ご機嫌よろしゅうございます。
菜花畑をひらひらと舞うモンシロチョウ
春の穏やかな景色です。
蝶は秋草や牡丹など様々な組み合わせで描かれます。
また平安時代以降、浄土信仰が盛んになると
蝶は鳥と共に、浄土の使者としても描かれます。
その儚い美しさ、空を舞う様子は死者の霊魂を連想させ、
古代ギリシャではプシュケ(霊魂)と表されていました。
その「死」の象徴を「不滅」の印として戦国の武将は、
その蝶を兜や家紋に使用したと言います。
型物香合番付西前頭三枚目「荘子香合」と呼ばれる香合は、
菱形の染付香合の甲部分に蝶が描かれています。
名前になっている「荘子」とは、
「荘周」であり紀元前4世紀後半の中国戦国時代の思想家
道家思想の大家です。
その「荘子」斉物論編に「胡蝶の夢」というお話があります。
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与。
不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
ある日荘周が胡蝶になった夢をみます。
自分が夢の中で蝶になったのか、それとも夢の中で
蝶が自分になったのか、自分と蝶との見定めが
つかなくなったというお話。
このお話から香合の名がついています。
また裂地に見られる蝶
小羽のある虫文は大抵は蝶と呼んでいます。
中国では清代になると蝶が宝尽し文の中にも現れ
アゲハ蝶のような羽に文様のある蝶が現れます。
3月17日 (金)茶の湯に見られる文様
「花筏」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は「桜」についてご紹介しました。
遠州公も20代の頃、吉野へ花見に訪れていますが、
今日はこの吉野の桜にちなみまして「花筏」の
ご紹介を致します。
桜で有名な吉野の川を下る材木、これを筏に組んで
川を下る際に、桜の花びらがひらひらと降りかかり
筏とともに川を流れる姿は、揺れる恋心にも例えられ
「吉野川の花筏」として歌謡や俳諧に歌われる「雅語」
となっていきました。
遠州公が作庭したと伝わる高台寺。
その秀吉と北政所を祀る霊廟である御霊屋には
天女を想像させる楽器散らし文様、そしてこの花筏文様が
描かれます。吉野には古くより仙郷伝承があることから、
浄土とみなされており、秀吉と北の政所の御霊屋は
浄土を表す装飾を施しています。
「花筏」にはこの高台寺蒔絵の意匠を模した宗旦好
「花筏炉縁」や、永楽保全作「金蘭手花筏文水指」
などの華やかな道具など多数残されています
3月10日(金)茶の湯に見られる文様
「桜」
ご機嫌よろしゅうございます。
3月も半ばを過ぎると、多くの人がその便りを
心待ちにしている桜の開花
雨や風で花を散らされはすまいかと、毎日はらはら
と天気予報をご覧になる方もいらっしゃるのでは
ないでしょうか?
「世の中にたえて桜のなかりせば…」
と在原業平が歌ったように、はるか昔から
日本の人々は桜を愛し、その変化に心躍らせてきました。
その生け方には茶人達の心も悩ませたようで
富貴すぎるということから茶の湯の花として用いた例は
多くありませんが、武野紹鷗は水盤の中に散った花びらを
浮かべた、また古田織部はお客の土産の桜を
いけたという話が残っています。
道具にみられる桜では
古浄味造「桜地紋透木釜」
また、昨年・能「桜川」でご紹介しました「桜川釜」や
「桜川水指」も桜の意匠の代表的なお道具にあたるでしょう。
他、桜にちなんだお道具については次週「花筏」で
ご紹介します。
2月 24日(金)茶の湯と文様
「石畳文」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州流茶道に親しまれている方にとっては
馴染み深い「石畳文」をご紹介致します。
正倉院の錦や、平安当時の宮廷で官位の制によって
定められた文様である有職織物にも「石畳文」は
見受けられ、「露文」と表現されていますが、
これは字の如く小さな文様であったようで
遠州緞子として知られる「大石畳唐花七宝文緞子」は
5センチ程の桝に四隅に星を持つ七宝文と、三種の唐花を
配しており、江戸初期日本に渡ってきた際には
大胆且つ新鮮な驚きを当時の人も抱いたことでしょう。
他にも色縞に小石畳を地模様とし、その上に宝尽しを散らした
「伊予簾椴子」。こちらは遠州公が中興名物の伊予簾茶入の
仕服に用いたことからの銘です。
また、星の文様が入った「尊氏金欄」または「白地大徳寺金欄」
とも呼ばれる「釣石畳」などがあります。
石畳文といえば京都にある桂離宮松琴亭の
一の間の床の貼付壁と襖障子が思い浮かびます。
青と白の配色による大胆な大柄石畳文様です。
江戸時代には多様な種類の石畳文様が能装束や小袖に
見られ、当時の流行が伺えます。
江戸時代の中期には京都から江戸に下った歌舞伎役者
佐野川市松が、中村座での初舞台「高野心中」に
小姓粂之助役で着用した袴の柄が石畳の文様でした。
その若衆振りが大変な人気を呼び、それ以降石畳文は
佐野川市松の名をとって市松模様と呼ばれるように
なっていったと言われています。
12月 23日(金)能と茶の湯
「米一(よねいち)」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は狂言「米一」をご紹介しました。
