ご機嫌よろしゅうございます。
今日は小堀遠州顕彰会の秋季講演会をご紹介します。
大老・酒井忠勝は将軍家光に最も信頼され、
100回以上も御成がありました。
同じころ遠州は、茶人としても官僚としても大活躍し、
「綺麗さびの茶」を広めました。忠勝は遠州を支援し、
孫娘を遠州の嫡男に嫁がせます。忠勝の矢来屋敷跡、
宗家のどちらにもほど近い牛込箪笥町の会場で、
二人の眤懇の交わりについて解説していただきます。
【講師】深谷信子氏(茶道史研究家・文学博士)
【日時】令和3年10月9日(土)13:00~15:00
※12:30より受付開始
【会場】牛込箪笥区民ホール(新宿区箪笥町15番地)
【会費】顕彰会会員:無料/一般 3,000円
【定員】188名(先着順)
【お問合せ】公益財団法人小堀遠州顕彰会事務局
〒162-0827 東京都新宿区若宮町26
TEL03-3260-1208 FAX03-3260-3510
※会場座席数の50%を定員とし、感染症対策を講じて開催する予定です。
※新型コロナウイルス感染症の拡大等により、中止または会場・内容の変更などの可能性がございます。ホームページにて最新の情報のご確認をお願い申し上げます。
12日
なんという山かと問うても、霧が立ち込め
どこともわからず、言葉もない。
吉田の城主は古くからの知り合いなので、
手紙を送る。
二かわの里に寄って白須賀の里で休憩し、
さらに新居の渡し船を経て前坂という場所に一泊。
この入海は浜名の橋に続くところである。
古歌にも
かぜわたる 濱なの橋の ゆふしほに
さされてのぼる あまのつりふね
と歌われている。
ふるさとを思い出し、さしてうまくもない歌を
詠んでみようという気分になった。
俄に風が激しくなり、雷もひどくなった。
海面が光り、波の音が枕を動かし、時雨は
旅の床をひたひたと迫ってくる心地がする。
伴っている童共が怖がって騒がしく、
ここはどこなの?などと眠れずに騒いでいる。
風はなおも激しいが、時雨の中浮かぶ雲を
吹き払って月の光が冴えわたっている。
ご機嫌よろしゅうございます。
8月28日(土)・29日(日)に、
和歌にまつわる上質な日本文化を体験できる
「わかまつり2021」が、B&C HALL 2F特設会場
(天王洲キャナルイースト内/品川区東品川2−1−3)
にて開催されます。
和歌の披講やかるたの実演などもあり、和歌を身近に
楽しく感じられるイベントが行われる予定です。
宗実家元・宗翔さんも、呈茶と茶の湯と和歌の関わり
についてのお話をする予定です。
詳細は下記をご覧ください。
prtimes.jp/main/html/rd/p/000000004.000062390.html
「上りの記」では、当時21歳の徳川義直に
手厚いもてなしを受けた様子が日記に記されていました。
この21年後の「下りの記」でも義直公の名が登場しています。
1600年生まれの義直公は名古屋城の完成の際に
御母堂と共に城に入り、御三家尾張徳川家の初代となります。
父家康公の遺徳を偲び、儒教を奨励し、
名君とうたわれていました。
家康の孫にあたる年の差四歳の家光とは時折、
衝突したようです。
この「下りの記」では義直公の母が一年前に亡くなり、
江戸から帰り法要を済ませ、その喪に服していることが、
宿の主から語られています。
〇桑名城主
桑名の里に到着した遠州を,
桑名城主が出迎えています。
この年の桑名城主はこれまで本田忠政と
されてきましたが、松平定綱と改めます。
「月刊遠州」6月号でも松平定綱が紹介されており、
定綱にあてた遠州の消息などから
定綱と遠州の交友があったことがわかります。
定綱は、徳川家康の異父弟 松平定勝の3男で、
1635年から五万石の加増を受けて、
大垣藩から桑名藩にはいっています。
1万石からスタートした定綱は、
加増を希(こいねが)って11万石にまでなりますが、
それには改易された福島正則の家臣を
受け入れるためだったという話が語られています。
(ご興味ある方はこちらhttps://www.jacom.or.jp/column/2021/04/210424-50930.php)
先ほどご紹介しました通り、
定綱は同時代の文化人として知られた遠州をはじめ、
木下長嘯子や林羅山らと交流がありました。
遠州流が松平家の茶として代々継がれ、
寛政の改革で有名な松平定信の代まで伝えられました。
定綱と遠州の交友から、遠州流が松平家の茶として
代々継がれ、寛政の改革で有名な松平定信の代まで
伝えられました。
定信自身は遠州流を本にした
お家流を開いたという記録が残っています。
三重県桑名といえば、蛤の名産地です。
揖斐(いび)川、長良川、木曽川が伊勢湾に流れ込み、
川の水と伊勢湾の水が混じり合って
栄養豊富な水域となるため、
濃厚な旨味を持つ美味しい蛤が育ちます。
かつては殻付きの枯れた松葉や松笠を燃やしながら、
蛤を焼いたようです。
この焼き蛤は名物として、
伊勢参りに訪れた人々から全国にその名が
知れ渡ったと言われています。
この桑名の地名と蛤を合わせて
「その手は桑名の焼き蛤」
という洒落言葉が、江戸時代には
すでに使われていました。
やじさんきたさんの珍道中『東海道中膝栗毛』
のなかでも、二人が桑名でこの焼き蛤を肴に
酒を楽しんでいる様子が描かれています。
ちなみに、蛤の旬は春先のようですが、
桑名のはまぐりの旬は初夏から夏場の8月頃にかけて、
今がちょうど美味しい時期です。
十日 暁の頃に出発し、桑名の里に着く。
城主(松平定綱)の出迎えを受けて、
しばらく休息し、語らう。
船着場から船頭の声がして
「潮が満ちた!追い風だ!」
というのを聞いて、申の上刻(17時前頃)、
城主に大急ぎで暇乞いをして船に乗る。
順風に帆を引き、船のゆく事
飛ぶ鳥のごときはやさである。
ある家の若者が詠んだ歌
ふねにのる 人の齢も追い風に
いそげば申の おはりにぞつく
熱田の宿の主が出迎えて物語などし
ながら共に宿に向かい到着。
徳川義直公は大樹のごとき御慈非篤く、
世間の評判は言うまでもない。
御母堂は宗応院と号されていらっしゃる。
去る1614年の9月10日に亡くなられた。
ちょうど一周忌今日、法要を営まれるために
武蔵よりこの国にお帰りになって
物忌のお籠りになっていらっしゃると宿の主。
このことをお伝えして帰りますとのこと。
つねならぬ 世のならひこそ かなしけれ
玉のうてなの 住いなれども
このように思いながら
宿に到着すると、時は丑の刻、真夜中になっていた。