10月11日遠州公の愛した茶入
「吹上文琳(ふきあげぶんりん)」
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「吹上文琳」を
ご紹介します。
遠州公がこの茶入の美しい景色にちなんで
秋風の吹上に立てる白菊は
花かあらぬか波のよするか 古今集
の和歌から命銘したとされています。
蓋箱書付や、仕覆箱書付、外箱はともに
松平不昧公が書付しています。
これは遠州公所持の後、姫路酒井宗雅公に伝わり、
寛政元年(1789)四月二十八日、参勤交代の途中に
駿河蒲原という場所で休んでいたおり、
不昧公と出会い、この茶入を贈与したいきさつが
あります。「雲州蔵帳」にも所載されており、
現在は五島美術館に収蔵されています。
10月 4日 遠州公の愛した茶入
「正木(まさき)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳所載の茶入「正木」をご紹介します。
この茶入は釉薬のかかり具合が片身かわりとなって
おり、その景色の美しさを正木のかづらの
紅葉に見立てて
深山には霰ふるらし
外山なる正木のかづら色つきにけり
古今集
神無月時雨降るらし
佐保山の正木のかづら色まさりゆく
新古今和歌集
このともに同じような歌意を持つ二首の和歌から遠州公がつけた銘
といわれています。
遠州公所持の後、土屋相模守、細川越中守等の手を経て
現在は根津美術館に収蔵されています。
9月 26日 鷺(さぎ)の絵
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は鷺の絵のお話をいたします。
鷺の絵は、松屋三名物の一つです。
奈良の松屋は漆屋を称した塗り師の家で
その茶を村田珠光に学びました。
鷺の絵は、その侘びた珠光表具のすばらしさから、
利休が「数寄の極意」としたこともあって
名だたる茶人はこぞってこの絵を松屋に拝見にいきました。
遠州公の師、古田織部
は利休に「数寄の極意」をたずねたところ
利休は松屋の鷺の絵を挙げられ
翌日、織部は直ちに馬で奈良に向かい
その鷺の絵を拝見したというエピソードもあります。
遠州公の父、新介正次は当時松屋の茶会に赴いたり、
自宅の茶会に招くなど親交を深めていました。
遠州公は父に連れられて、文禄3年2月3日、16歳の時に
この絵を拝見しています。
残念ながら現在は焼失し、見ることはできません。
9月12日 遠州公と中興名物
ご機嫌よろしゅうございます。
茶入などの名物道具には
大名物、中興名物、名物という格付けがありますが、
その中で、遠州公といえば中興名物。
しかしこの中興名物という表現は遠州公の時代に確立していたわけではありません。
中興名物という表現で名物の一つとして格付けたのは
江戸時代後期の大名茶人である松平不昧公です。
つまり遠州公が亡くなってずっと後のこと。
不昧公は遠州公に深く傾倒し、その遠州公が、
名物道具として仕服牙蓋をはじめとする付属品を調べ、歌銘を付け
箱書きをした道具を中心に中興名物として自身の蔵帳に分類をされました。
徳川という平和な時代の到来とともに、
茶の湯を新しく嗜む人が増え、必然的に
茶道具も必要となりますが、しかるべき道具は既に
大名などの手に渡ってしまっているか、戦乱の中で焼失してしまっていました。
そんな中、当時茶の湯の第一人者としての地位を
築いていた遠州公は新たな名物茶道具の選定や指導を受けた
新しい茶道具を生みだしていくのでした。
遠州公の好みによって生み出された「綺麗さび」
の茶道具たち。
これらが後に中興名物と呼ばれるようになるわけです。
8月 22日 あるエピソード
ご機嫌よろしゅうございます。
19日にご紹介した定家様にちなんで
エピソードを一つご紹介します。
当時大変な人気のあった定家の一幅を
なんとか手に入れようと皆必死になっていましたので
本物に混ざって定家の筆では無いものも出回っていました。
ある日、加賀前田家でも一幅手に入り、
定家様の権威である遠州公が茶会に招かれました。
遠州公がどんな批評をされるのか
襖の奥から皆注目していましたが、
とうとう茶会の最後まで遠州公はその
掛け物について何もおっしゃいませんでした。
