これまで、この浜松城主は松平重仲と考えられていましたが、
この旅日記が記された1621年(元和七年 辛酉紀行)の浜松城主は
浜松出身の高力忠房の可能性があります。
高力忠房は1619(元和5)年に浜松へ転封。
20年浜松をおさめた後、1638(寛永15)年には
肥前国島原(現:長崎県)へ転封。
幕府から信頼されていたため島原の乱の戦後処理のために
譜代の家臣の中でその任務に耐えられる人物として島原藩転封となり、
藩主として以外にも長崎警備、外様大名の多かった九州のとりまとめを任されています。
また息子隆長の正室は、遠州公と公私に渡り交友の深かった、永井尚政の娘です。
仕事柄、長崎奉行との関わりも深い遠州公ですので、
なんかの関係があったことが考えられます。
旅日記で遠州公の出立まで出向き、名残を惜しんだ様子も頷けます。
旅日記では遠州公の知り合いの浜松城主が、
遠州をしきりに城にうながし、
出発の際にも名残を惜しんで見送る様子が記されています。
この浜松城は「出世城」としても有名です。
天下人となった徳川家康が、29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごし、
有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの時期にあたります。
家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの譜代大名が守り、
藩政260年の間に25代の城主が誕生しました。
歴代城主の中には幕府の要職についた者も多い
(老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人※兼任を含む)
ことから、後に「出世城」と言われるようになりました。
28日 朝天晴。
知り合いである浜松の城主が使者をよこしてきた。
中和泉を過ぎて、天龍川の船渡を経て、浜松にさしかかる。
城主がまた遣いをよこしてきたので、案内させて城に入る。
長いこと滞在していたが、お昼頃にぱらぱらと雨が降り出した。
今日は城にお泊りくださいと城主にしきりに引き留められるのを辞して、
今切のほとりまでは進みたいと思っていることをお伝えして城をあとにした。
城主は名残を惜しんではるばる見送りにでてくれて別れた。
細雨が降り、風も静かであった。その名の通りの浜松は二本並んでいる。
汀に寄せ来る浪の音も、松の間を抜ける風の音も美しく響いている。
浪の音に はま松風の 吹合せ
折から琴の 音をや調ぶる
霧雨のような衣が濡れるほどではない雨が降るなか、新井の渡りに到着する。
急に風が激しくなって、波も音を立てている。雨足も強くなってきた。
山風の 秋の時雨を 吹来ては
浪もあら井の わたし舟哉
雨と浪で濡れた袖も乾かしおわらぬうちに舟からおりた。
ここで宿を取り一泊。燭の明かりが灯る頃、京都から文が届けられた。
故郷のことなどの話を聞いて過ごした。
夜も更けたが、雨風は止む気配がない。
旅日記には二むら山と記されていますが、先代の宗慶宗匠が実際にこの地を訪れ尋ねてみるとなかなか見つからない。
地元の人には「にそんさん」と呼ばれていたそうで、お寺にたどり着くまで苦労をされています。
ふたむらも にそんも同じ 言なれど
道まどはせる 法蔵寺哉
紅心宗慶宗匠
青葉から次第に紅葉する葉が吹き乱れ、
まるで錦をまとったかのような美しい山の麓に佇んでいた法蔵寺は、
松平の初代親氏が建立し、家康公が幼い頃読み書き等手習いをしたと伝わるお寺です。
また手習いの際に水を汲んだといわれている「賀勝水」と呼ばれる湧き水は、日本武尊が東国征伐のときに「加勝水」と名付けたと伝わっています。
そして時は幕末となり、もう一つ大きな出来事が。
山腹には新撰組隊長近藤勇のものと伝わる首塚があります。
明治元年東京板橋で斬首され京都三条大橋西に晒された近藤勇の首を同士が持ち出し、近藤が生前敬慕していた京都誓願寺住職に託されました。そして住職が転任した法蔵寺に運ばれたといわれています。当初は、石碑を土で覆い、ひっそりと弔ったといわれ、昭和33年に発掘調査が行われ、石碑の台座と近藤の遺品と思われる品が出土しました。
さて遠州一行は境川にさしかかり、三河国へ入ります。
境川は三河国と遠江国の国境で、現在は、静岡県(湖西市)と愛知県(豊橋市)の境となっています。
この地三河吉田城主であり、親しい間柄であった松平忠利は遠州公より三歳年下で三河深溝で生まれました。
父・家忠は「家忠日記」とよばれる日記を残しており、当時の様子がうかがえる貴重な資料となっています。
伏見城の戦いで鳥居元忠と共に戦死。
父の弔いにと忠利は参陣を希望しますが、留め置かれたといいます。
