遠州流の茶筅

2014-11-28 UP

11月 28日 遠州流の茶筅

ご機嫌よろしゅうございます。

一昨日遠州流の柄杓のお話しを致しました。
今日は茶筅のお話しを。

ほとんどのお道具は、季節が変わると、
それに合わせて大振りのもの小ぶりのものに
改めますが、茶筅は大きさを変える必要なく
通年使える茶道具です。

そして他の道具のような華やかさはありませんが
代用のきかない、重要な茶道具です。
煤竹・白竹など茶人や流儀の好みによって、様々な
色合いや穂先の形の茶筅があります。

遠州流の茶筅は白竹を使い、穂先の根元をかがる黒い糸の
結び目を見ると穂の内側で結ばれているのがわかります。
これは大変難しい技術ですが大きな特徴となっています。
ほとんどのお流儀ではこの結び目が表にでているので
遠州流の茶筅との見分け方はここをみれば
すぐわかります。

遠州公を流祖とする大名茶ならではの
手がこんだ茶筅です。

遠州好み「几帳面取り」

2014-11-27 UP

11月 27日 遠州好み「几帳面取り」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州好みのお話しを。

遠州公が好んで作った道具には瀟洒で繊細な
形のものが多いですが、その印象を形作る
ものの一つに「几帳面取り」があります。

「几帳面」とは
器具の細工で、角をとって半円形のきざみをいれたもの。
几帳の柱に使ったことからいう。(「角川国語辞典」)

方形の角を撫で角に削り、その両側に段をつけたもの。
もと几帳の柱に多く用いたから。(「広辞苑」)

几帳面の言葉もここから由来するものですが、
遠州公の好んだ道具、特に炉用の棚などに
はこの「几帳面取り」の細工が多く見られます。
指で触らないとわからないくらいの繊細なものですが、
これを施すことによって、丸みがでて優しい
印象になるのです。

遠州好みの棚を見る機会がありましたら
柱を是非じっくりご覧になってみてください。

遠州流の柄杓

2014-11-26 UP

11月 26日 遠州流の柄杓

ご機嫌よろしゅうございます。

炉を開いてそろそろ一ヶ月。
お茶のお稽古をなさる方は、風炉のお点法から
炉の点法にようやくなれた頃でしょうか。

炉の季節になると、釜や水指、色々なものが
風炉に比べてやや大振りになります。
柄杓は・・・

遠州流の柄杓は他のお流儀で使用されているもの
より、大きく、一杯でおよそ5人分の濃茶を
点てることができます。

そしてお茶を練っている途中
その加減をみてお湯を加えるお流儀もありますが
遠州流では、お茶の香りをなるべく損なわない
ようにするため、加え柄杓をしないのです。

遠州公と高取焼

2014-11-16 UP

11月 16日 遠州公と高取焼

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は先週に引き続き、
遠州公と高取焼についてのお話を
ご紹介します。

高取焼の茶入で有名なものの一つに
「横嶽」という銘の茶入があります。

御所持の茶入 一段見事に御座候
染川 秋の夜 いづれもこれには劣り申すべく候…
前廉の二つの御茶入は御割りすてなさるべく候…
(「伏見屋筆記 名物茶器図」)

黒田忠之公が遠州公に茶入を見せて、
命銘をお願いしました。
遠州公はこの茶入のでき上がりを賞讃し、
先週ご紹介した、二つの茶入「秋の夜」「染川」
よりも優れているとして、前の二つは割捨ててしまいなさい
とまで言っています。

そして九州の名勝横嶽にちなんで銘をつけました。

過去火災に遭い、付属物を消失し釉薬の色も多少変わって
しまいましたが、形はそのままに
現在熱海のMOA美術館に収蔵されています。

光悦会

2014-11-11 UP

11月 11日 光悦会

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は京都で光悦会が開催されます。

光悦会は東京の大師会に並ぶ
日本の代表的な茶会です。
京都鷹峰の光悦寺において11月11,12,13日の3日間
五都の道具商が世話人となって催されます。

この茶会の舞台となる光悦寺は、
大虚山(たいきょざん)と号する日蓮宗のお寺です。
元和元年(1615)本阿弥光悦が、
徳川家康にこの地を与えられ一族、工匠等と移り住み、
芸術郷を築いていきました。
光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れた
文化人で、光悦の死後、寺(日蓮宗)となりました。
境内には、大虚庵など7つの茶室があります。

さて遠州公と光悦にも縁がございます。

遠州公は寛永13年(1636) 5月21日に、品川林中の御茶屋を新しく造設し、
将軍家光をお迎えして献茶します。
その控えの茶碗として用いられたのが、
光悦に依頼して作製された、膳所光悦と呼ばれている茶碗で、
正式に遠州公が取り上げたのは二碗であると言われています。