不思議に思った前田公は、茶会の後遠州公の屋敷に
使いを出し
「先ほどの定家はいかがでしたか?」
と尋ねますと
「あれは私が書いたもので、誰かが手に入れて
定家にしてしまったのでしょう。
自分の字を褒めるわけにはいきません。」
と話されたといいます。
8月19日 藤原定家(ふじわらのていか)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は藤原定家の命日です。
定家は平安末期の歌人で、新古今和歌集、
新勅撰和歌集と、二つの勅撰集の編者となりました。
遠州公は当時、「定家様」の第一人者
であり、また「歌銘」も多く付けたことから
定家は遠州流では比較的馴染みのある歌人かもしれません。
「定家様」とは藤原定家の筆跡を踏襲するもので
同じ時代の消息などに比べると流麗とは
言い難い、特徴的な字体といえるでしょう。
これは本人も「悪筆」と認めていたところですが
印刷技術のない当時、書物は全て筆で写していたわけで
一つ一つの文字がしっかりしている
定家の字体は早く正確に書写するのに非常に適していました。
後に定家様、また小倉百人一首を書いた色紙は
茶人の間に大変な人気となるわけですが
この辺についてはまた次回。
8月 9日 遠州公の愛した茶入
「唐大海(からたいかい)」
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「唐大海」を
ご紹介します。
大海とは大振りで口が広く、内側が大きいので
それを海に例えたことからこう呼ばれています。
唐物大海茶入を所有していたうちの一つで
遠州公自身が「唐大海」と箱書きしています。
小堀家に代々伝わり、八世宗中の時代
尾関文右衛門の懇望により譲り、
その後木津宗隆、松井左兵衛と伝わり、
現在は香雪美術館に収蔵されています。
7月19日 遠州公の愛した茶入「勢至」
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「勢至」をご紹介します。
この茶入の胴の部分の景色を勢至菩薩の姿に似ている
ことから命銘したと思われます。
勢至菩薩は、観音菩薩とともに、阿弥陀如来の脇侍として知られており
知恵の水が入っている水瓶を持っています。
遠州公の茶会記には特に記載はありませんが、
遠州公が8月22日付で書いた書状が掛物として添っています。
また小堀家七代宗友政方(まさみち)が
安永八年(1779)9月18日、11月4日に使用したことが
記録されています。
小堀家歴代に伝わった後、
森川五郎右衛門の所持となり
江戸鹿児島清兵衛の手に渡った後
東京馬越恭平、その後恭一へ伝わりました。
7月12日 「七夕」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳所載の茶入で
「七夕」の銘を持つ茶入をご紹介します。
二代大膳宗慶が
これほどの茶入は、大切にして年に一度位に取り出すの
がよいという意味で「七夕」と名付けたと言われており、
内箱書付は大膳宗慶が「七夕」と書き付けています。
遠州公の茶会記には特に記載はありません。
小堀家から神尾若狭守元珍に伝わり、その後小堀家茶道頭
和田晋兵衛の所持となり、同家に伝わりますが
大正時代中村太郎吉の所蔵となります。
「神尾蔵帳」にも記載されています。
6月 20日 遠州公の会席
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公が会席で使用した「角切らず」の縁高について。
私達がよく目にする縁高は、
木地に漆をかけた、いわゆる塗り物が
ほとんどではないかと思います。
遠州公の時代、
木地のままの器が会席でよく使用されました。
漆をかけていないので、当然器に盛った食べ物
の汁などで染みができてしまいます。
そのお客様のためだけの、一度きりのもの
という意味で、使い回しのきかない
木地の器は、当時塗りものよりも正式なものでした。
遠州公の会記には
「木地 縁高 角不切(すみきらず)」と書かれており
一枚のへぎ板( 鉈を使わず手で割いた板)
で切らずに作った大変手間のかかる器を使用しています。