9月 26日 鷺(さぎ)の絵
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は鷺の絵のお話をいたします。
鷺の絵は、松屋三名物の一つです。
奈良の松屋は漆屋を称した塗り師の家で
その茶を村田珠光に学びました。
鷺の絵は、その侘びた珠光表具のすばらしさから、
利休が「数寄の極意」としたこともあって
名だたる茶人はこぞってこの絵を松屋に拝見にいきました。
遠州公の師、古田織部
は利休に「数寄の極意」をたずねたところ
利休は松屋の鷺の絵を挙げられ
翌日、織部は直ちに馬で奈良に向かい
その鷺の絵を拝見したというエピソードもあります。
遠州公の父、新介正次は当時松屋の茶会に赴いたり、
自宅の茶会に招くなど親交を深めていました。
遠州公は父に連れられて、文禄3年2月3日、16歳の時に
この絵を拝見しています。
残念ながら現在は焼失し、見ることはできません。
9月21日 如水茶訓
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜日。
軍師官兵衛の時代のお話を。
隠居して如水と名乗った官兵衛ですが、
秀吉の死後となる慶長四年(1599)の正月
茶の湯定書というものを発布しています。
一 茶を挽くときには、いかにも静かに廻し、
油断なく滞らぬように挽くべきこと
一 茶碗以下の茶道具には、
垢がつかないように度々洗っておくこと
一 釜の湯を一柄杓汲み取ったならば、
また水を一柄杓差し加えておくこと
決して使い捨てや飲み捨てにしてはならない
これらは利休流を守った教えであると記しています。
素朴で、華美なところは感じられず、
簡単なことのようでなかなか実践できない
そんな日常の心のあり方を、
如水は定書に記したのでした。
9月 19日桂離宮(かつらのりきゅう)
雲は晴れ 霧は消えゆく 四方の岑
中空清く すめる月かな
ご機嫌よろしゅうございます。
上の歌は
桂離宮を手がけたといわれる
八条宮智仁親王の歌です。
この桂離宮は遠州公の好みが色濃く伝わる
建物としても有名で、かつては遠州公作と言われていた時代もあります。
さて、この桂離宮は月と深い関係があります。
仲秋の名月の夜、正面に月が見えるように
作られた「月見台」
これは書院座敷から庭へ突き出るように設置されていて
月を見るための角度や形が計算されています。
また「月波楼」という名の茶室
「浮月」という手水鉢
襖の引手も月型です。
他にも月にちなんだものがたくさんあり
親王の月を愛する心が伝わってきます。
9月 18日 松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と大変交流の深かった
松花堂昭乗についてお話しします。
遠州公の正室の妹が、中沼左京元知の妻となったことで
その左京の実弟であった松花堂との交流が始まります。
松花堂は十七歳で男山石清水八幡に登り、
滝本坊実乗に師事します。
寛永の三筆の一人に数えられ、遠州公、江月和尚との
合作も多く残り、その親交の深さが伺えます。
しかし、松花堂、中沼兄弟はどんなに親しくなった
間柄でも自分達の出自を決して語らなかったと
言われています。
遠州公五歳年少でしたが、遠州公より早く
五十六歳、9月18日に亡くなりました。
その死を悼み、遠州公がこんな歌を詠んでいます。
我をおきて先立つ人とかねてより
しらで契りし事ぞくやしき
9月12日 遠州公と中興名物
ご機嫌よろしゅうございます。
茶入などの名物道具には
大名物、中興名物、名物という格付けがありますが、
その中で、遠州公といえば中興名物。
しかしこの中興名物という表現は遠州公の時代に確立していたわけではありません。
中興名物という表現で名物の一つとして格付けたのは
江戸時代後期の大名茶人である松平不昧公です。
つまり遠州公が亡くなってずっと後のこと。
不昧公は遠州公に深く傾倒し、その遠州公が、
名物道具として仕服牙蓋をはじめとする付属品を調べ、歌銘を付け
箱書きをした道具を中心に中興名物として自身の蔵帳に分類をされました。
徳川という平和な時代の到来とともに、
茶の湯を新しく嗜む人が増え、必然的に
茶道具も必要となりますが、しかるべき道具は既に
大名などの手に渡ってしまっているか、戦乱の中で焼失してしまっていました。
そんな中、当時茶の湯の第一人者としての地位を
築いていた遠州公は新たな名物茶道具の選定や指導を受けた