遠州公の愛した茶入

2014-11-8 UP

11月 8日 遠州公の愛した茶入
「伊予簾(いよすだれ)」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳帳所載の茶入「伊予簾」
をご紹介します。

この茶入の形が編笠に似て、もの侘びた姿を
していること、また鶉のような斑模様をしている
ことからから遠州公が詞花和歌集 恋下の

逢ふことはまばらに編める伊予簾
いよいよ我をわびさするかな              恵慶法師

の歌の意味をもって銘命されたと言われています。

遠州公の茶会記では、
寛永十四年(1637)十二月二日夜に、江月和尚
松花堂昭乗を招いてこの茶入を用いています。

この茶入に添っている仕服の一つは「伊予簾」と
呼ばれています。
このように、茶入の銘から仕服の呼称がつけられたものを
名物裂と言います。

小堀家の手を離れ、所有者を転々とした後、
現在では昭和美術館の収蔵品となっています。

遠州公と高取焼

2014-11-2 UP

11月 2日 遠州公と高取焼

ご機嫌よろしゅうございます。

先月遠州公の国焼指導についてのお話を
致しました。

黒田官兵衛の子・長政が開く福岡藩にも
遠州公指導の御庭焼である「高取焼」があります。

黒田長政は朝鮮の役で、後の高取八山を
妻子共に日本に連れて帰り、
黒田公の召し抱え、しかも月俸七十人扶持、寺社格
という高禄で迎えられます。

慶長六・七年頃に永満寺宅間窯に開窯しますが
遠州公の指導を受けるようになったのは
そのもう少し後。

この遠州公と高取焼の出会いには
ある有名なエピソードがあるのです。
その話はまた改めて…。

遠州七窯(えんしゅうなながま)

2014-10-30 UP

10月 30日 遠州七窯(えんしゅうなながま)

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州公所縁の茶陶を俗に「遠州七窯」と
呼ばれることがあります。

これは幕末の美術商だった田内梅軒が
著した「陶器考」の中で初めて出てくる
言葉です。
しかし一般的に「七窯」挙げられるもののうち、
古曽部(こそべ)や赤膚(あかはだ)といった窯も
その数に数えられていますが、これらは遠州公が
亡くなって200年程経ってから出来た茶陶で
遠州公の好みの窯とはいえないものまで入っています。

遠州公は七窯に限らず、
高取、志戸呂、薩摩、上野、膳所、宇治田原等の国焼や、瀬戸、
信楽、丹波、伊賀、備前などの古い窯、
多くの窯の指導に当たったことがわかっています。

遠州公の愛した茶入「玉川」

2014-10-25 UP

10月25日 遠州公の愛した茶入
「玉川(たまがわ)」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳所載の茶入「玉川」を
ご紹介します。

その景色から遠州公が

いまぞ見るのちの玉川たづねきて
いろなる浪の秋の夕暮れ    碧玉集

から銘命したといわれています。

遠州公の茶会では特に使用の記録ありませんが、
挽家の金字形は遠州公の筆跡で「玉川」とあり、
遠州公筆の和歌色紙の掛け物が添っています。

遠州公所持の後、土屋相模守、松平弾正、神尾左兵衛、
寛政の頃には(1789ー1800)信濃国上田城主松平伊賀守
江戸十人衆河村家を経て松浦心月伯爵に伝わり、
後に藤原銀次郎に伝わりました。

遠州公の国焼指導

2014-10-19 UP

10月 19日 遠州公の国焼指導

ご機嫌よろしゅうございます。
日曜日になりました。
軍師官兵衛に関連して
今日は遠州公の国焼き指導のお話を。

秀吉が行った朝鮮の役で茶の湯を愛好していたため、、多くの武将が
朝鮮に上陸し帰国の際に、現地の陶工を日本につれ、それぞれ自分の領地で釜を作り、作陶を始めます。
これが御庭焼と称されるものですが、
なかなか茶の湯の心にかなったものが出来ません。
そこで注目されたのが遠州公です。
当時既に茶の湯の第一人者として活躍していた
遠州公の伏見奉行屋敷に、自国の領地で御庭焼と
して始めた陶窯で働くナンバーワン陶工を
派遣し指導を受けました。

遠州公は指導の要請があると、
まず「切形」と呼ばれる型紙を送ります。
陶工はその型紙通りに焼いたものを持参し
京都伏見まで向かうのでした。

そういった遠州公の好みや指導を受けた窯を
後に遠州七窯などと称すようになります。

遠州七窯についてはまた後日。