7月8日 (金)能と茶の湯
「関寺小町」
ご機嫌よろしゅうございます。
昨晩は七夕
天の川はご覧になれましたでしょうか?
さて、先週ご紹介しました「関寺小町」は
老女物といわれるものの中でも最奥の曲と
され、なかなか上演されることはないのだそうです。
この「関寺小町」に関係の深い茶道具をご紹介します。
中興名物の伊部茶入「関寺」
青味を帯びた榎肌と、他面は赤味を帯びた
伊部釉とで片身替りをなしています。
茶入全体の佗しい景色を衰残の姿の小町
に重ねての銘と言われています。
舟橋某所持、細川越中守、三河岡崎藩主本多中務
に伝わり、明治初年松浦家に入りました。
7月1日 (金)能と茶の湯「関寺小町」
ご機嫌よろしゅうございます。今日から7月に入りました。例年七夕の7月7日はまだ梅雨が明けきらない頃で、すっきりとしない星空に溜息がでることも。今日は七夕にちなんだ謡曲をご紹介します。「関寺小町」は、「檜垣」「姨捨」と並ぶ「三老女」の一つで、演じる者に最も高度な技術と精神性が必要といわれています。老いた小野小町は、江州関寺の山陰で小さな庵を結んで侘びしく暮らしていました。そこに国関寺の住僧が七月七日の七夕祭の日に、あたりの稚児たちを連れて小町を訪ね、歌道の物語を聞かせてほしいとお願いします。小町は断りますが、強いての僧の頼みをききいれ、歌道についての古いことなどをねんごろに語って聞かせます。寺では今宵は織女の祭が行われています。糸竹管弦、童舞の舞に小町の心も昔にかえりふらつきながらも舞を舞いつつ昔を偲んでいましたが、やがて夜明けと共に杖にすがりながら自分の庵に寂しく帰っていきます。
6月24日(金)能と茶の湯
「今春金襴」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は「金剛裂」をご紹介しました。
今日ご紹介するのは「今春金襴」
これも豊富秀吉がシテ、家康がワキを
演じた大坂城中の能の会に招かれ
後見をつとめた今春太夫が、秀吉から
賜ったものと言われています。
今春は鎌倉期から興福寺春日社に
奉仕していました。
秀吉は大変な能好きで今春を習い、
三日間の天覧能に十四番も自分で舞ったり、
家康や前田利家と三人で狂言を演じた
と言われています。
この「今春金襴」は「金剛裂」より縞が細い
ものが多く、様々な金文が円形に配置されて
います。
茶入の仕覆としては、中興名物広沢手「秋の夜」
「皆ノ川」本歌、薩摩甫十「玉水」などがあります。
6月 10日 (金)能と茶の湯
「羽衣」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は「羽衣」のあらすじをご紹介しました。
今日は「羽衣」を銘にもつ志野茶碗をご紹介します。
志野の名碗「羽衣」は
正面に見える強い焦げがあり、
見る者全ての目をひきつけます。
高台は荒々しく、暴れていて特徴的です。
今に伝わる志野茶碗の中でも特に印象的で力強い茶碗です。
志野は桃山時代を代表する美濃焼の一つです。
艾土(もぐさつち)と呼ばれる白い土に長石釉(志野釉)
を厚めにかけて作られます。
釉の下に鬼板と呼ばれる顔料で文様を描き焼成すると
条件によって黒や赤、鼠色、褐色に変化します。
内側に一筆ふわっと引かれた線があり、これを
天に舞う天女の羽衣に見立てられたことからの
銘とされています。
5月 27日(金)能と茶の湯
「大会(だいえ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は「大会」のあらすじをご紹介しました。
今日はこの「大会」という銘の竹花入をご紹介します。
遠州流では、例年正月にお家元が青竹を自ら切り花入とします。
青竹の清々しさと、綺麗さびの瀟洒な美意識が表された
姿の花入とは対照的に、この「大会」は、
どっしりとした根付きの迫力ある花入です。
豊臣秀吉作、利休所持の由緒を持ちます。
「大会」とは大規模な法会、大法会の意味を表す言葉です。
禁中での能・狂言の会を含め、秀吉は「大会」を六度演じています。
