庄野のあたりにやってきた遠州公一行。
ここでは供の者が、名物のやき米にかけて
ひだるさに行事かたき いしやくし
なにとしやうのゝ やき米を喰
と歌を詠み、
「しもびとのうたには よしや あしや」と
遠州公の評価が記されています。
「伊勢物語」の33段(こもり江)をみますと
津の国、菟原の郡(現在の兵庫県芦屋辺り)に住む女に通う男へ、
この女が詠んだ歌が記され、
こもり江に思ふ心をいかでかは
舟さす棹のさして知るべき
田舎人のことにては、よしやあしや
と、続きます。
このことを踏まえて考察すると
遠州公はこの「伊勢物語」の33段を倣って
自分の歌を下人の歌として記したと想像することができるのではないでしょうか。
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」
と言われた通り、静岡の大井川は、流れも早いため船も渡せず、
また徳川幕府の軍事上の必要から橋が架けられなかったため、
川越人足の肩にまたがるか、蓮台とよばれる乗り物に乗って
数人の人足が担いで川を渡りました。
明治時代に入って架橋が許され、各所に橋が架けられました。
島田市にある蓬莱橋(ほうらいばし)は、明治12年に大井川に
架けられた木造の橋で、その長さは897.4。
「厄なし(8974)の橋」や「長生き(長い木)の橋」とも呼ばれています。
「木造歩道橋として世界一の長さ」とギネスに認定され、
いまだこの記録は破られていません。
映画やテレビドラマなどの撮影も行われるなど、観光スポットになっています。
撮影:山本幸夫
鞠子を通りすぎ、宇津の山に到着。
この里で出された霰のような白い餅を器に入れてお召しくださいと言う。
尋ねると「とうだんご」という里の名物なのだとか。
さては中国(唐)から渡ってきた餅であろうと、どうやら違うらしい。
十づつ杓子ですくうので「十団子」というのだと言う。
ならば実際にすくってみなさいと言うと、主の女房が自ら釈子を手に取り、自在にぴたりと十ずつすくっていく。
この様子をみて時の移るのも忘れ、楽しんだ。
さもあらむかし そこをゆき過て うつの山に
いたりぬ 此里を見れば しろきもちの
霰のごとくなるを器に入て 是めせと
いふ とへば たうだむごとて此里の名物
也といふ さてはもろこしより渡たる餅に
やあむなるといふ さにはあらず
十づつしゃくふによりて とをだむごとい
ふ也とかたる さらばすくはせよといへば
あるじの女房 手づから いひかいとりて
心のままにすくふ これになぐさみて
暮にけれども うつの山にかかる もとより
つたかえではしげりて と ある所なれば
いとくらふ道もほそきに うつつともわきま
へ侍らず
さらでだに 夢のうき世の
旅の道を うつつともなきうつの山こえ
ゆくえは岡辺の里に着 一宿 其夜は 岡辺
の松風に夢をおどろかし 明れば
「うめ若菜、丸子の宿のとろろ汁」
と松尾芭蕉が詠んだように、丸子ではとろろ汁が名物として知られています。
時は戦国、1596年創業の「丁子屋」が現在も営業中です。
こちらは静岡を往来する旅人にとろろ汁でもてなしてきました。
旅日記では触れていませんが、遠州公が訪れた際にもきっと営業していたはず。
東海道中膝栗毛にも「丁子屋」のくだりが出てきます。
丸子とも鞠子とも表されますが、ここで遠州は「沓」を求めようとしたところ、
今は落ちぶれて「沓」を売って生計を立てる、貴族らしき人の「沓」は通常より高く、
結局買わず。蹴鞠の沓と鞠子ということで、
遠州公も面白いと思って書き留めたのでし
ょうか。
秋霧の浪間に浮かぶ三保の松原。
眼下に広がる絶景に動くことができずにいた
遠州一行、陽もくれ始めて惜しみつつ寺を降ります。
江尻の里での休息の後、一行は府中へ。
遠州30歳の時、大御所家康の居城駿府城天守閣作事を担当し、
その功績から遠江守を任官し、以後小堀遠州と
呼ばれることになりました。
任務にあたった慶長13年(1608)一年間この地に滞在した
思い出深い地でもあり、当時の場所を尋ねてみると草深く
荒れ果て、人の気配も感じられない様子でした。
住み慣れし宿は葎にとぢられて
秋風通ふ 庭の蓬生
と、目の前の寂れた景色に、過ぎていった時の
流れに想いをよせる遠州でありました。
遠州公筆 富士の絵賛
いよいよ富士山が見えてきました。
原の宿近辺の浮島ヶ原と呼ばれる地域は街道一の富士の眺めと称されて、昔から和歌の枕詞としても有名です。
当時活火山であった富士山には煙があがっていました。
その絶えぬ煙に、思い出深い人のことなどを想う己の心の内を重ね合わせて遠州公が歌を詠みます。
わがおもひ いざくらべ見む 富士の根の
けぶりはたえぬ ひまやありなむ
一般の人にとって富士山を実際にみることは、一生に一度あるかないかのことでしたでしょう。
遠州公は、その雄大な姿を多くの歌に詠みまた富士の姿があまりにも美しいので、
懐紙を二人の供の者に持たせて、富士の姿を懐紙に写し取ったといわれています。
写真提供 大有 ギャラリーきほう
写真提供 三嶋大社
三嶋大社は、実は茶の湯に所縁のある神社です。
高麗茶碗の一つに三嶋茶碗という種類がありますが、
その名はこの三嶋大社が関係しています。
室町時代末期に朝鮮半島から日本に入ってきた茶碗の文様が、
当時三嶋大社で発行され広く親しまれていた「三嶋暦」に
よく似ていたため、当時の茶人から「三嶋手(みしまで)」
「暦手(こよみて)」とよばれて愛用されてい ました。
「三嶋暦」は、仮名文字の暦として日本で一番古く、
また木版刷りの品質のよさ、細字の文字模様の美しさから、
旅のみやげやお歳暮などとして人気がありました。
現在では茶の湯をしていなくても目にする、
なじみのある文様ではないでしょうか?
箱根路を越えた遠州一行は
夕焼けとともに山を下り、三島に到着。
かり枕かたぶくるより うたたねの
夢を見しまの ひとのおもかげ
三嶋には遠州公の忘れ難い人との思い出があるようで
「此歌の詞書 思子細有て委(くわしく)かかず…」
と意味深な一文が記されています。
三嶋宿は箱根越えを成し遂げた人々が「山祝い」で
散財した場所として栄えました。
そしてここに鎮座する三嶋大社は、奈良・平安時代から
古書に記録が残る歴史ある神社で、源頼朝が源氏再興を
祈願したことでも有名です。
平成12年には、本殿が重要文化財に指定され、
多くの観光客で賑わっています。
写真提供 三嶋大社
朝から激しく雨風が吹いていましたが、
十時を過ぎる頃には雨も静まり、遠州一行は宿を出発します。
この日は箱根越え。
1618年、江戸幕府は箱根湯本から元箱根に
至る山道を整備しました。
有名な関所の制度が定まったのは寛永2年(1625)のこと。
旧小田原宿から旧三島宿は、特に難所中の難所と言われ、
また揉め事も絶えず「箱根の八里越え」と呼ばれました。
無事に越えることができると「山祝い」といって
主人から郎党に祝儀がでたほどでした。
丸一日かかったといわれる箱根越えですが
遠州公も10時に出発し、日の暮れる午後5時
には箱根に下りており、なかなかの健脚ぶりです。