豊臣秀吉

2014-8-18 UP

8月18日 豊臣秀吉

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は8月18日 豊臣秀吉の命日に当たります。

秀吉と小堀家との所縁は深く、
浅井家が滅亡した天正元年以後、
秀吉が長浜在城の際、
出家の身であった遠州公の父・新介公を、見出して還俗させたと
いわれています。

昨日、また5月25日にも触れました通り
天正4年には信長に初めて茶道具を拝領し、6年に初茶会
その後は数々の大規模な、華やかな茶会の記録を残します。

異例の出世、天下取りの野望を果たしながら、
その後は幼い我が子の前途を案じて
慶長三年(1598)  六十三歳で、こんな歌を残してこの世を去ります。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな
浪速のことは 夢のまた夢

遠州公の愛した茶入 「唐大海(からたいかい)」

2014-8-9 UP

8月 9日 遠州公の愛した茶入
「唐大海(からたいかい)」

ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「唐大海」を
ご紹介します。

大海とは大振りで口が広く、内側が大きいので
それを海に例えたことからこう呼ばれています。

唐物大海茶入を所有していたうちの一つで
遠州公自身が「唐大海」と箱書きしています。

小堀家に代々伝わり、八世宗中の時代
尾関文右衛門の懇望により譲り、
その後木津宗隆、松井左兵衛と伝わり、
現在は香雪美術館に収蔵されています。

2014-8-8 UP

8月8日 遠州公と抹茶

ご機嫌よろしゅうございます。
今日はお抹茶のお話を。

抹茶の銘には「~の昔」「~の白」という名前が
よくつけられているのをご存知でしょうか?

遠州公の師匠である古田織部は、
抹茶の色をヨモギ餅の緑色(青)を見てより鮮やかな色にしようと
抹茶を作る際、茶葉を少し茹でることにしました。
これを「青茶」などと呼びます。

こうすることで見た目は綺麗な緑になるのですが、
香りがなくなり味が多少落ちてしまいます。

そこで遠州公は茹でない以前の製法に戻しました。
この製法で出来た抹茶は「青茶」に比べて白っぽいため
「白茶」と呼ばれました。

現在抹茶として製造されているものはこの「白茶」で
昔の製法に戻ったことから「~の昔」「~の白」
という銘がつけられることが多いというわけです

権十郎篷雪命日

2014-8-4 UP

8月4日 権十郎篷雪命日

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は権十郎篷雪の命日です。
寛永二年(1625)遠州公の次男として生まれ、
後に小堀を改めて小堀家と所縁の深い浅井姓を称し、
権十郎篷雪と称しました。

兄の大膳宗慶とは5歳離れた弟になります。
正保四年(1647)遠州公が没すると、
父の遺領のうち近江国浅井郡の千石を分地されました。

茶会でもよく名を目にする通り、
道具の目利きに優れていたので、その鑑定眼にかなった
道具の箱書が多く伝来しています。

元禄七年(1694)8月4日江戸でなくなります。
70歳でした。

明智光秀(あけちみつひで)

2014-8-3 UP

8月3日 明智光秀(あけちみつひで)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は日曜となりましたので
官兵衛の時代のお話しを。

主君信長に反逆する裏切り者としての
一面が目立つ光秀ですが、文武両道で
和歌・茶道の嗜みも深い文化人でした。

天正十年(1582)
6月に本能寺の変の起こる年ですが、
この年の正月7日の朝、
光秀は山上宗二と津田宗及を招き、
茶会を開いています。

床の間には信長直筆の掛物
通常床の間に掛ける掛物は墨跡や唐絵、古歌など
を掛けることが一般的でした。

主君の筆による掛物を飾り、恩恵に感謝していた
ように感じられます。
この数ヶ月後、その主君を討つことになるとは
当時の光秀は思いもよらなかったのではないでしょうか。

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小堀家の家紋

2014-7-11 UP

7月11日 小堀家の家紋

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は小堀家の家紋について

皆様ご存知の「七宝花菱」は小堀家の家紋であり
正式には「花輪違い紋」と呼ばれています。

もともと小堀家の家紋は、表紋として使われていたものが
「鶴の丸」、裏紋として「丸に卍」が使われていました。
当時の武家は二つの紋を持ち、用途で使い分けていました。
それを、遠州公が改めたのが七宝花菱と言われています。
そして今では遠州流の紋としても使用されていることは5月30日にご紹介
しました。

