2月6日 遠州公ご命日
本日は流祖小堀遠州公のご命日です。
毎年この祥月命日の2月6日には
ご家族揃って京都の大徳寺孤篷庵へ
お墓参りにいかれます。
本堂において法要を営み、
その後遠州公のお墓参りをされ
お墓参りが済むと
茶室「忘筌(ぼうせん)」において、ご住職と一緒に
お抹茶をいただきます。
孤篷庵は
1612年、大徳寺塔頭・龍光院内に、
遠州公が自らの菩提所として建立します。
この龍光院は、黒田長政が父・如水(黒田官兵衛)
の菩提寺として建立した寺です。
1643年、孤篷庵を龍光院から
現在の場所(瑞源院隣地)に移転しています。
最晩年の2年ほどはこちらにいたといわれます。
1647年、2月6日に伏見奉行屋敷で亡くなり、
ここ孤篷庵に葬られました。
【告知】
2月8日 長浜の慶雲館にて盆梅展がございます。
その際御家元の命名式が予定されております。
1月19日 官兵衛
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」
本日3話目放送です。
黒田家は遠州公ともゆかりの深い家です。
官兵衛は1546年(天文15年)に生まれます。
遠州公が生まれる1579年(天正七年)には
官兵衛34歳。
前年に起こった主君小寺政職 荒木村重の離反を受けて
説得に赴き、有岡城に幽閉されていました。
落城の際、家臣に救出されます。
1年間の幽閉生活で足が曲がり
体は痩せ細りながらも節を守った官兵衛に
秀吉は涙を流したといいます。
その後織田家家臣として仕え、羽柴秀吉の与力となり
以後、 軍師として秀吉に仕えていきます。
【告知】
【告知】
遠州流茶道ドキュメンタリー映画「父は家元」
上映時間のお知らせ。
1/25~1/31
テアトル新宿
10:50~
12:50~
19:00~
の三回。
2月以降は未定です。
皆様のお誘い合わせのうえ劇場まで是非
足をお運びくださいませ!
また、映画 父は家元の情報も
遠州流茶道Facebookページ
にて随時更新して行く予定です。
是非
【いいね!】
をお願いします。
遠州流茶道Facebookページ
http://www.facebook.com/enshuryu
映画 父は家元 公式ホームページ
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は空中茶室についてお話いたします。
《建築物:閑雲軒》
京都の八幡市にあります石清水八幡宮の境内には、遠州と大変仲の良かった松花堂昭乗が宿坊を務めた滝本坊があります。
松花堂は石清水八幡の僧侶で、17歳の時から修行を始め、政界のフィクサーとして活躍しました。
出生については、霧に覆われたように謎めいており、兄の中沼左京と共に、二人の親族について年月日以外まったく分かっておりません。
そのことについて二人はどんなに親しくした人物にも終生語ることはなく、意識して隠し続けたのだと思われます。
ただ、彼が(もちろん中沼左京も)暗い人物であったかというとそうではなく、大変人に愛される人柄で、亡くなった時には多くの人々が悲しみを表しました。
遠州も、旅日記や歌の中で、「松花堂がまだ生きていてくれたら、こんなに寂しい想いはしなかったのに」という、悲しみや寂しさ、悔しさなどを込めて詠んでいます。
そんな松花堂と遠州が共に作った茶室、それが滝本坊にある「閑雲軒」という空中茶室です。
崖から迫り出す設計で造られたその茶室は、7mもの柱で支えられ、中に入って窓から景色を見れば、まさに空中に浮かんだように感じられたでしょう。
現在ではその姿を見ることは叶いませんが、屋敷跡が残されており、当時を知るうえで、貴重な資料として保存されています。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
遠州の交友はとにかく広い。
将軍や大名だけでなく、商人や医者などの町人たちとも交流があった。
そしてさらには公家、なかでも寛永のルネサンスのリーダーの一人、近衛信尋と懇意にしていた。
慶安2年10月11日は、近衛信尋の命日である。
信尋の父、信伊は寛永の三筆(他は本阿弥光悦・松花堂昭乗)の一人に数えられ、薩摩に流されたりと、波乱に富んだ一生を送っているが、豪放な書風で知られている。
