陶工・尊楷
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は上野焼の開祖・尊楷についてご紹介します。
三斉に従い豊前小倉入りした尊楷は、
移住した地の名をとって上野喜蔵高国と改名し、
十五石五人扶持を拝領します。
後に細川家の移封に従い、長男と三男を伴って
肥後八代に移って高田焼を創始しました。
この時、子の十時孫左衛門と娘婿の渡久左衛門を残し、
上野焼を後継させます。
尊楷は、慕っていた忠興が亡くなると自らも
扶持を返上して出家し宗清と名乗り、
承応3年(1654)年、89歳で生涯を閉じました。
熊本県八代市の上野喜蔵の墓が今も残っています。
当時の高僧である清巌宗渭の箱書きを残す
喜蔵作の貴重な八代茶碗・銘「ねざめ」が出光美術館に
所蔵されています。
史料的に喜蔵作と確定できるのはこの茶碗のみと言われています・
上野焼のいま
ご機嫌よろしゅうございます。
細川家から小笠原家へと藩主が変わって以後も
上野焼は藩窯として幕末まで庇護されていきました。
江戸の後期には楽焼の手法を学び、
また現在の上野の代名詞となっている銅を含んだ緑青や、
三彩紫などの装飾性も高まり、作品を特徴づけました。
しかし明治維新後の廃藩置県により
御用窯としての使命を終え、上野焼は一時途絶えます。
明治35年に再興して以後も、苦しい時代が続きますが、
行政の支援を受けつつ上野焼に挑む陶芸家が次第に増え、
現在では二十軒を超える窯元が点在しています。
上野焼の食器類は、古来から毒を消し
中風になりにくくなると言われてきました。
また、酒の風味を良くし、飲食物の腐敗を
防ぐとも言い伝えられています。
上野焼の特徴と遠州好
ご機嫌よろしゅうございます。
細川忠興は千利休の弟子の中でも「侘茶」
の忠実な継承者でした。
その流れを受けて焼き締め調の施釉や
直線的な造形にみられる道具の選び方にも
遊びを最小限度におさえた武人としての
「侘茶」がうかがえます。
また同時期にお茶堂として招かれた千道安の
指導も考えられます。尊楷の作は素朴で重厚であり、
朝鮮唐津や斑唐津、古高取に似ています。
そしてその野趣溢れる大胆な作風が時の流れとともに
釉の変遷を重ねていき、次第に豊かな装飾の美しさを
加えていきます。
遠州が指導した記録はありませんが、
古来より遠州好みの窯の一つとして数えられています。
小笠原家に代々伝わる道具には土見せの瀟洒な瓢箪茶入が伝わり、
他にも権十郎蓬露の「あがのやき 瓢箪」と箱書きのつく
茶入などがつたわって「綺麗さび」の好みの影響がうかがえます。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は瀬戸焼の始まる前のお話を。
日本の焼き物の歴史は土器に始まります。
今から一万二千年前あるいはもっと前から
縄文土器が作られていました。
それから弥生土器、土師器、更に五世紀前半には
大陸の影響も受けて須恵器といった
新しい焼き物が各地で生まれていきました。
七世紀には三彩と呼ばれる緑釉陶器、
九世紀から十一世紀頃には灰釉陶器が生産されます。
灰釉陶器は自然の草木灰を原料とした高火度釉を
施した焼き物。このような焼き物の次に無釉の焼き物
「山茶碗」へと生産が移行していきます。 山茶碗は猿投山など生産窯が多くある丘陵地で
大量に拾われることからの俗称です。
瀬戸では釉薬のかからない山茶碗から、13世紀あたりに
再び施釉の焼き物が生まれ、いわゆる「古瀬戸」へと
つながっていきます。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は先週に引き続き、波の文様についてのご紹介を
致します。
波の上ではねる、鯉のような魚の描かれた図柄
これを「荒磯」とよんでいます。
荒磯裂と呼ばれる名物裂には、有名な荒磯緞子がありますが
穏やかな水流と優しい魚の姿をしています。
一方、緞子に比べると知名度の低い荒磯金襴の
水流と魚形は、激しさと厳しさを持ち、
それぞれの裂地の生まれた土地柄や民間伝承を反映して
できた違いと考えられています。
ちなみにこの荒磯緞子ですが、遠州公がこれを好んで茶入の
仕覆としたことから、更に人気が高まったと言われています。
この仕覆の添う茶入は
中興名物 高取鮟鱇茶入「腰蓑」
瀬戸春慶「春慶文琳」
瀬戸金華山大津手本歌「大津」
丹波耳付「生野」
があります
床 紅心宗慶宗匠筆
日光霧降滝
花 水引 遠州槿
花入 手付籠
ご機嫌よろしゅうございます。
暑さの厳しい季節が続きますが、床の間を拝見すると
勢いよく流れ落ちる滝と、心のあらわれるような白さの
槿に一時の清涼感を感じることができました。
この掛物は御先代が昭和41年10月直門の方と日光を訪れ、
