遠州公の愛した茶入 「飛鳥川(あすかがわ)」

2014-12-6 UP

12月 6日 遠州公の愛した茶入
「飛鳥川(あすかがわ)」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳所載の茶入「飛鳥川」を
ご紹介します。

昨日といい今日と暮らして飛鳥川
流れて早き月日なりけり         古今和歌集

の歌からつけられた茶入「飛鳥川」。
遠州公が泉州堺において初めてこの茶入を
見たとき、まだ新しい茶入に見え、
それほどの感動はなかったのですが、
後年再び伏見で見たところ
すっかりとてなれて、思いの他
古色を帯びていたところから、
この歌から銘をつけたと言われています。

寛永十五年の十月に江月和尚を招いて使用したの
をはじめとして、およそ六十九回の使用を
確認でき、いかにこの茶入を遠州公が
愛蔵していたかがわかります。

遠州椿

2014-12-4 UP

12月 4日  遠州椿

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州公は茶湯や作事、様々な分野で活躍し、
当時の文化に影響を与えますが、

その影響は着物の文様にも残っています。
着物の文様に「遠州椿」というものがあります。

もともと連歌師が好んで栽培したことや、
江戸時代に入って徳川秀忠や大名が好んで栽培したこと
から、「百椿図」と呼ばれる椿の姿が描かれた本が刊行されたり、
庶民の間でも椿が流行し、様々な品種がつくられ、
より鑑賞的な要素が加わりました。

遠州公も椿を愛好していました。
遠州公が椿を図案化し、
好んで使用した文様であったということから、
その名がついたとされています。

近衛信尹

2014-11-25 UP

11月 25日 近衛信尹

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸初期の公家・近衛信尹について
ご紹介したいと思います。

某人気コミックスで、豊徳合体を目指す織部が、
禁中で反徳川に燃える旗頭、前関白・近衛信尹を
「カリ」(今のカレー)でもてなすという
シーンが描かれていました。
この当時「カリ」が既にあったのかは謎ですが…

近衛信尹は関白や左大臣など歴任した重臣で、
後水尾天皇の生母の兄にあたります。

幼少時は武家との交流が深く、また織田信長に
可愛がられたこともあり公家社会に馴染めず
苦しみました。

朝鮮出兵の際、自らも朝鮮に向かおうとし
後陽成天皇の怒りを買い、薩摩に配流されるなど
波乱の多い人生だったようです。

若き日の松花堂昭乗が信尹に仕えていた時期もあります。
能書家として知られ、一派を形成し、近衞流、
または三藐院流と称されます。
本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに
「寛永の三筆」に数えられる人物です。

慶長19年(1614)11月25日に亡くなります。

一休宗純

2014-11-21 UP

11月 21日 一休宗純

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は頓知でおなじみの一休さんについての
お話しをしたいと思います。

ボサボサ頭に、ボーボーの髭
一休宗純は後小松天皇の御落胤とも言われていますが、
室町時代、風狂の精神の下で、形骸化した政治や仏教を
風刺するなど、形式にとらわれない行動と
人間らしい生き方が庶民の評判となります。

侘び茶の創始・村田珠光(じゅこう)も一休の門下になりました。
修行を行う中、「仏法も茶の湯のなかにあり」
という一休の教えを受け「茶禅一味」(茶も禅も同じ)
の悟りに達しました。

茶の湯だけではなく、花や連歌などをする多くの
文化人が一休の下に集い、その影響を受けたと
言われています。

一休が臨終の際に、弟子に
「これから先、どうしようもないくらい
困難なことが起きたら開けなさい。」
と、手紙を渡しました。

いよいよその時、弟子が手紙を開けると
中に書かれていた言葉は
「心配するな。大丈夫。 なんとかなる。」
だったとか。

文明十三年(1481)十一月二十一日の今日
八十八歳で亡くなります。

戸川宗積先生

2014-11-18 UP

11月 18日 戸川宗積先生

ご機嫌よろしゅうございます。
今日はご先代紅心宗慶宗匠の御実弟
戸川宗積先生のご命日です。

道守り 其の身心を空となし
力つくして 今日ぞ散りゆく

ご先代が宗積先生の追悼の文で詠まれた歌です。

紅心宗匠の生死もわからない戦時中、勤めていた
仕事を辞して遠州流茶道の組織作りに力を注ぎました。
そして「茶道遠州会(現・遠州茶道連盟)」の下地を
完成させ、いつ紅心宗匠が戻られてもいいような
形まで作り上げたのです。

紅心宗匠がシベリア抑留から帰国し、昭和25年3月19日に、
音羽護国寺にて「宗慶」襲名披露の大茶会が終わった
夜の祝膳の時、紅心宗匠の御実弟・宗積先生はご両親、
ご姉弟に
「本日から兄弟の縁を切り、
己が命ある限り、遠州流茶道発展向上の
為に全力を尽くします」
と誓われます。
以後、その言葉通り、その身を砕くように
紅心宗匠を、そして遠州茶道宗家を
影となり日向となり支えてこられました。

