9月26日 原文

2019-12-14 UP

さもあらむかし そこをゆき過て うつの山に
いたりぬ 此里を見れば しろきもちの 
霰のごとくなるを器に入て 是めせと
いふ とへば たうだむごとて此里の名物
也といふ さてはもろこしより渡たる餅に
やあむなるといふ さにはあらず 
十づつしゃくふによりて とをだむごとい
ふ也とかたる さらばすくはせよといへば 
あるじの女房 手づから いひかいとりて
心のままにすくふ これになぐさみて 
暮にけれども うつの山にかかる もとより
つたかえではしげりて と ある所なれば 
いとくらふ道もほそきに うつつともわきま
へ侍らず 
  さらでだに 夢のうき世の 
旅の道を うつつともなきうつの山こえ
ゆくえは岡辺の里に着 一宿 其夜は 岡辺
の松風に夢をおどろかし 明れば 

鞠子

2019-12-13 UP

「うめ若菜、丸子の宿のとろろ汁」
と松尾芭蕉が詠んだように、丸子ではとろろ汁が名物として知られています。
時は戦国、1596年創業の「丁子屋」が現在も営業中です。
こちらは静岡を往来する旅人にとろろ汁でもてなしてきました。
旅日記では触れていませんが、遠州公が訪れた際にもきっと営業していたはず。
東海道中膝栗毛にも「丁子屋」のくだりが出てきます。
丸子とも鞠子とも表されますが、ここで遠州は「沓」を求めようとしたところ、
今は落ちぶれて「沓」を売って生計を立てる、貴族らしき人の「沓」は通常より高く、
結局買わず。蹴鞠の沓と鞠子ということで、
遠州公も面白いと思って書き留めたのでし
ょうか。

駿府 遠州の名の由来

2019-11-15 UP

秋霧の浪間に浮かぶ三保の松原。
眼下に広がる絶景に動くことができずにいた
遠州一行、陽もくれ始めて惜しみつつ寺を降ります。
江尻の里での休息の後、一行は府中へ。
遠州30歳の時、大御所家康の居城駿府城天守閣作事を担当し、
その功績から遠江守を任官し、以後小堀遠州と
呼ばれることになりました。
任務にあたった慶長13年(1608)一年間この地に滞在した
思い出深い地でもあり、当時の場所を尋ねてみると草深く
荒れ果て、人の気配も感じられない様子でした。
  住み慣れし宿は葎にとぢられて 
秋風通ふ 庭の蓬生
と、目の前の寂れた景色に、過ぎていった時の
流れに想いをよせる遠州でありました。

清見寺

2019-11-2 UP

26日。
昨日とは打って変わって晴れ間となり、
蒲原の宿を出発。清見が関に差し掛かります。
清見が関は天武天皇の頃東国の敵から駿河国を
守るための関所として置かれました。
その関を保護する目的で置かれた清見寺は、
駿河湾、伊豆の連山を望む景勝地であり、
約1,300年の歴史を持つ臨済宗の寺院です。
家康が今川義元の人質だった頃、教育を受けた
場所としても知られ、江戸時代には朝鮮通信使
の宿泊所としても使われるなど歴史深い寺社です。
遠州公の作った茶杓「清見関」はこの地を訪れた
際に作ったもので、筒に
「清見関荒垣竹東行之次作之」と記され、
『遠州蔵帳』や『雲州蔵帳』に記載があります。

古今伝授

2019-10-17 UP

まち古今伝授の
三島から沼津へ移動。一行は黄瀬川のあたりを進んだと考えられます。
この地域を流れる黄瀬川は、いろいろな伝説の多い地でもあります。
室町時代の連歌師飯尾宗祇は、1471年(文明3)この地で戦闘のため陣を張っていた武将・
東常縁(とおのつねより)から古今伝授を受けたといわれています。
「古今伝授」とは「古今和歌集」の解釈等を伝えていくもので、平安時代末、藤原基俊か
ら俊成・定家と代々二条家に伝えられ、その後東常縁に伝わりました。
公家の三条西実隆も宗祇から古今伝授をうけ、その実隆に武野紹鷗が和歌を学びます。
そして和歌の心が茶の湯の中にも影響を与えていくこととなります。

