これまで、この浜松城主は松平重仲と考えられていましたが、
この旅日記が記された1621年(元和七年 辛酉紀行)の浜松城主は
浜松出身の高力忠房の可能性があります。
高力忠房は1619(元和5)年に浜松へ転封。
20年浜松をおさめた後、1638(寛永15)年には
肥前国島原(現:長崎県)へ転封。
幕府から信頼されていたため島原の乱の戦後処理のために
譜代の家臣の中でその任務に耐えられる人物として島原藩転封となり、
藩主として以外にも長崎警備、外様大名の多かった九州のとりまとめを任されています。
また息子隆長の正室は、遠州公と公私に渡り交友の深かった、永井尚政の娘です。
仕事柄、長崎奉行との関わりも深い遠州公ですので、
なんかの関係があったことが考えられます。
旅日記で遠州公の出立まで出向き、名残を惜しんだ様子も頷けます。
26日。
昨日とは打って変わって晴れ間となり、
蒲原の宿を出発。清見が関に差し掛かります。
清見が関は天武天皇の頃東国の敵から駿河国を
守るための関所として置かれました。
その関を保護する目的で置かれた清見寺は、
駿河湾、伊豆の連山を望む景勝地であり、
約1,300年の歴史を持つ臨済宗の寺院です。
家康が今川義元の人質だった頃、教育を受けた
場所としても知られ、江戸時代には朝鮮通信使
の宿泊所としても使われるなど歴史深い寺社です。
遠州公の作った茶杓「清見関」はこの地を訪れた
際に作ったもので、筒に
「清見関荒垣竹東行之次作之」と記され、
『遠州蔵帳』や『雲州蔵帳』に記載があります。
三島から沼津へ移動。一行は黄瀬川のあたりを進んだと考えられます。
この地域を流れる黄瀬川は、いろいろな伝説の多い地でもあります。
室町時代の連歌師飯尾宗祇は、1471年(文明3)この地で戦闘のため陣を張っていた武将・
東常縁(とおのつねより)から古今伝授を受けたといわれています。
「古今伝授」とは「古今和歌集」の解釈等を伝えていくもので、平安時代末、藤原基俊か
ら俊成・定家と代々二条家に伝えられ、その後東常縁に伝わりました。
公家の三条西実隆も宗祇から古今伝授をうけ、その実隆に武野紹鷗が和歌を学びます。
そして和歌の心が茶の湯の中にも影響を与えていくこととなります。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は先週に引き続き、波の文様についてのご紹介を
致します。
波の上ではねる、鯉のような魚の描かれた図柄
これを「荒磯」とよんでいます。
荒磯裂と呼ばれる名物裂には、有名な荒磯緞子がありますが
穏やかな水流と優しい魚の姿をしています。
一方、緞子に比べると知名度の低い荒磯金襴の
水流と魚形は、激しさと厳しさを持ち、
それぞれの裂地の生まれた土地柄や民間伝承を反映して
できた違いと考えられています。
ちなみにこの荒磯緞子ですが、遠州公がこれを好んで茶入の
仕覆としたことから、更に人気が高まったと言われています。
この仕覆の添う茶入は
中興名物 高取鮟鱇茶入「腰蓑」
瀬戸春慶「春慶文琳」
瀬戸金華山大津手本歌「大津」
丹波耳付「生野」
があります
ましわりの昔もいまもかはらぬは
み屋ひこころのあへるなりけり
この歌は有栖川熾仁親王の歌です。
遠州公が桂宮智仁親王より拝領した茶入に添えられています。
この茶入の披露のために京都伏見の六地蔵に建てた茶室
「転合庵」が東京国立博物館にあり、茶入も所蔵されています。
4月11日より東京国立博物館ではじまる
「茶の湯」美術展
昭和55年(1980)に名家秘蔵の茶道具をとりあげた
初めての展覧会から、実に37年ぶりの開催となります。
遠州流茶道でも4月28日(金)11時から15時の間
お呈茶席を担当致します。
茶の湯道具の数々の名品をご覧になった後ゆったりと
お茶を一服召し上がって下さい。
10月 30日(金)遠州公所縁の地を巡って
「擁翠亭(ようすいてい)」
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年の2014年は古田織部の400回忌にあたり
あるコレクターの思いがこもった、私設美術館が
北区鷹峯に誕生しました。
この美術館の建物は、昭和初期に建てられた生糸商人
の山荘にある土蔵を改装していて、茶室をイメージした
作りとなっています。
その敷地内には遠州公所縁の茶室
「擁翠亭」があります。
室町将軍足利義満の管領細川満元が築いた岩栖院を
家康が南禅寺に移し、刀装の彫金師後藤長乗に
与えました。長乗とその子後藤覚乗は、加賀藩主前田利常や、
小堀遠州の助力で「擁翠園」を造営します。
ここに作られたのが「擁翠亭」とよばれる小間の茶室で
この茶室は江戸中期に洛西の清蓮院に移築された後、
明治に同寺院が廃寺となって、解体されました。
その材料は保管されていましたが、長い間忘れられており
平成になって図面と供に見いだされて、
太閤山荘内に移築されました。
この擁翠亭は部屋が七つあり、窓の数も多くて十三あることから
