3月7日 (月)お稽古場の風景 「直入軒の床の間拝見」
2016-3-7 UP
2016-3-7 UP
2016-3-4 UP
3月 4日(金) 能と茶の湯
「竹生島」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「竹生島」をご紹介します。
「竹生島」は神をシテとする脇能物で、
作者は不明とされています。
時は三月、琵琶湖湖畔には桜の花が咲き乱れ
穏やかな春の風景が広がります。
この琵琶湖に浮かぶ竹生島明神を訪れた
醍醐帝の朝臣が、女を伴った老翁に舟で
迎えられます。
老人は臣下を社に案内すると、
連れの女も一緒に来たので、臣下は老人に、
竹生島は女人禁制ではないのかと問います。
すると、竹生島は女体の弁才天を祀り、
女性をお隔てにならないと返し、
島の由来を臣下に語り聞かせます。
その後老翁と女は弁財天と竜神となり、
朝臣に金銀珠玉を授けます。
島の神社に祀られている弁財天、
そして琵琶湖の水の精ともいうべき
龍神の霊験を讚え、国家安穏を祈願する
祝言能で、謡いやすい曲として親しまれています。
2016-2-29 UP
2月 29日(月) 新介正次命日
ご機嫌よろしゅうございます。
きょうは2月29日、四年に一度の
閏年です。
そして今日は遠州公の父である、
新介正次のご命日でもあります。
正次の生きた戦国時代、主従の選択は
家の存続を左右する非常に厳しい時代でした。
新介正次は、天文九年(1540)
近江国小堀村に生まれます。
若い頃に出家していましたが、三十一歳頃までに
還俗し、浅井家家老の磯野丹波守員正の娘と結婚。
浅井家との関係も深まります。
しかし、姉川の合戦の後、員正が浅井家離反し
新介は再び僧籍へ。
長浜の新城主となった豊臣秀吉の弟・秀長のもとで
再び還俗し、次第に立身していきます。
秀長・秀吉と主を失って後には家康の下で働き
作事や、行政官としてもその能力を発揮します。
慶長八年(1603)二月十二日、伏見城にて
家康が征夷大将軍の宣旨を受けます。
その翌年の慶長九年 二月二十九日、江戸に出府
の途中、相模国藤沢にて六十五歳の生涯を閉じました。
冷静な判断によって時流を見極め、動乱の時代を
生き抜き遠州公を育成、後の小堀家の存続と、
徳川の譜代大名並みの扱いを受けるまでの
功績を残しました。
2016-2-19 UP
2月19日(金)能と茶の湯
「芦屋(あしや)高砂釜」
ご機嫌よろしゅうございます。
今週は「高砂」にちなんだ釜を
ご紹介します。
現在五島美術館に収められている
芦屋の高砂釜は鴻池家伝来で、
同家にはもう一つ高砂地紋釜があり、
江戸時代中期には二つ揃えであった
といわれています。
一面に尉と姥を、
他面には竹林に鶴を配しています。
鐶付は亀です。そして、
我見ても久しくなりぬ住吉の
岸の姫松幾世経ぬらむ
この歌が尉と姥、竹林の模様の間に
鋳出されています。
「私が見てからも久しいこの住吉の姫松は
一体どれだけの御代を経たのであろう。」
この歌は高砂から住吉に移り、住吉明神が
現れて謡ます。
また「伊勢物語」や「古今集」にもこの歌が
みられます。
2016-2-15 UP
2月15日(月)想(おも)い葉
ご機嫌よろしゅうございます。
昨日2月14日はバレンタインデーでした。
バレンタインはもともと、西暦269年に
兵士の自由結婚禁止政策に反対した
バレンタイン司教が、ローマ皇帝の迫害によって
殉教した日を記念した祭日(2月14日)と
むすびつけられて出来たもので、
今では女性から男性にチョコレートを贈るという、
日本独自の習慣が生まれ人々に受け入れられています。
さて、そんな日にちなみまして
茶畑からこんなお話を。
茶葉の中で、二枚の葉がくっついたものを
「想い葉(おもいば)」と呼ぶのだそうです。
四つ葉のクローバーのように珍しいもので
これを見つけると恋の想いが、相手に伝わる
といわれているそうです。
茶摘みはかつて若い娘さんの仕事で、
新茶時期には茶農家に泊まりこみで働いたの
だそうです。