富士の山

2019-10-16 UP

冨士の山遠州公筆 富士の絵賛

いよいよ富士山が見えてきました。
原の宿近辺の浮島ヶ原と呼ばれる地域は街道一の富士の眺めと称されて、昔から和歌の枕詞としても有名です。
当時活火山であった富士山には煙があがっていました。
その絶えぬ煙に、思い出深い人のことなどを想う己の心の内を重ね合わせて遠州公が歌を詠みます。

わがおもひ いざくらべ見む 富士の根の
けぶりはたえぬ ひまやありなむ 

一般の人にとって富士山を実際にみることは、一生に一度あるかないかのことでしたでしょう。
遠州公は、その雄大な姿を多くの歌に詠みまた富士の姿があまりにも美しいので、
懐紙を二人の供の者に持たせて、富士の姿を懐紙に写し取ったといわれています。

東海道旅日記「三嶋茶碗」

2019-8-23 UP

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写真提供 大有 ギャラリーきほう
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写真提供 三嶋大社

三嶋大社は、実は茶の湯に所縁のある神社です。
高麗茶碗の一つに三嶋茶碗という種類がありますが、
その名はこの三嶋大社が関係しています。
室町時代末期に朝鮮半島から日本に入ってきた茶碗の文様が、
当時三嶋大社で発行され広く親しまれていた「三嶋暦」に
よく似ていたため、当時の茶人から「三嶋手(みしまで)」
「暦手(こよみて)」とよばれて愛用されてい ました。
「三嶋暦」は、仮名文字の暦として日本で一番古く、
また木版刷りの品質のよさ、細字の文字模様の美しさから、
旅のみやげやお歳暮などとして人気がありました。
現在では茶の湯をしていなくても目にする、
なじみのある文様ではないでしょうか?

東海道旅日記「三嶋」

2019-8-22 UP

箱根路を越えた遠州一行は
夕焼けとともに山を下り、三島に到着。

かり枕かたぶくるより うたたねの 
     夢を見しまの ひとのおもかげ

三嶋には遠州公の忘れ難い人との思い出があるようで
「此歌の詞書 思子細有て委(くわしく)かかず…」
と意味深な一文が記されています。
三嶋宿は箱根越えを成し遂げた人々が「山祝い」で
散財した場所として栄えました。
そしてここに鎮座する三嶋大社は、奈良・平安時代から
古書に記録が残る歴史ある神社で、源頼朝が源氏再興を
祈願したことでも有名です。
平成12年には、本殿が重要文化財に指定され、
多くの観光客で賑わっています。

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写真提供 三嶋大社

東海道旅日記「箱根」

2019-8-21 UP

朝から激しく雨風が吹いていましたが、
十時を過ぎる頃には雨も静まり、遠州一行は宿を出発します。
この日は箱根越え。
1618年、江戸幕府は箱根湯本から元箱根に
至る山道を整備しました。
有名な関所の制度が定まったのは寛永2年(1625)のこと。
旧小田原宿から旧三島宿は、特に難所中の難所と言われ、
また揉め事も絶えず「箱根の八里越え」と呼ばれました。
無事に越えることができると「山祝い」といって
主人から郎党に祝儀がでたほどでした。
丸一日かかったといわれる箱根越えですが
遠州公も10時に出発し、日の暮れる午後5時
には箱根に下りており、なかなかの健脚ぶりです。

東海道旅日記 9月24日

2019-8-20 UP

047

24日 
雨降風不止  けふはここにとどまるべきなどいふ 
巳時許りに天晴 風もしづまる 立小田原 
湯本相雲寺を経て あしがらの 山にかかる 
遠近に重る山々 谷々のこずえ 色々に染出す
にしきをさらすかと うたがふ
あまりの面白きに ゆきもやらず とある岩がねに
たすけられて 独見る 山の紅葉といふ心を

思ふかひ なき世なりけり 
あしがらの 山の紅葉も君しなければ

やうやうやまをよぢて 葦河の新宿に着
暫 休息して それより山中の里を過ぎて
夕陽とともに山をくだりて 三嶋の里に着 一宿 
折節思ひ出ることありて うたたねの夢見て

かり枕 かたぶくるより うたたねの
    夢をみしまの ひとのおもかげ

此歌の詞書 思子細有て委(くわしく)かかず