年末に貧しい人に配られる慈善米がもらえない
ことが話の始まりです、
また、このお話の背景には滋賀県ムカデ退治で有名な
俵藤太の娘が「米一」であったといわれていることが
お話の背景にあることを頭にいれておくと、狂言が
一層楽しくご覧になれるでしょう。
今日はその「米一」にちなんだ茶入を
ご紹介します。
中興名物瀬戸破風窯茶入「米一」
狂言の「米一」に登場する俵と、その茶入の
姿が似ていたことから遠州公が命銘しました。
遠州公自ら所持していましたが、その後
稲葉美濃守正則に伝わり、更にいつの頃からか
鴻池家の所有となりました。
口造りは厚手で胴のやや下部で閉まり、銘の
由来となる俵型になっています。
肩の少し下から黄釉が斜めに流れ、その周りに
茶釉が取り巻いて景を複雑なものにしてくれています。
なお、この茶入の為に遠州公が仕立てた仕覆は米一金襴と
呼ばれ名物裂の一つとなっています。
11月 14日(月)石臼
ご機嫌よろしゅうございます。
茶の湯の世界では、11月は炉開きに口切と続き
お正月にあたるおめでたい月にあたります。
炉開きと口切りについては昨年のメルマガで
ご紹介しましたので、そちらもご参照下さい。
口切で取り出した新しい茶葉は石臼で
挽いていきます。
彦根藩主であった井伊直弼が
「茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)」
において、
「茶を挽くは大事也
挽きもあらくては如何ほどの名器を出し
飾りても、実意あらず」
と書いているように、石臼は茶の味を左右する
大変重要な道具です。
にもかかわらず、石臼についての形や機能
などの資料はあまり残っていないそうで、
なぜ左回しなのか、それ自体についても研究は
あまりなされていないそうです。
3月 11日(金) 能と茶の湯
「竹生島」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は「竹生島」をご紹介しました。
今日はその「竹生島」にちなんだ釜をご紹介します。
醍醐帝の朝臣が島へ向かう舟から
眺めた湖畔の景色を、建長寺自休蔵主が
竹生島に参詣した際の句が引用しています。
緑樹影沈んで 魚木に上る気色あり
月海上に浮かんでは 兎も波を走るか
おもしろの島の気色や…
訳)島に生える木々の緑が湖面に映り、
魚たちが木を登っているように見える。
月も湖面にその姿をうつすと、
月の兎も波間に映る月明かりを
奔けて行くようだ
なんとも不思議な島の景色よ。
芦屋真形竹生島釜には、波頭に兎の図面と
反対に洲浜に生える松樹が描かれています。
この兎に波の図は着物の模様でもよく
用いられます。
9月 2日(水)遠州流茶道の点法
名残(なごり)
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年もご紹介しましたが
名残のお茶は本来、口切で開いた茶壺の茶が
残り少なくなったことを惜しむもので
そのお茶を客様に振る舞うのが名残の茶事です。
また風炉の最後で、時候も秋めいてくる頃
過ぎ行く季節を名残惜しむという意味でも
使われます。
その哀愁の気持ちを表すように、道具組では、
たとえ茶碗ににゅうがはいっていたり、
呼び継ぎのあるものでも愛おしく使用します。
趣のあるやつれた大振りな鉄の風炉など
日頃は用いるのも控えめにした
どこか風情のある、ひえ枯れた道具を用いて
この時期ならではの茶の湯を楽しみます。
また花も、風炉の季節の最後
力いっぱいに咲く残花を侘びた花入に入れます。
8月 26日(水)遠州流茶道の点法
「拝見について」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶入・仕覆の拝見について
お話したいと思います。
通常拝見の声をかける際には、まずお茶入の拝見を
所望し、その後別に仕覆・茶杓拝見と
一つ間を置いて所望します。
同時に拝見を所望しないのは、
袋は茶入の付属品であるからという考えからで
本来拝見を所望するのは茶入のみでした。
松屋会記には、若き日の片桐石州が遠州公に
拝見を所望し、無言でポンっと袋をほおられた
という話が残っていますが、茶入のみならず
袋の所望をした石州に野暮なことを言うと
遠州公が思われたのでしょう。
名物裂ということで珍重された袋を見たい場合、
遠州流茶道では
「とてもの儀にお仕覆、お茶杓拝見」
と所望していました。
8月 5日(水)遠州流茶道の点法
「台子(だいす)」
ご機嫌よろしゅうございます。
普段の稽古では行わない特別なものに
台子があります。
四本の足を持ち、地板と天板でできた棚です。
今日はこの台子の歴史についてご紹介します。
南浦紹明が入宋し、径山寺の虚堂智愚から法を嗣ぎ、
持ち帰った台子と皆具一式が九州の崇福寺に
伝えられたといわれています。
足利義政の頃に村田珠光が能阿弥らともに
台子の寸法や茶式を定めたとされています。
のちに台子は秘伝化し、皆伝の証となりました。
将軍の指南役であった織部・遠州・石州は
いずれも将軍献茶に台子を用いておらず、
また遠州公は生涯通して一度も台子を用いた茶会を
行わなかったと言われています『小堀遠州茶会記集成』。