小堀家に伝わる道具には「鶴の丸」に形どった蓋置
が残っています。

遠州公の美意識によって定められた家紋
東京国立博物館に所蔵される甲冑にも
この「花輪違い」の文様をあしらっており
「武」の中にも遠州公ならではの綺麗さびの心を
織り込んでいることが伝わってきます。

宗中公命日

2014-6-24 UP

6月 24日 宗中公命日

ご機嫌よろしゅうございます。
今日6月24日は小堀家8世 小堀宗中公の命日です。

天明6年(1786)小堀大膳亮政寿(まさひさ)の嫡子として
近江の小室に生まれました。
小室領地が没収されてからは、京都孤篷庵で育ちます。

この頃の日本は大飢饉が起こり、世の中が疲弊し乱れはじめます。
田沼時代から松平定信が政治の実権を握る時代。

40年という長い間、浪人としての生活が続きますが
要職を歴任し譜代大名並の格式を許された五世政峯宗香公の功績
と遠州公以来の家柄を評価され、
文政11年(1828)に幕臣として召しだされます。

改易の時に親類に引き取られていた、
遠州以来の諸道具も戻され「遠州蔵帳」のほとんどが伝来します。
茶法は父、政寿や小堀家茶道頭の富岡友喜から学び、
多くの弟子を排出します。

尾張徳川家に招かれ御蔵器財の分類、目利き、整理なども行っています。
また、茶道を通じて狩野派など芸術分野の人との交流も多く、
合作で各種の作品を残しています。
慶応三年6月24日、82才で江戸屋敷で亡くなります。

遠州流中興の祖です。

遠州公の会席

2014-6-20 UP

6月 20日 遠州公の会席

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は遠州公が会席で使用した「角切らず」の縁高について。

私達がよく目にする縁高は、
木地に漆をかけた、いわゆる塗り物が
ほとんどではないかと思います。

遠州公の時代、
木地のままの器が会席でよく使用されました。
漆をかけていないので、当然器に盛った食べ物
の汁などで染みができてしまいます。
そのお客様のためだけの、一度きりのもの
という意味で、使い回しのきかない
木地の器は、当時塗りものよりも正式なものでした。

遠州公の会記には
「木地 縁高 角不切(すみきらず)」と書かれており
一枚のへぎ板( 鉈を使わず手で割いた板)
で切らずに作った大変手間のかかる器を使用しています。

川越献茶式

2014-6-7 UP

6月7日 川越献茶式

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は埼玉・川越にてお家元の献茶式が行われます。

また6月15日には、恒例となりました「茶あそび彩茶会」にて
妖怪茶会・甲冑をつけての茶会などユニークな茶会も
催されています。

川越は、関東最古の茶の産地です。
平安時代には既にこの地に伝わり
鎌倉時代には明恵上人が河越の地に茶を栽植したとされ、
鎌倉末期から室町時代に虎関師錬が著した「異制庭訓往来」
に全国の茶の産地の一つとして「武蔵河越の茶」
と記載されています。

江戸時代初期の川越城主だった酒井忠勝や堀田正盛、松平信綱は
遠州公との交流を通して、川越藩の茶業を活発にしていきます。
それ故川越藩と遠州流の関わりは大変深く、
市内の喜多院や蓮馨寺には遠州流の庭園が残されています。

献茶式にお越しの際は是非足をのばして
ご覧ください。

遠州公時代の三河の名所

2014-5-23 UP

5月23日 遠州公時代の三河の名所

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は伊勢物語に出てきた三河の八つ橋について
遠州公が歌った和歌をご紹介します。

遠州公が元和七年(1622)43歳のときに
江戸から京都へ上った際の日記があります。

八つ橋というところに着いた。
燕子花の名所ということなので
さぞかしたくさん咲いているのだろうと思って
いたけれども、全く咲いていなかった。

やつはしに はるばるときてみかはなる
花には事をかきつばたかな

と言ったらお供のものが大変おもしろがった
とかかれています。
「花に事欠く」と「かきつばた」をかけたのですね。

平安時代、燕子花の名所であった三河は
遠州公の時代には名所がどこであったか
その場所もわからなくなっていたようです。