霧降滝をご覧になり、落ちてくる水しぶきが霧となり、
全貌を現さない滝の姿に絵心を誘われ帰京して直ぐに
筆をお取りになり一気に描かれた一幅です。
ご機嫌よろしゅうございます。
磯遊びも楽しい季節
今日は、先週ご紹介した「笹」と合わせて「笹蟹」などの
文様としても親しまれている「蟹」をご紹介致します。
七種の蓋置と呼ばれるものの一つに「蟹」がありますが
これはもともと筆架・文鎮を蓋置に見立てたものです。
足利義政が慈照寺の庭に十三個の唐銅の蟹を景色として
配置し、その一つを武野紹鷗が賜って蓋置として用いたことが
蟹蓋置のはじまりといわれています。
この蟹蓋置が後に遠州公に伝わり、七代目宗友政方の代に
酒井家に渡り、酒井宗雅がこの写しを13個作ったと箱書きに
記しています。
また昨年、宗実御家元は華甲を迎えられました。
この華甲とは昨年にもご紹介しました通り、
蟹の甲羅は干支の最初である甲を想起させることから歳を表し、
華の字は分解すると六つの十と一となることから、還暦を表す
言葉として用いられます。
その華甲にちなんだお道具として、菊と蟹をあしらった
「交趾臺菊蟹香合」や高台を六角形にした沓形の御所丸茶碗を
好まれています
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は蛍にちなんだ古典落語をご紹介致します。
曽呂利新左衛門は、豊臣秀吉に御伽衆として仕えた
といわれる人物で、ユーモラスな頓知で人を笑わせ
る才がありましたが、元々堺で刀の鞘を作るのを
仕事としており、その鞘には刀がそろりと合うので
曽呂利の名がついたと言われています。
ある時公家衆から和歌を詠むように勧められた秀吉が
自分が猿面冠者と言われてたことから、猿丸大夫の歌を
本歌取りしようと思いつき
奥山に紅葉踏み分けなく鹿の
声聞くときぞ秋は悲しき
から「奥山に紅葉踏み分けなく蛍..」
と詠みました。蛍が鳴くのですか..?と公家衆のニヤニヤ
にたまらず「続きは明日」と言って秀吉は早々に退散します。
秀吉に呼び出された新左衛門は話を聞き終えると、
秀吉に策を伝えます。
「蛍は鳴くか」とふたたび問われたとき、古歌の
武蔵野に篠を束ねて降る雨に
蛍よりほか鳴く虫ぞなし
を引用し、さらに
奥山にもみじ踏み分けなく蛍
しかとも見えず杣(そま)のともし火
と、きこり(杣)が煙草を喫っている光景を「蛍」にたとえたと
強引にすり替え、秀吉は面子を保つことができました。
『続近世畸人伝』には秀吉の「なく蛍..」の歌に対して里村紹巴が
「蛍は鳴かない」と反論し機嫌を損ねた秀吉に、細川幽斎は
即興で「しかとも見えぬ光なりけり」
の歌を作ったという話も残っています
ご機嫌よろしゅうございます。
この時期羽化をはじめる蛍が夜の闇に淡い光をうつす頃
夏の夕べの美しい水と蛍の光はとても幻想的です。
蛍狩りはこの時期の季語でもありますが、
昔は身近だった風景も今では限られた場所で観られる特別な
ものとなってしまいました。
さて、遠州公の所持していた茶入に「蛍」の銘を
もつものがあります。
瀬戸春慶に分けられるこの茶入には、遠州公の書状が添い
織部の同門であった上田宗箇に宛てられたもので、この茶入は
ことのほか出来が良く、五百貫ほどの値打ちがあり、後々は
千貫にもなるのであるといった内容です。
遠州公は浅井家家臣となり、広島に居した宗箇には色々と心を
配っており、その他多くの書状が残っています。
瓢箪の形をしていますが、上部は小さめで愛らしい印象を
受けます。土見せを大きく残し、黒釉がたっぷりかかっています。
この釉薬からの連想か、挽家に遠州筆で金粉字形「蛍」と
記されています。
また、蛍と茶の湯にちなんだ落語を来月7月にご紹介する予定です。
どうぞお楽しみに
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は7月7日七夕です。
七夕については昨年にもご紹介してまいりましたが、
今日は茶の湯の中の七夕を探してみたいと思います。
茶入の銘では、名物「瀬戸金華山真如堂手茶入 銘 七夕」
二代宗慶公が一年に一度取り出すべしという意味で
名付けられたと伝わっています。
機織りを仕事とした織姫にちなんで、糸巻をモチーフと
するお道具もあります。
「型物香合相撲」番付西方二段五位には「染付糸巻香合」
が挙げられています。
また、梶の葉に字を書くと字が上達するとも言われますが、
尾形乾山は「梶の葉の絵茶碗 銘 天の川」を残しています。
宗実御家元が貴美子夫人と共に和歌を梶の葉に
書きつけられた作品は、七夕が近づくと宗家道場に
毎年飾られています。
御家元 あまの川遠きわたりにあらねども
君のふなでは年にこそまで
貴美子夫人 星合の空