スペクタクルな視覚的にも楽しめる内容の能で、
天狗扮する釈迦説法の荘厳な大会の光景が
目の前に広がるような姿の花入です。
5月 13日(金)能と茶の湯「二人静」その二
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は能曲「二人静」を御紹介しました。
今日はその「二人静」にちなんだ裂地を御紹介します。
足利義政が「二人静」を舞った際
紫地に鳳凰の丸紋の金襴の衣装をまとったことから、
この文様を『二人静金襴』とよぶようになったと伝えられ、
大名物「北野肩衝茶入」や「浅茅肩衝茶入」の
仕覆に用いられています。
ちなみに、能では「ふたりしずか」と読まれますが
裂では「ににんしずか」と読むのが通例となっています。
5月 6日(金)能と茶の湯「二人静」
ご機嫌よろしゅうございます。
晩春から初夏にかけて十字状にのびる4枚の葉の
真ん中からのぞく2本の花穂に,
白く小さな花が山林で咲く姿を見かけます。
この花の名は「二人静」
静御前の亡霊が舞う能曲「二人静」から
2本の花穂を静御前とその亡霊の舞い姿に
たとえて名づけられました。
今日はこの「二人静」を御紹介します。
吉野山の勝手神社の神官が、
正月七日に菜摘女(なつめ)に若菜を摘みに行かせます。
その菜摘女に静御前の霊が憑き、
神官のもとへ戻ってきます。
そして菜摘女に取り憑いた霊は、自分が静御前であることを
告げ、ここの蔵に自分の舞装束が仕舞ってあると言い、
それを身につけます。
菜摘女が舞い始めると、静御前の霊が現れ、
影のように寄り添って舞います。
静御前は義経の吉野落ちの様子や、鎌倉にて
頼朝の前で舞を舞わされた出来事を物語り、
神官に弔いを頼んで消えていきます。
4月 29日(金)能と茶の湯~狂言編~「通円」
ご機嫌よろしゅうございます。
狂言では、話の中に茶の湯が登場するものが
いくつかあります。
今日はそのうちの一つ「通円」を御紹介します。
舞台は宇治ある旅の僧が平等院に参詣します。
無人の茶屋に茶湯が手向けてあるのでいわれを聞くと、
その昔、宇治橋供養の折、通円という人物が
大勢の客に茶を点て続けた挙句息絶えたのだとか。
今日がその命日に当たるのだと語り、
僧にも弔いを勧めます。そこで読経をする中、
通円の亡霊があらわれ自分の最期のありさまを語ります。
「都からの修行者が三百人もおしよせ、
一人残さず茶を飲まそうと奮闘するも、ついに茶碗、
柄杓も打ち割れて、もはやこれまでと平等院の
縁の下に団扇を敷き、辞世の和歌を詠んで死んでしまった。」
そう語り終え、通円は回向を頼んで消えていきます。
この通円現在でも宇治橋のたもとに通円茶屋があり、
一服されたことのある方もいらっしゃるのでは
ないかと思います。この通円茶屋の初代通圓は
主君源頼政に仕え、平家の軍と戦いました。
その後頼政が平等院にて討死、通圓もあとを追います。
狂言「通円」は、この頼政と初代通圓の主従関係を
物語った能「頼政」をなぞって大勢の敵をなぎ倒し、
末に滅んでいくていく様子を、何百人もの参詣客を
相手に茶を点て死んでいく通円を描いたものです。
4月 22日(金)能と茶の湯
「くせ舞」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は能にちなんだ遠州公ゆかりの
お道具を御紹介します。
遠州蔵帳記載の茶杓に「くせ舞」
という銘の茶杓があります。
節の部分に波紋のような綺麗な模様が
出ており、数ある遠州公の茶杓の中でも
秀逸の一本です。
くせ舞は扇を持って鼓を持ち、一人から二人で
舞う中世の芸能の一つでしたが、この音曲を
能に取り入れ、能の「クセ」と呼ばれる小段が
成立したとされています。
織田信長が舞ったとされる「幸若舞」も、当時の曲舞
の一つだったようです。
この「くせ舞」の節回しが面白いということから、
「節おもしろし」にかけて、「くせ舞」
と命銘されました。後に益田鈍翁が所有し、
大いに自慢しました。