その養子信尋は、実は後水尾天皇の弟であり、二人の兄弟愛は、天皇と大臣という間柄を越えて信頼し合っていた。
もちろん、能筆家としての名も高かった。
こんな書状が残っている。
当時の公家の若君たちは、平和な世に浮かれ、暴れていて、幕府はそんな若君たちを、いつでも取り締まってやる、と眼を光らせていた。
その時も、大宴会が開かれ、それが幕府の知るところとなった。
21歳の信尋は、これが知られては大変と青ざめ、藤堂高虎に弁解の手紙を送っている。
その中で、遠州が登場する。
宴会の最中には、遠州が様子を見に来て、心を配って頂いた、という内容である。
遠州は公家と武家の仲が円滑にいくべく、行動していたのではないだろうか。
その他の信尋の書状にも遠州は登場し、また、遠州の茶会記にも信尋は登場する。
信尋と遠州が利休について会話したことも、『桜山一有筆記』に記録されている。
それはまたいずれ。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
今から34年前の月刊『遠州 10月号』の、先代紅心宗匠が『数寄者とは』、と題して、前田利常公と、小堀遠州の茶の湯問答のことについて書いています。
本日は「数寄者」について、少しひも解いてみたいと思います。
茶湯問答の書状は利常公が「茶湯根本は何と仕たる所を数寄者と申候哉」と、遠州に御尋ねしているとこから始まります。
それに対し、紅心宗匠は遠州が
「目に見、耳に聞き、事にあたる時、自我が実態として存在すると考えて、それにとらわれ、自己主張に溺れる人が多い。全てを知り、全てを忘れてしまい、それらの執着心を捨て去る事が出来たならば、真の数寄者という事ができるのであろう」
と答えている、と意訳しています。
そして後日、遠州は前田邸へ単身出向き、「放下着(ほうげじゃく)」の話を交えながら、茶湯根本について話をしました。
この「放下着」とは、何もかもを脱ぎ去った境地のことを言います。
この「着」は「~せよ」の命令形の助辞で、「放下せよ、全てを捨てよ」という意味であり、これこそが茶湯の根本のひとつであると遠州は利常公に返事をしたのです。
紅心宗匠は最後に、「真の数寄者となる事は誠に困難な事であるが、日々の修練に依り、一歩でも遠州の心に近づきたいものである」と記して、筆を置いている。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は、その年の新茶がふるまわれる炉開きが近づいてきましたので、お抹茶のお話をひとつ。
現代では、各宗匠のお好みのお抹茶に、銘が付いていることは当たり前となっておりますが、その銘を最初に付けた人物が遠州であることをご存知でしょうか。
「初昔」
これがお抹茶の最初の銘となりました。
なぜ、初昔というのか。
それは、お抹茶の製法を、古田織部以前に戻したことから、と言われています。
では織部がどのような製法だったのか、といますと、彼は茶の葉を茹でていたのです。
現在もそうですが、織部以前は、茶を茹でないで、蒸していました。
それは、蒸せばお茶は白っぽくなりますが、香りがとても良くなるからです。
しかし織部は香りよりも、「色」を重視しました。
そのため、青々しい色の出る、「お茶を蒸す」という方法で、お抹茶を(正確に言えば「碾茶(てんちゃ)」)を製法したのです。
しかしさらに、遠州は織部の弟子でありましたが、この製法を昔に戻しました。
そのため、「最初の昔にもどした」ことから、「初昔」という名が生まれたと言われています。
ちなみに、「~の白」という名も、この「青茶」に対して「白茶」である、ということから付けられた名前です。
このようなことからも、今日でもこの遠州の創意が受け継がれていることを見ることができます。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
元和7年9月22日に江戸を出発した遠州一行は、10月4日にようやく京都に到着しました。
なので本日はこの旅を記した『東海道旅日記 上り』についてお話します。
旅の行程は12泊13日、500キロ。
1日の行程が約9里半(38キロ)、1里1時間と考えて、1日に9時間半ほど歩き続ける、と