別名を「十三窓席」といい、日本一窓の多い茶室と言われています。
先日この茶室でお家元の茶会が行われました。
9月 25日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「大池寺(だいちじ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週ご紹介した水口にはもう一つ遠州公作
といわれている庭をもつ大池寺があります。
このお寺は天平年間行基の開山と伝えられ、
行基がこの地域の人のために溜め池を
造ったことから始まるといわれています。
後に臨済宗に改められます。
水口城築城に携わった遠州公が、
水口築城を祝して作庭したと言われ、
サツキの大刈り込みをした枯山水庭園です。
書院から見える庭は、宝船と七福神を表した大刈り込み、
大海の大波小波を表し、砂紋の白州は水面を、
宝船が大海原に浮かんでいる様を表現しているとされています。
サツキが咲き、緑とピンクの対比が美しい
5月下旬から6月中旬にかけてが見ごろですが、
夏は刈り込みの深緑、秋には背後の木々が紅葉し、
庭園の白、緑、赤の色が美しく映えます。
平成に入って茶室前に水琴窟がつくられました。
四季折々の美しさが400年近くもの間、伝えられ
保たれてきました。
9月 18日(金)遠州公所縁の地を巡って
「水口城」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は水口城についてご紹介します。
水口は都から伊勢へ通じる交通の要所で
中世後期にはすでに町並が形成されていました。
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、
水口の地は徳川氏の直轄地となり、
東海道の宿駅に指定され、徳川家康も度々この地を通行し、
水口の寺院などに宿泊していたといいます。
三代将軍徳川家光は京都への上洛に先立ち、
寛永9年(1632)遠州公を作事奉行に任じて、
上洛する際の将軍専用の宿館として、
東海道の要衝の地である水口に豪華な本丸御殿を持つ
城を築かせます。
家光の威光を示すものであったため、
遠州公は延べ10万人の大工を動員し、
3年がかりで完成しました。
将軍家の宿館ふさわしく数寄をこらしたもので
その構造は二条城を小さくしたものでした。
この御殿は徳川家光上洛の帰途に一度使われただけで、
後に水口藩が成立、その居城となりました。
寛永十年はこの水口城の他にも、仙洞御所泉水奉行
伊庭御茶屋作事奉行、二条城本丸数寄屋作事奉行に
あたり、多忙を極めていた時期です。
遠州公はこの水口城の現場で直接指揮をとってました。
9月11日(金)遠州公所縁の地を巡って
「 南禅寺・金地院(八窓席)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は南禅寺・金地院をご紹介します。
黒衣の宰相とも称され、家康の側近として
絶大な権力を持ち活躍した以心崇伝。
その崇伝は応仁の乱でほとんど消失してしまった
南禅寺を再興します。その際、遠州公に複数の
建築や作庭を依頼しています。
崇伝の自坊であり、家康の東照宮が分祀された
金地院には、各大名や将軍が御成になることも
考えられ、遠州公は家康公への畏敬と崇伝の繁栄も
願って神仙蓬莱式の枯山水を構想しました。
各大名から寄進された名石を配したこの庭は
「鶴亀の庭」と呼ばれています
また三畳台目の茶室「八窓席」は
複数の連子窓や下地窓を機能的に配して
外からの自然光が茶室全体を回るように工夫がされています。
ちなみに全ての窓を数えても六窓ですが、
八窓席と呼ばれています。
遠州公が崇伝の依頼を受け、構想を始めたのは
先週ご紹介した大方丈の庭とほぼ同時でしたが
金地院の方が大方丈の二年後に完成しています。
9月 4日(金)遠州公所縁の地を巡って
「 南禅寺大方丈 虎の児渡しの庭」
ご機嫌よろしゅうございます。
各地の寺社などでは、その庭を
「遠州作と伝えられています」
と解説されていることが多く見受けられます。
その全ての真偽は定かではありませんが、
それだけ遠州公の当時の影響が強かった
ことがわかります。
そのような「伝遠州作」の庭の中で、
この南禅寺は、残された文献等から遠州公作
と確認できる数少ない作品の一つです。
借景、遠近法、大刈込といった、三次元的な技法を駆使し、
別名「虎の子渡し」と呼ばれ,左端の大きな親虎と
その横の小さな虎の子とが瀬を渡る様子を表すと
いわれています。
中国の説話では、虎の児は三頭いれば、一頭は獰猛で、
他の児虎を食べてしまうそうです。
そのため母虎は川を渡るとき、まず獰猛な児虎を
最初に向こう岸に渡して引き返し、次の一頭を連れて
渡ります。そしてまた獰猛な児虎を連れて戻り、
三頭目の虎を連れてまた川を渡ります。
そしてまた引き返して、最後に獰猛な児虎を再び連れて
渡るのだそうです。
母虎の子を児を想う気持ちが表れた
優しく雅雅な印象の庭園です。