大変面倒見がよく、修行中だった職方や道具屋さんなどに
よく食事をさせ、共に酒を飲み、そして親身に指導してくださった
と、宗積先生を知る方は、当時を懐かしそうに思い出して
お話しされます。

己の信念を貫き、また遠州流の発展のため、
全力を注がれた、先生のお人柄が偲ばれます。

遠州公とワイン

2014-11-13 UP

11月 13日 遠州公とワイン

ご機嫌よろしゅうございます。
今日はワイン好きの方には待望の
ボジョレーヌーボー解禁日です。

フランス・ブルゴーニュ地方のボジョレー地区
で作られる新酒。
毎年11月の第3木曜日午前0時に販売が解禁されます。

その年収穫された葡萄で作る、若々しいワインは
そのフレッシュな味わいを楽しむため、
普通のワインとは異なり、
冷やして頂くと美味しいそうです。

さて、遠州公は会席の前に、徳利に葡萄酒を入れて
お出しするなど鎖国政策の敷かれていた
当時の日本としては大変珍しく
貴重だった葡萄酒を茶の湯に巧みに
取り入れていました。

これは遠州公が歴代の長崎奉行との深い交流
があり、葡萄酒を手に入れやすい環境に
あったことが一つの要因のようです。

また黒田藩主忠之公に葡萄酒を贈った際の
添え状も残っています。

 若き遠州公の話

2014-10-17 UP

10月 17日 若き遠州公の話

ご機嫌よろしゅうございます。

本日は遠州公が茶の湯を始めたころの
お話を。

十五歳で大徳寺春屋宗園禅師に参行し、
修行を積みながら
古田織部のもとで茶の湯を本格的に学んで行きます。

遠州公が十八歳の時に
「洞水門(どうすいもん)」を考案しました。
これは現在水琴窟と呼ばれています。

茶室に入る前には手と口を
蹲(つくばい)で清めます。

当時の蹲は水はけが悪く、
何度か使用すると、周りに水が溜まってしまい
大変使いにくいものでした。

これを若干十八歳の遠州公が
この蹲の地下に瓶を仕込み、
水滴が瓶の中に落ちる時に、ポーンという
美しい反響音がする仕組みを考案し
水はけの問題も解消しました。

遠州公の茶の湯の師であった
古田織部も遠州公の才に大変驚いたと
言われています。

四世 宗瑞公

2014-10-16 UP

10月 16日  四世 宗瑞公

今日は小堀家四世の宗瑞公ご命日です。

貞享二年(1685)に小堀家の領主である
近江国小室で生まれました。

元禄七年(1694)正月二日、父である三世
宗実公の他界により、10歳の若さで跡目を継ぎ、
遺領を継ぐこととなります。

その後の
元禄十三年(1700)16歳となって元服し、
翌年結婚。江戸城御詰衆をつとめます。
宝永元年(1704)には将軍の御小姓として居候し
将軍の御前で「論語」の講釈をするなど、元服以前
より大変利発でした。

宝永六年、25歳で従五位下遠江守・諸大夫
に任じられます。

茶法は、父・三世宗実公が亡くなってからは
小堀家茶頭の桜山一有や大叔父小堀土佐守政武
から学びます。

正徳三年(1713)十月十六日
29歳の若さで江戸で亡くなります。

小堀家歴代の中で最も若くお亡くなりになった方です。

博多文琳(はかたぶんりん)

2014-10-12 UP

10月 12日 博多文琳(はかたぶんりん)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜日。
官兵衛の時代のお話を。

黒田家にとって重要な茶入に
「博多文琳」があります。

もともと博多の豪商・神屋家に伝わる重宝で、
何度も求め続けられた秀吉にも、
黒田如水(官兵衛)、長政にも
ついに召し上げられませんでした。

しかし時代が移り、神屋宗堪の代になった寛永二年
(1624)2代藩主だった黒田忠之に献上。
金二千両と五百石の土地を下賜されました。
(これを固辞したという説もあります。)

この「博多文琳」はその後黒田家当主の代替わりのとき
しか見られないもので、勝手に見せると黒田家に
災いが起こるとされていました。

近代の数寄者であった高橋箒庵が「大正名器鑑」
を編集したときも拝見を許されなかったそうです。

遠州公の愛した茶入

2014-10-4 UP

10月 4日 遠州公の愛した茶入
「正木(まさき)」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は遠州蔵帳所載の茶入「正木」をご紹介します。

この茶入は釉薬のかかり具合が片身かわりとなって
おり、その景色の美しさを正木のかづらの
紅葉に見立てて

深山には霰ふるらし
外山なる正木のかづら色つきにけり
古今集

神無月時雨降るらし
佐保山の正木のかづら色まさりゆく
新古今和歌集

このともに同じような歌意を持つ二首の和歌から遠州公がつけた銘
といわれています。

遠州公所持の後、土屋相模守、細川越中守等の手を経て
現在は根津美術館に収蔵されています。