12月 2日(水)遠州流茶道の点法
「茶事・寄付と席入」
ご機嫌よろしゅうございます。
お茶事当日。
入り口に打ち水され、門があいていたら
準備ができている合図です。お客はそのまま
寄付(よりつき)とよばれる場所に入ります。
寄付で身支度を済ませ、香煎を頂いた後に外腰掛に出て迎付(むかえつけ)に備えます。
ここからは亭主とお客、言葉を交わさず
客は黙礼で応じ、亭主が去ったらお客も移動をはじめます。
露地を進み、蹲(つくばい)で手と口、を清めます。
この露地を歩く間にも
庭の景色に目を向けつつ心を落ち着け、清めながら
茶室へ向かいます。
その後お客が席入りし、躙り口の鍵が閉められる
音が聞こえると、亭主は皆様茶室に入ったことを
察し、ご挨拶にでます。
さて、お客様のうちでちょっと遅刻されると
連絡がはいった時、
宗家では寄付でお香を焚いて
しばしお香を聞きながらお待ちいただくことがあります。
お香を寄付で聞いた場合は香炉の香が
飛ばないように露地を歩いて床の間に飾り、
後で亭主にそのお香のお礼を申し上げます。
11月 30日 (月)木守り
ご機嫌よろしゅうございます。
柿や柚子、様々な自然の恵みをいただき、
収穫する際に、来年の豊作を祈り
木に一つだけ採らずに残しておく実があります。
これを「木守り」といいます。
そしてこの「木守」という銘をもつ茶碗があり、
長次郎七種茶碗に数えられています。
長次郎七種茶碗とは
黒楽の「大黒」「東陽坊」「鉢開」
赤楽の「早船」「臨斎」「検校」「木守」
の七碗をいいます。
この「木守」の銘の由来は、
利休が弟子に長次郎の茶碗を分けた際、
この一碗だけは最後まで手放さなかった
あるいは門人に選ばせ、最後に残った一碗である
または茶碗の姿が柿に似ていることから
など諸説あります。
後に高松藩主松平家に献上され、武者小路千家では
家元襲名披露など重要な茶会の際に松平家から
借りて茶会を行っていましたが、関東大震災で
壊れ、後に破片の一部を使い復元されます。
高松ではこの「木守」の茶碗にちなんだ菓子が
作られており、その模様は渦巻きが描かれています。
これは「木守」茶碗の見込みの渦巻きを模したものだ
そうです。
11月 25日(水)遠州流茶道の点法
「茶事・準備と前礼」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶事の前礼と準備についてご紹介します。
お茶事をしたいと思ったら、まずはテーマを決めて
どんな趣向でするかを考えてみましょう。
華甲のお祝い
自分の好きな道具を披露するため
結婚のお祝い
季節を楽しむ
etc
大体の趣向が決まったら誰をお招きするか
案内状を書きます。
正客から順にお客様の名前・日時・場所などを記します。
巻紙といって一枚の長い紙にそれらの内容を
記し、くるくると丸めたらそれを平らにして
封筒に入れます。
案内状が届いたら、お客様は返事を出し、
当日までに挨拶にいきます。
これは「前礼」と呼ばれるもので、この時に
当日移動にかかる時間を確認し、遅刻のないように
準備すると安心です。
当日は遅くても、早過ぎても失礼なので、
15分前くらいを目安に向かいましょう。
11月 20日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」(2)
ご機嫌よろしゅうございます。
先週に引き続きまして今日は「道の記 下り」を
ご紹介します。
「下り」が記された寛永十九年(1642)は
先日ご紹介した遠州公の江戸四年詰めが始まる
年でした。
「徳川実記・大猷院記」には五月二十六日に
将軍に参謁したという記録があります。
その江戸行きの前に、遠州公は江月和尚や京都所司代
などの親しい人を招いて、名残を惜しむかのように
「在中庵」や「飛鳥川」茶入などで茶会を催しています。
この旅が親しい人達との今生の別れとなる
と感じていたのではとも思える、
寂しさの感じられる節々もあり、
今一度京都へ戻りたいと願う心が読み取れます。
心を共にした友人たち、松花堂、長闇堂は既に
この世におらず、江月和尚も遠州公が
江戸に出府中の寛永二十年、十一月に
この世を去っています。
11月 18日(水)遠州流茶道の点法
「茶事を自分なりに」
ご機嫌よろしゅうございます。
気のおけない友人知人、普段お世話になっている方を
お招きして行う茶事は、とても楽しいものです。
しかし、難しい決まりごとや固定観念に囚われ
茶事は茶室で、立派で道具ななければならないと
自分には縁がないと思っていらっしゃいませんか?
確かに正式な茶事を経験することは、
その茶事本来の意味を知るうえでも貴重な経験ですが、
お茶事を行う一番の目的は、大切な方をおもてなし
すること。その心があれば、
たとえ茶室や高価な道具がなくとも、
工夫次第で自分なりの茶事ができるはず。
そしてお客様と亭主として、
ご自分が普段お稽古で学ばれていることを
大いに生かして、自分ならではのお茶事をしてみては
いかがでしょうか?