関ヶ原の戦功により父祖の旧領三河深溝に1万石を、慶長17年(1612年)には三河吉田3万石に加増されました。
29日 晴天 朝早く出発する。 風は新居の里ではないが、いまだ荒く吹き荒れる中里をでて、 夜の明けきらぬうちに白須賀の宿を通る。
よをこむる 道の便の 竹の杖
行衛をとふにしらすかの里
ほのぼのと夜が明けていく。塩見坂をのぼり、谷を行くと細い河がある。 聞けばここから三河(みかわ)の国だという。 そこを行くと里があり、二河という。
河は三河 里は二河 合すれば
いつかはかへり つかむ故郷
ここから駕籠に乗りひと眠り、目が覚めて問えば すでに吉田の里に到着していた。 夢みながら はるばると長き道のりをきたことよと思って
ゆめとても よしや吉田の さとならむ
覚てうつつも 憂き旅の道
と詠んでみる。 ここの城主は私が特に親しくしている方なので、 立ち寄りてお会いしたいと遣いをする。 あいにく京都へ出向いていて留守とのこと。残念。 そこを過ぎて豊川の橋を渡りこざか井というところに到着した。 関西の堺の津を知る人が、名前は同じだけれどもここはその名の通り、小堺であるよと戯れると、里の人がこれを聞いて、この里の端に小坂があることから小坂井なのだという。 そこを行き過ぎて、今度は五位の里に至る。 東海道中に数多くの里の名があるが、この里ほど位の高い里はないなあと言うと、またある人が五位鷺という鳥の名もありますななどと供のものが言っているのを聞いたりなどしているうちにあか坂の里に到着。 その次は長沢という里。(その里の名をいれて)
雲晴て 日はあか坂の 里なれど
旅の行衛の 道のながさは
なお進んでいくと二むら山という場所に着いた。この山の中に法蔵寺という寺があり、立ち寄って拝見する。
三かはなる ふたむら山を はこにして
中へいれたる ほうぞうじ哉
此の山をみてみると、青葉まじりの紅葉が風に吹きあらされる様子は、 まるで錦の布を切り取ったかのような美しさである。
ふたむらの 山の秋風はげしさに
紅葉のにしき 着てもこそ見れ
ここから藤川というところに到着して一泊。
金谷の里に着き、しばし休みを取った遠州公。
金谷には遠州好の茶陶「志戸呂窯」があります。
一時は衰退していた窯を、慶長年間(1596~1615)に徳川家康が瀬戸の陶工加藤九郎右衛門景延を招いて再興。
通説では志戸呂で遠州の好みの茶器を製したのは寛永年間(1624~1644)といわれますので、この旅日記が記された元和七年(1621)には、まだ遠州公と志戸呂とのつながりは始まっていなかったと考えられます。
後世、遠州七窯として名を知られることとなる金谷の地に、遠州公がいつ関わりを持つようになったのか、興味深いです。
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」
と言われた通り、静岡の大井川は、流れも早いため船も渡せず、
また徳川幕府の軍事上の必要から橋が架けられなかったため、
川越人足の肩にまたがるか、蓮台とよばれる乗り物に乗って
数人の人足が担いで川を渡りました。
明治時代に入って架橋が許され、各所に橋が架けられました。
島田市にある蓬莱橋(ほうらいばし)は、明治12年に大井川に
架けられた木造の橋で、その長さは897.4。
「厄なし(8974)の橋」や「長生き(長い木)の橋」とも呼ばれています。
「木造歩道橋として世界一の長さ」とギネスに認定され、
いまだこの記録は破られていません。
映画やテレビドラマなどの撮影も行われるなど、観光スポットになっています。
撮影:山本幸夫
宇津谷峠に差し掛かったところ、ここの名物「たうだんご」に出合います。
さては唐の秘法で作られた珍しい餅かと思った遠州でしたが、正解は十づつすくうので「十団子」。
試しにやってみさせると見事ひょいひょいっと面白いように十づつすくって碗のなかに入れていきます。
この「十団子」、室町時代の連歌師・宗長の綴った『宗長手記』にも登場しているので室町時代からあったようです。
「折節夕立して宇津の山に雨やどり。此茶屋むかしよりの名物十だんごといふ、一杓子に十づゝ。かならずめらうなどにすくはせ興じて。夜に入て着府」(大永4年(1524)6月16日)
地元の鬼退治の伝承などとも関係して、江戸時代をすぎると、糸でつないだ形に変化して売られるようになっていったようです。
鞠子を通りすぎ、宇津の山に到着。
この里で出された霰のような白い餅を器に入れてお召しくださいと言う。
尋ねると「とうだんご」という里の名物なのだとか。
さては中国(唐)から渡ってきた餅であろうと、どうやら違うらしい。
十づつ杓子ですくうので「十団子」というのだと言う。
ならば実際にすくってみなさいと言うと、主の女房が自ら釈子を手に取り、自在にぴたりと十ずつすくっていく。
この様子をみて時の移るのも忘れ、楽しんだ。