これは同年命じられた
伏見城本丸及び書院の作事奉行
また河内国の奉行の兼務により、
伏見の六地蔵からでは不便なことからの
幕府の配慮からでした。
翌年には女御御殿作事奉行にも任命され、
また後に大坂城作事にたずさわることにもなり
この大坂の屋敷は重要な拠点となります。
詳細はわかっていませんが、
ほぼ正方形の形をした四千坪の敷地に
茶室も作られていたようです。
この遠州公の屋敷のあった天満木幡町は
もともと源融がこの地に伊勢神宮の分祀を祀る
神明社を作ったことが由来の地で、
大阪三郷天満組に属していました。
江戸時代、大坂は幕府から派遣された大坂奉行
の支配のもと、北・南・天満の三組に分けられ、
大阪三郷と呼ばれていました。この三郷では、
ある程度の自治が認められていたといいます。
この木幡町の西の一角に遠州公の邸宅がありました。
5月 13日 (水)遠州流茶道の点法
炭点法の道具
ご機嫌よろしゅうございます。
風炉の設えになり、炭点法に使用する
火箸・灰匙を桑柄からかねの平打ちへ
香合も焼き物から塗物へ
他の道具も小ぶりなものにかえ、使用します。
その中で遠州流茶道で特徴的な
小羽と枝炭についてご紹介します。
小羽は一つ羽ともいい、灰器に乗せて持ち出す
小さい羽の箒で、
風炉に灰を蒔いた際、尉(じょう)とよばれる
白い灰が飛ぶので、五徳の爪と前瓦を
清めるために考案されたものです。
白鳥の羽を青と黄に染めたものもあり、
青を夏、黄色を秋に用いたりします。
また、火移りを良くし、装飾的な役割も
果たす枝炭は、他流では白く塗ったものを
使用しますが、遠州流茶道ではそれは用いません。
この白く塗った枝炭は古田織部が考案した
と言われていますが、遠州公は作為的に
色を塗ることを好まず、自然に白っぽく
焼けた炭を枝炭に用いたと言われています。
5月 11日 (月) 初音(はつね)
きくたびに めづらしければ ほととぎす
いつも初音の 心地こそすれ
ご機嫌よろしゅうございます。
初夏の日差しの感じられる清々しい季節
となりました。
この頃、眩い青葉の間からほととぎすの
かわいい鳴き声が聞こえてきます。
ほととぎすは夏に飛来するため、
夏の訪れを知らせる鳥として平安時代から
愛され、その季節に初めて鳴く初音を聞く
ことが流行したそうです。
冒頭の和歌はその初音のように、いつ聞いても珍しく嬉しい
香りがするという意味の遠州公の歌です。
香は香りを聞くと表現します。
遠州公が所持した名香の中に、この「初音」の
銘を持ち、一木四銘といわれ特に有名な
香木があります。
長崎から南方に一本の香木が送られてきた折、
その香木を求めて伊達政宗・細川三斎・稲葉美濃守
そして遠州公が使者を送り、争奪戦となります。
香木そのものが貴重であった当時、非常に高価であったことも
あって四家の共同入札とすることに…。
長崎奉行の立会いのもと、四家の使者が四つに
分けられた香木をくじで取り分け、
細川家は白菊、小堀家は初音、稲葉家は藤袴、
伊達家では芝舟、とそれぞれに歌銘がつきました。
場所によって香りにも差がありますが、焚いてみないと
わかりません。後に伊達家の芝舟がやや劣ることが
わかり、この使者が主へ申訳に切腹して果てたという逸話が残っています
5月 1日 (金)遠州公所縁の地を巡って
備中と遠州公
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公が備中で奉行を務めたのは
およそ十三年間。
その間まちづくりにも深く関わったと言われています。
松山城が荒廃していたため、父・新介正次と共に遠州公は
頼久寺を居とします。
この頼久寺の庭園は、遠州公が初めて作った庭園と
言われています。
愛宕山(あたごやま)を借景(しゃっけい)に、
砂の波紋で海洋を表現し、
鶴亀二島の蓬莱石組、鶴島の三尊石組を配しています。
サツキで大海の波を表す大胆な大刈込みは、
遠州公独特のものです。
またこの地の特産品にも遠州公と関係が
古くから紙の生産が盛んであった備中。
特に戦国時代から朝廷や幕府に檀紙を納入する柳井氏
を指導・保護し、備中特産の紙の流通に大きく関わっていました。
また柳井氏は、遠州公の指導で茶の湯で使用する
「釜敷紙」生産したとも言われています。
遠州公がこの地に伝えたとされる「ゆべし」
もともとは戦の保存食であったものでしたが、
もち米に備中名産の柚子を練りこんだ和菓子に姿を
変えました。
現在でもこの地の特産品として根付いているそうです。