新しい茶道具を生みだしていくのでした。
遠州公の好みによって生み出された「綺麗さび」
の茶道具たち。
これらが後に中興名物と呼ばれるようになるわけです。
9月5日 袱紗をつける位置
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は袱紗を腰につける位置について
お茶を点てる際、点法で使う袱紗を
腰につけますが、これを右につける流儀と
左につける流儀があります。
遠州流は右側です。その理由は
近衛家の待医師であった山科道安が、近衛予楽院の言行を
日記風に著わした「槐記」という
文献の中にこんな記述があります。
宗旦は生まれ付き左利きにてあり故に…
千宗旦は利休の孫にあたり、後にその子供達が表千家、
裏千家、、武者小路千家をつくっていきます。
つまり宗旦から広まった千家流では
袱紗を左につけているということのようです。
要するに利き手の違い。
右利きだった茶人は、当然右につけていたと考えられます。
その違いが今お流儀の点法の違いにつながっていく
のだとすると、面白いですね。
8月 29日 遠州公の白
ご機嫌よろしゅうございます。
8月8日に、遠州公が抹茶の製法を
「白茶」に戻したお話をいたしました。
そして織部の緑
これには茶人の好みが反映されています。
それぞれの茶人の好みをシンプルに色で表すとするなら
利休の「黒」
織部の「緑」
遠州の「白」
とお家元は表現しています。
全てを包有する、他の存在を許さない「黒」
己の感性を先鋭に表した「緑」
「黒」も「緑」をも受け入れることのできる「白」
利休、織部の茶は己の精神.主観性を追求するもの。
それに対して
遠州はその日のお客様に合わせて
その好み・趣向を考え、道具の取り合わせを自在に
変えるなど相手の心を映した茶でした。
オリンピック招致で話題となった
「おもてなし」の日本の心ですが、
茶の心、とりわけ
この遠州公の「白」の好みが生きているような気がいたします。
8月25日 旧暦 の8月1日
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は旧暦でいう8月1日
この日は秀吉により関八州を与えられた
徳川家康の江戸入城の日でもあり、
後に江戸幕府の大事な式日、
「八朔御祝儀の日」となりました。
江戸城は太田道灌が築城して以後、
荒廃が進んでいました。
要地からも離れ、長年徳川の領地であった
三河を発ち、入った江戸という未開の地。
天正十八年(1590)の8月1日
徳川家康が駿河から始めて江戸城に移った日、
家康とその家臣全員は白装束に身を固め、
城に入ったといいます。
この日から江戸の繁栄はスタートしたのでした。
8月 24日 大膳宗慶命日
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の後を継いだ二代目大膳宗慶のお話を。
元和六年(1620)2月15日、父遠州公四十二歳の
時、藤堂高虎の娘を母として、伏見奉行屋敷で
誕生します。
小さい頃から能書の誉れ高く、そのエピソードは
4月1日にもご紹介した通りです。
茶道修業にも熱心で、父遠州公にその茶法を学び、
二十代前後で大先達の御相伴も勤めるほどでした。
公職を離れた晩年五十三歳
江戸屋敷で連日連夜に渡り33回の茶会をするなどしています。
父遠州公より受け継いだ茶道の正統を文書に残し、
諸道具の整理・遺物帳等も作成しました。
延宝二年(1674)8月24日
五十五歳で江戸屋敷でなくなります。
8月 22日 あるエピソード
ご機嫌よろしゅうございます。
19日にご紹介した定家様にちなんで
エピソードを一つご紹介します。
当時大変な人気のあった定家の一幅を
なんとか手に入れようと皆必死になっていましたので
本物に混ざって定家の筆では無いものも出回っていました。
ある日、加賀前田家でも一幅手に入り、
定家様の権威である遠州公が茶会に招かれました。
遠州公がどんな批評をされるのか
襖の奥から皆注目していましたが、
とうとう茶会の最後まで遠州公はその
掛け物について何もおっしゃいませんでした。
不思議に思った前田公は、茶会の後遠州公の屋敷に
使いを出し
「先ほどの定家はいかがでしたか?」
と尋ねますと
「あれは私が書いたもので、誰かが手に入れて
定家にしてしまったのでしょう。
自分の字を褒めるわけにはいきません。」
と話されたといいます。