ご機嫌よろしゅうございます。
これまで遠州公ゆかりの茶陶をご紹介してまいりましたが、
遠州公が指導した茶陶は国内だけではありません。
オランダ・中国・朝鮮と海外の窯にも好みの茶陶を焼かせていました。
現在、茶会で海外の道具を取り入れることはよく行われますが、
江戸前期の茶会記にみると、染付・青磁など用いているのは
遠州公を始め武家茶人や僧侶で、利休以来の千家の茶の湯では
この種の茶陶はほとんど使われていません。
17世紀に海外から請来された茶陶の多くは武家社会や交易に
関わった人々の間で珍重され、茶道界全体に行き渡るのは
もう少し後のことになります。
今月は遠州公が指導した海外の茶陶をご紹介致します。
ご機嫌よろしゅうございます。
幕末の道具商田内梅軒が著した「陶器考」の中に記される「遠州七窯」の一つに
古曽部焼があげられています。
伊勢姫、能因法師隠棲の地としても知られる古曽部。
古曽部焼の開窯は桃山時代末から江戸初期とされ、
遠州七窯の伝承があるものの、確かな史料がありません。
そのため遠州以後の窯と考えられています。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は膳所焼の特徴について。
この地域の瀬田の名をとった「瀬田焼」という焼き物が茶会等の資料に
残っており、これが膳所焼の前身であったと考えられます。
膳所焼は瀬戸・美濃の陶技を基本とし、ねっとりとした細かい白土に、
鉄錆のような色合いの金気釉を素地にかけ、その上から濃い黒釉や
黄色の飴釉などを景色となるようにかけています。
茶会記などの記録から寛永年間(1624-44)を中心に広く使用され
ていたことが知られています。茶の湯の流行にともなって、
遠州好みの瀟洒な作ぶりのものや、
京都の茶人などの好みの茶器や切型によるものを焼いたり、
禅宗寺院で用いる斎茶用の天目茶碗を量産していたようです。
ご機嫌よろしゅうございます。
今月は膳所焼のお話しを。
膳所焼は遠州公との深いつながりが感じられる場所で焼かれた茶陶です。
琵琶湖の南端に位置する近江国膳所。天智天皇の頃湖畔に田を拓き、湖水の魚を取って朝廷にお供えしたことから「膳所」と称されるようになったといわれています。
1634年、膳所藩主となった石川忠総は、その父、大久保忠隣が小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人で、自身も忠総も遠州公と親交が深かったことから
その指導を受け茶器に力を注ぎました。
膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として
重宝されますが、忠総の死後は衰退していきました。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の指導で作られたとされている茶入
「大江」をご紹介します。
膳所焼茶入の代表ともいわれる「大江」
細かい轆轤目のついた紡垂形の体、肩には可愛らしい耳が付き、
柿茶釉の上に黒釉一筋がめぐります。
膳所焼に因んで近江国粟田郡瀬田村の
大江なる地名を遠州公が銘につけました。
内箱と挽家の蓋表には遠州公筆の「大江」の字が
金粉字形されています。
遠州所持の後、その遺品として松平備前守に譲られ、
文化年間、伏見屋甚右衛門の取り次ぎで松平不昧公が所有しました。
〇伊賀焼の歴史
ご機嫌よろしゅうございます。
先月ご紹介した信楽の地と山を越えると、そこは伊賀。
伊賀市は三重県の北西部にあたり、江戸時代には藤堂家の城下町や
伊勢神宮への参拝者の宿場町として栄え、
忍者や松尾芭蕉のふるさととしても有名な地。
この伊賀でも茶陶の生産が行われていました。
茶会記に初めて登場する伊賀焼は、
天正九年(1581)十月二十七日に床飾りされた「伊賀壺」ですが、
この時代に遡る古窯についてはよくわかっていません。
本格的に伊賀で茶陶が焼かれ始めるのは、天正十三年(1585)に
筒井定次が大和郡山からこの地に移封となってよりと考えられています。
上野城内で茶道具の焼成を目的としてはじまり、
慶長十三年、藤堂高虎・高次が城主となって後も引き継がれ、
桃山陶器の一つの頂点を極めます。
〇信楽焼の特徴
ご機嫌よろしゅうございます。
信楽焼はその素朴さが好まれ、
茶人たちに茶の湯の道具として取り上げられていきました。
信楽焼に使われる土は、
琵琶湖の湖底に堆積した古琵琶湖層より採取します。
およそ400万年前から積もった土は耐火性があり、
信楽焼の素朴な肌触りや温かい火色を創りだします。
掘り出された様々な性質をもつ土や原料を砕いて、
水分と一緒に良く練ることで更に良質の陶土をつくります。
この土で成形した作品を1200度以上、二日間以上かけて焼いていきます。
窯で焼いたときに付着する自然の灰(ビードロ釉)、
そして土に含まれる石粒が白っぽくなることが信楽焼らしさを生み出しています。
〇信楽焼の歴史
ご機嫌よろしゅうございます。
先月の備前焼に続きまして、今月は信楽焼のご紹介を。
信楽焼も備前とともに六古窯に数えられる窯の一つです。
※信楽町観光協会ホームページより引用
信楽は、近畿地方と東海地方を結ぶ交通路に位置し京都にも近いこと、また良好な陶土が豊富なことから、古くから焼き物の産地として知られていました。
大もの陶器の産地として知られる信楽焼は、幻の都紫香楽宮の屋根瓦を焼くことから始まったといわれています。窖窯による壺、甕、擂鉢などの焼き物づくりが主でしたが、
室町時代になり、土味を生かした素朴な風合いが茶人の目に止まり、桃山時代に至って茶陶として発展しました。
ご機嫌よろしゅうございます。
今月ご紹介する茶陶は備前焼です。備前焼の歴史は古く、瀬戸・常滑・信楽・丹波・越前とともに六古窯の一つにも挙げられます。
古墳時代に須恵器の生産をしていた陶工が、平安から鎌倉時代初期にかけてより実用的な器を焼き始めたのが始まりと言われています。茶の湯が盛んになるとその素朴な風合いが侘茶の心に適うとして、珠光や武野紹鷗に見いだされ茶道具として用いられるようになりました。
桃山時代、茶の湯の発展と共に隆盛を極めた備前焼でしたが、江戸時代になると茶の湯の趣向が変化し、衰退していきます。再び備前焼が再評価されるのは戦後、のちに人間国宝となる金重陶陽が備前焼の魅力を広め、後身の育成に尽力しました。
現在、備前焼は茶の湯に欠かせない人気の焼き物の一つです。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と朝日焼についてのお話しを。
朝日焼は慶長年間(1596~1615)、奥村次郎右衛門籐作(生没年不詳)が宇治朝日山に築窯したことが始まりとされています。
初代藤作の作った茶碗は豊臣秀吉に愛玩され、御成りあって以後藤作を陶作と改め、家禄を賜ったと伝えられています。
そして正保年間(1644~1648)に、当時茶の湯の第一人者であり、宇治に隣接する伏見の奉行をしていた遠州公の指導と庇護を受け、遠州筆の「朝日」の二字を使うことを許されたといわれています。
茶碗に印を残すという行為は当時珍しかったようです。
また遠州公は宇治の茶師である上林家との交流もありました。
朝日焼は宇治のお茶を壺に詰めて納めるときに、「このお茶碗で召し上がってください。」
と茶碗を添えて送ったといわれ、宇治茶の発展に伴って進物として需要が高まりました。
そして、遠州好みの茶陶として公家や茶人をはじめ全国の大名に広く知られ好まれるようになりました。