11月 6日(金)遠州公所縁の地を巡って
「遠州の四年詰め」
ご機嫌よろしゅうございます。
寛永十九年(1642)六十四歳の十月
将軍家光のお召しに応じ、お茶を献じます。
これより正保二年まで足掛け四年江戸に
留まったと言われています。
世に「遠州四年詰め」と呼ばれています。
しかし、近年この四年詰めでは、
茶の湯の指導者としてだけでなく、
優れた官僚としても手腕を発揮していた
ことが分かってきました。
当時全国的な飢饉にみまわれ、その対応に追われて
いた幕府は、知恵伊豆と言われていた松平伊豆守信綱を中心に、
畿内の農村掌握の第一人者であった
遠州公を寛永十九年五月二十一日に寛永飢饉対策奉行
として要請し、連日評定所にて協議を行いました。
それにより、飢民の救済、根本的な農村政策の立て直し
のための法令立案などが次々と行われていきました。
江戸に留まる間、遠州公は各地の数寄大名の
求めに応じ、その綺麗さびの茶を伝えたと思われます。
幕僚としても茶人としても、
遠州公の名は今まで以上に広く知られることと
なったのです。
11月 9日(月) 茶の湯と足袋
ご機嫌よろしゅうございます。
明後日11月11日は靴下の日なのだとか。
これは日本靴下協会が1993年に制定しており、
わりと新しい記念日です。
靴下を2足並べた時の形が11 11に見えること
から考えられたそうです。
さて茶の湯では白い靴下を履くのは、着物で
足袋をはくのと同様の考え方からで、
素足は失礼と習います。
しかし、昔は風炉の時期は素足、炉の時期は
足袋を履いていたようです。
その足袋も天正時代位には木綿の白足袋が
必需品として挙げられますが、常用されていたのは
革足袋でした。
江戸時代にはそれまで主流だった革足袋が廃れていきます。
また明治時代には紺の足袋といえば、
書生の代名詞にも挙げられ、汚れの目立たない
紺足袋は、男性の日常品でしたが、
千宗旦の時代にも既に存在して、
「コンノ足袋茶湯ニハキテモヨシ」と、
侘び茶人には茶湯へ履いていくのが
許されていたようです。
10月 30日(金)遠州公所縁の地を巡って
「擁翠亭(ようすいてい)」
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年の2014年は古田織部の400回忌にあたり
あるコレクターの思いがこもった、私設美術館が
北区鷹峯に誕生しました。
この美術館の建物は、昭和初期に建てられた生糸商人
の山荘にある土蔵を改装していて、茶室をイメージした
作りとなっています。
その敷地内には遠州公所縁の茶室
「擁翠亭」があります。
室町将軍足利義満の管領細川満元が築いた岩栖院を
家康が南禅寺に移し、刀装の彫金師後藤長乗に
与えました。長乗とその子後藤覚乗は、加賀藩主前田利常や、
小堀遠州の助力で「擁翠園」を造営します。
ここに作られたのが「擁翠亭」とよばれる小間の茶室で
この茶室は江戸中期に洛西の清蓮院に移築された後、
明治に同寺院が廃寺となって、解体されました。
その材料は保管されていましたが、長い間忘れられており
平成になって図面と供に見いだされて、
太閤山荘内に移築されました。
この擁翠亭は部屋が七つあり、窓の数も多くて十三あることから
別名を「十三窓席」といい、日本一窓の多い茶室と言われています。
先日この茶室でお家元の茶会が行われました。
10月26日(月)村雨(むらさめ)
村雨の 露もまだひぬ 槇(まき)の葉に
霧立ちのぼる 秋の夕暮れ
寂蓮法師
ご機嫌よろしゅうございます。
秋の過ごしやすい気候では、時々にわか雨が
降ることがあります。この秋の突然の雨を
村雨や時雨といったりします。
雨の多い日本ならではの表現です。
さて、先ほどの歌はにわか雨が過ぎた後、
まだ乾ききらない槇の葉のあたりに
霧が立ち上っている、
秋の夕暮れの景色を歌っています。
静かな、そして寂しさの感じられる秋の夕暮れの
光景がとても趣深く、日本画のような描写です。
この歌を銘とする茶入が、
瀬戸金華山玉柏手の「村雨」で、
下から上に霧が立ち昇るような景色があるところから
遠州公が命銘したものです。
胴が締まった玉柏手で形状は本歌に酷似しています。
胴の中程がややくびれた筒形は、
唐物にはない瀬戸独自の形です。
10月23日(金) 遠州公所縁の地を巡って
「遠州公と宇治」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶の湯にとってかかせない抹茶の生産地
宇治と上林家についてご紹介します。
遠州公は、元和元年(1615)、大阪の陣の後
上方郡代として、また元和九年には伏見奉行として
宇治の地に密接な関わりを持っていました。
また遠州公は御茶吟味役としても、宇治に重要な
関係がありました。
遠州公が、今年お勧めの御茶を試飲して
選ぶと、そのお茶は「将軍お好み」として、
将軍の近臣や大名からの注文が殺到します。
宇治には昔から多くの茶師がいましたが、
優れた技術力を持って上林家が台頭し、また
家康との関係からも上林家は重要視され、
江戸時代には宇治代官となります。
伏見奉行である遠州公はこの隣接する宇治代官
も監察の対象でした。
政治的にも、また茶の湯の面でも宇治に密接な
関わりを持っていた遠州公の茶会には
上林一族をはじめ、多くの宇治茶師や畿内の
政治・経済・文化的中心人物が登場しています。