いうことで、現代人にとってはかなりの強行軍のように感じられます。
しかし、その旅程を遠州自身が記した『東海道旅日記 上り』には、道中に難所がいくつか登場しますが、様々な人の手を借りて解決し、さらに和歌あり、詩ありと、とても楽しそうに日記は綴られています。
当時の遠州の人間関係を知るうえでとても貴重な資料なのです。
この日記の書かれた元和7年、43歳の遠州は城主のいなくなった丹波福知山の政務沙汰をする他は特別なことはなく、晴れやかな気持ちで旅ができたのではないでしょうか。
その後、この旅日記は、各大名からの書院飾りの一巻としても所望もあったようで、遠州の嫡子大膳宗慶、次男権十郎篷雪、三男十左衛門政貴などそれぞれが、書写しました。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は『潮音堂』の掛物についてお話致します。
寛永8年(1631)10月2日の茶会記に、「掛物 無準」とあります。
「無準」とは「ぶじゅん」と読み、中国の高僧無準師範のことで、遠州の茶会記の場合、『潮音堂』の墨跡のことを指します。
『潮音堂』は、博多の承天寺が創建した際に、無準師範ものとに留学した聖二国師が頂戴したお祝いの寺額です。
後に、京都・東福寺普門院修理のための費用として処分した際に、遠州の手に入ったと言われています。
潮音堂にはこんなエピソードがあります。
出羽国庄内藩主であった酒井忠勝が、ある時遠州の茶会に招かれました。
その時に、忠勝公は潮音堂の額を遠州に懇望するのです。
それに対して遠州は「一字千両」と答えました。
すると忠勝公はすぐに三千両を用意し、持ち帰ったそうです。
ちなみにこの時に、有名な『生野茶入』もしようされておりますが、この話はまたいずれ。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
元和7年(1621)9月22日に江戸を出発し、旅を続ける遠州一行。
9月30日には愛知県の岡崎に到着し、岡崎城主本田康紀の歓待を受けました。
その後、三河国八つ橋へ。
ここに遠州はひとつの楽しみを持っておりました。
それは旅前に、遠州が熟読していた『伊勢物語』に、八つ橋で在原業平が杜若(かきつばた)の歌を詠む場面があったのです。
「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」
先頭の文字を取ると、「か き つ ば た」となり、業平もさらに文章で「いと面白く咲きたり」と記述しておりました。
しかし、遠州がいざ来てみるとあまり咲いていなかったようで、
「昔より いひしきにける ことなれど われらはいかが 今は定めむ」
と狂歌を読んでいます。
もちろん、5月頃に咲く杜若が、この時期に咲かないことを知っていたと思われますが、それでも残念であったということを遠州は狂歌で表しました。
ちなみに『伊勢物語』の八つ橋は現在では正確な位置は分かっておらず、幻の地とされています。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
寛永5年9月26日(1628年10月30日)、遠州は茶会を開いておりました。 客は4人。 菅原織部、二村宗林、徳庵、道志。 特に菅沼定芳が御正客として座していることに着目したいと思います。 ちなみに詰客の道志は「いじいじ塗り」の名手として知られ、遠州に認められた後、将軍家茶碗御用の命を受けるようになり、京都の茶道具頭的な地位を占めるほどになった人物で、遠州の茶会には記録に残る限りでも30回も招かれています。 菅沼定芳は、近江国(滋賀県)の膳所城主で3万1100石を領していました。 遠州の茶会には3度参会。 茶の湯を好んでいたようで、定芳が膳所城主だった頃に、膳所焼は遠州の指導を受けており、それに関する書状も残っています。 この時の茶会記を見ると、遠州は膳所焼の茶碗を使用。 ここに遠州の膳所城主菅原定芳に対するおもてなしの心を見て取ることができます。 旧暦の9月26日は、新暦の10月31日にあたり、床には藤原定家の『初雪ノ歌』が掛かっていました。
皆で雪の風情を楽しんでいたのではないでしょうか。