4月 22日 (水)遠州流茶道の点法
「袋茶碗(ふくろちゃわん)」
ご機嫌よろしゅうございます。
3月25日にご紹介しました茶碗披きのお点法で
披露した茶碗に、亭主がその茶碗の格に応じて
裂を選んで仕服を作ったり、またお客様から
名物裂などを贈られたときに、その裂で仕服を
着せたりします。
そのため、お茶碗を披露した際と同じお客様を
改めてお招きし、今度は茶碗ではなく袋を
ご覧に入れるお点法が袋茶碗です。
茶道具に添えられる仕服の紐結び、
もともとは茶の湯が武将の戦略の一つになっていた時代、
高い身分の方に茶を差し上げる役の間で
主君の暗殺を防ぐため、自分一人の心覚えの封印結びを
したのがはじまりといわれています。
その結び方は文箱の封じ結びと同じように
紐が解かれているとすぐにわかるようになっており
教えることも習うこともない
幻の紐結びとされていたそうです。
戦国時代が終わると、このような封印結びとしての
意味合いも徐々に薄れ、花鳥風月に結びを託すようになったと
されています。(「茶の結び緒 」 淡交社)
遠州流茶道の袋茶碗の結び方は飾り付けに十三種類、
しまい込みに二種類あり、
季節やその裂の状態に応じて結び方を変えています。
4月 17日(金)
遠州公所縁の地を巡って 「将軍秀忠の御成」
ご機嫌よろしゅうございます。 龍光院に孤篷庵を営んだ年の十一月八日。 遠州公の江戸屋敷に将軍秀忠の御成がありました。 神田と牛込門内にあった遠州公の屋敷のうち 御成があったのは日常の屋敷である神田でした。 現在でいう千代田区駿河台三丁目辺り、オフィスビルが 立っています。 八畳敷の書院に二畳敷きの上段の間格天井などの 豪華な装飾が施された部屋に炉が切られており、 秀忠にはこの書院でお茶を差し上げたと思われます。 将軍が公式に臣下の屋敷を訪問するこの御成は、 将軍の威光を示し、主従関係を再確認する場として 機能していました。 もともと室町将軍家で行われており、それに倣い 新たな嗜好を加え、秀吉も行っていました。 特に二代将軍秀忠は、茶事を公式の行事にとり入れた 「数寄の御成」を展開します。 遠州公江戸屋敷御成の日。 この日秀忠は織部の茶会に出席しており その直後の御成であったようです。 織部から遠州へ 茶の第一人者としての将軍指南引き継ぎの布石と なったであろうことが推察される御成でした。
4月 15日 (水)遠州流茶道の点法
「二種点(にしゅだて)」
ご機嫌よろしゅうございます。
濃茶のお稽古で
「二種点」というお点法があります。
「二種」とはお茶の種類が二種類という意味で、
文字通り、二種類のお茶をお点てする
お点法です。
昔、お客様に招かれたお客様が、手土産として
お茶を持参したりすることがありました。
当時お茶は大変貴重なものです。
11月の口切から使用していたお茶も、
年をまたいで徐々に炉の終わりの季節ともなると
香りも落ちてきます。
そんな時、招かれたお客の方で、手持ちのよい
お茶があったり、はたまた大名など位のある方などが
お茶を持参し、亭主はいただいたそのお茶を二服目に
その理由を伝えてお客様にお点てする
これが二種点です。
一種目は亭主がもともと用意していたもので
一服差し上げ、二種目はご到来の御茶でございます。
ということで、予め茶入を用意していないので
真の棗で出すということになります。
二服点てることが予め分かっているので、
湯温を下げないように中水をしないこと
二服目は少し小服に加減し、さっとお点てすることなど
注意します。
3月 13日(金)遠州公所縁の地を巡って
「伏見での遠州公」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は伏見・六地蔵のご紹介をしました。
この六地蔵で、遠州公は洞水門を作って、
師・古田織部を驚かし、
19歳で藤堂高虎の養女と結婚。
慶長四年(1599)21歳の年には
初めての茶会を催します。
遠州公にとって、茶人として、また としての
スタートとなる地でした。
21歳の茶会では師・織部の茶の湯に倣った道具組で
奈良の商人を客として行われました。
また秀吉の死後、織部や金森出雲、堺衆ともに
吉野へ花見に。「利休亡魂」の額をかかげて野点を行い
織部の鼓で遠州公が曲舞を舞った記録があります。
また22歳の時に関ヶ原の戦いが起こり、
父、正次は家康に呼応し出陣し、戦功により
一万四千石に加増、備中国奉行となります。
その翌年23歳で二度目の茶会を行います。
初会には用いなかった禅語の掛物ですが、
二回目の茶会には「石渓心月(しっけいしんげつ)」
を掛けており、遠州公の茶の湯上達の度合いが
推察されます。
これ以降、遠州公が行った茶会の記録は
しばらくの間見当たらず、寛永まで時を待つことになります。
2月27日 大和郡山での遠州公の出会い
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は大和郡山についてご紹介しました。
今日はその地で遠州公に影響を与えた
いくつかの出会いをご紹介します。
遠州公がこの地に移り住んで
十歳の歳、
六十七歳の利休に出会います。
主君秀長が秀吉の御成の際に茶の湯で
もてなすため、その指導に訪れたのでした。
秀長の小姓であった遠州公は、茶会当日
秀吉の給仕をする大役を果たします。
利休切腹の三年前のことです。
十五歳、元服をした遠州公は
利休・織部と茶道の道を極めた人物が参禅した
春屋宗園の下で修行します。
後二十九歳で「宗甫」、同時期に「孤篷庵」の号
を与えられます。
遠州公の茶会の中で一番多く掛けられた墨跡も
春屋禅師のものです。
そして同じ頃、茶の湯の師として古田織部の
門を叩きます。後に伏見に住まいを移してからは
織部の屋敷のあった木幡まで一キロ程度の