茶摘みをする娘さん達も、偶然見つけた想い葉に
心を躍らせていたのでしょうか。
2016-2-8 UP
2月8日(月)珠光茶会
ご機嫌よろしゅうございます。
今日2月8日から14日の7日間、
村田珠光(むらたしゅこう)のゆかりの地である奈良で、
「珠光茶会」が催されます。
奈良では、古より様々な文化が育まれてきました。
そのうちの一つである「茶の湯」を通して
奈良の魅力を発信することを目的に行われる
このイベントは今年で三回目となります。
遠州流茶道は第1回から参加し、
お家元も第1回目は来賓として招かれ、
昨年は元興寺でお献茶をご奉仕されています。
奈良市内の世界遺産を含む八社寺や、
歴史的な街並みが残る「ならまち」のお茶室を
舞台に、今年は七流派(遠州流茶道、表千家、裏千家、
武者小路千家、石州流、藪内流、宗徧流)が一堂に会し、
普段からお茶に親しんでいる方だけでなく
お茶に馴染みのない方、観光客の方にも
楽しんでいただける茶会になっています。
遠州流は2月11日(木)に薬師寺まほろば会館にて掛釜
また14日(日)には水之江 福智院店にて、
初心者に向けた講座「扇子の使い方と薄茶席」の
体験を行います。
2016-2-1 UP
2月1日(月) 向栄亭の床の間拝見
ご機嫌よろしゅうございます。
今日から二月、そして二月の四日は 立春です。
寒さは依然として厳しいですが そろそろ春の気配を感じられる頃になりました。
さて、今日は二月の宗家稽古場の床の間をご紹介します。
床 紅心宗慶宗匠筆 柳緑花紅(やなぎはみどり はなはくれない)
花 加茂本阿弥椿 木五倍子(かもほんなみつばき きぶし)
花入 志戸呂 鶴首
床の間の掛け物の言葉は 中国北宋時代の政治家であり詩人である
蘇東坡(そとうば)の「花紅柳緑真面目」 花は紅(くれない)柳は緑(みどり) 真面目(しんめんもく)
という言葉に由来するものです。
花は紅、柳は緑、このあたりまえのことが、
とりもなおさず真理の実相である
自然のあらゆるものがそのままで 真実を具現しているといっています
2016-1-22 UP
1月 22日(金)能と茶の湯
「利休と能」
ご機嫌よろしゅうございます。
侘び茶の大成者である千利休は、
大変能が好きで、勧進能といわれる
能の興行ごとに足を運び、宮王道三・三郎
兄弟の能楽師の楽屋をときおり訪ねていた
といいます。
また、この三郎には宗恩という妻がおり、
利休の様々な質問にも明朗な回答をする
聡明な女性でした。
利休は謡曲をこの兄の道三に学び、道三は
利休に茶を学ぶ大変親しい間柄であったことも
あってか、
天正九年(1581)に利休の先妻が
亡くなった翌年、三郎を亡くしていた宗恩と
利休は道三を親がわりとして結婚しています。
また利休には実子道安がいますが、
三郎と宗恩との間にできた息子道安と同い年の
少庵を養子とします。
この少庵が千家第二代であり、三代目は
少庵と利休の娘お亀との間に生まれた宗旦です。
この宗旦と遠州公は同い年になります。
2016-1-18 UP
2016-1-15 UP
1月 15日(金)茶の湯と伝統芸能
「能について」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は能と茶の湯についてのお話を
して行きたいと思います。
庶民の芸能から昇華され、室町時代には
足利将軍家の力を得て社会的地位を獲得した能
そして、同じく室町時代に侘び茶が大成し
権力者の支持を得て発展した茶の湯
江戸時代には、能・茶の湯共に武家社会の
嗜みとしての地位を確立していった歴史があります。
またその精神性においても
村田珠光の言葉に「月も雲間のなきは嫌にて候」
とあるのを、室町後期の能役者・金春禅鳳が
「珠光の物語とて、月も雲間のなきは嫌にて候。
これ面白く候」
と語っているように
茶の湯の「侘び」と能の「幽玄」の世界には
相通ずる点が多くあります。
そういった面からも茶の湯の道具には、
能に由来する銘が多く見受けられるのです。
能の銘がつけられることによって、
一つ一つの能の世界が茶の湯に広がります。