距離になり、一層師弟関係を深めていきます。
十六歳にして、既に松屋三名物の一つ
「鷺の絵」を拝見するなど、若いながらも既に
後の大茶人への道の第一歩を踏み出したのでした。
2月 13日 (金)伊吹大根
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公の茶会記には、菓子として
きひ餅 ささけ掛テ
くりの粉餅 伊吹大こん
はけ目鉢ニミつくり
(「小堀遠州茶会記集成」年不詳十月八日)
という記載があります。
このうち、息吹大こんとは
小堀村にある伊吹山でとれる大根です。
甘辛く醤油煮にして口取りとして
お菓子につけています。
伊吹山のふもとで古くから栽培されてきた
伝統野菜の伊吹大根。
形がユニークで、葉と首が赤紫色を帯びていて
根は太短く丸みをもっています。
「峠大根」とか、先端がねずみの尾のように細長いことから
「ねずみ大根」とも呼ばれていました。
辛味の強い大根で、そばの薬味としても江戸時代から
評判になっていたそうです。
この故郷の大根を、自身の茶会に用いていたことが
茶会記から読み取れます。
この伊吹大根、しばらく作られておらず
幻の大根となっていましたが、近年郷土野菜として
復活しました。
しかし他との交雑を防ぐ必要があり純粋種の
生産量は多くないのだそうです。
2月 6日(金)遠州公出生の逸話
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公は近江小堀村で、新介を父に生まれた…
とご紹介しましたが、
実は、小堀遠州は浅井長政の忘れ形見である
という逸話が伝わっています。
浅井長政は、もともと遠州公の父新介が仕えており
織田信長に攻められ、落城した小谷城の悲劇は有名です。
その際、長政の長男万福丸は極刑となりますが
お市の方とその娘三人が助け出されます。
このとき実はお市の方にはもう一人、
生後間もない赤ん坊がいたのです。
その乳飲み子は、小谷城落城の際乳母に助けられ
無事脱出し、当時神照寺に出家していた
遠州の父新介に預けられたというのです。
そしてその乳飲み子が後の遠州公になったのだとか
真相は定かではありませんが、
遠州公が偉大な功績を残した故に生まれた逸話では
ないでしょうか。
1月 30日(金) 遠州公ゆかりの地に建つ小学校
「南郷里小学校」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は遠州公の故郷小堀村についてご紹介しました。
この小堀村を学区にもつ南郷里小学校では
地域所縁の人物である遠州公にちなんだ学習に取り組み、
遠州流茶道の指導や、遠州公の茶の湯の心を道徳教材として
取り上げるなどの活動をしています。
この学校の校章は七宝花菱をモチーフにされており、
また1975年に開学百年を記念して作られた校歌の二番には
二、ゆかりもふかい 遠州公
歴史のかおり 今もなお
条里の土は はろばろと
知恵のいずみの わくところ
と遠州公が登場しています。
この開学百年記念の際には
「育ての泉」というモニュメントも校内に作られました。
こちらはゆかり深き遠州公の斬新な作庭の創意工夫を
取り入れて作られた湧泉式のつくばいから水が
流れる仕組みになっています。
遠州流茶道では遠州公の教えを学びながら
茶の湯の心、思いやりの心を学んでいます。
同様に、この南郷里小学校を毎年卒業する100名を超える生徒達が
遠州公の心を学び、社会に巣立っていきます。
遠州公の教えはこうして地域の方にも受け継がれていたのでした。
1月 23日(金)遠州公誕生の地「小堀村」
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州流の流祖である小堀遠州は、
近江長浜の小堀村に生まれました。
遠州公を輩出した小堀家は室町時代
中頃から資料に現れる小堀村の土豪でした。
天正7年(1579年)に誕生の後、
遠州公の父・新介正次は、
豊臣秀吉の弟である秀長に従って
但馬や播磨国(現在の兵庫県)に赴き、幼少の
遠州公も父に従って一旦小堀村を離れます。
従って、この小堀村での生活は
あまり長いものではありませんでした。
この地に再び関わりをもつのは、
元和5年(1619)
近江国浅井郡に一万石程の領地を得て、
小室藩の基礎を築き、また同8年には近江国奉行となり、
この地の幕府の人間としての最高責任者になります。
現在の小堀町では、遠州公にちなんだ街づくりが行われ、
小堀遠州出生地顕彰碑や
遠州流庭園などがつくられています。
来週はこの遠州公所縁の地に建つ南郷里小学校での
取り組みについてご紹介します。
1月16日(金)遠州公のゆかりの地を巡って
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州流茶道の流祖小堀遠州は
天正七年(1579)に生まれ、
正保四年(1647)に六十九歳でなくなります。
近江に生まれ、幕府の官僚として
また茶の指導者として、日本各地と
関わりを持っていきました。
この六十九年の生涯の中の
遠州公ゆかりの地を
当時と今の姿を追いながら
一年間皆様と共に見ていきたいと思っております。
大名茶人にして江戸の優れた官僚であった
小堀遠州。
その功績は広く知られていますが
まだまだ日本の各地で、その地域の人のみが知る
遠州公の逸話や伝説もあるのではないかと
思います。
もしこのメルマガをご覧になって
なにかご自身の身の回りの地域で、遠州公にまつわる
お話をご存知の方がいらっしゃいましたら、
是非お知らせいただきたいと思います。
ご出張、ご旅行の際に遠州公の関わった場所が
近くにあるかもしれません。
そんな時このメールマガジンを思い出して頂けたら
幸いです。