9月11日(金)遠州公所縁の地を巡って
「 南禅寺・金地院(八窓席)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は南禅寺・金地院をご紹介します。
黒衣の宰相とも称され、家康の側近として
絶大な権力を持ち活躍した以心崇伝。
その崇伝は応仁の乱でほとんど消失してしまった
南禅寺を再興します。その際、遠州公に複数の
建築や作庭を依頼しています。
崇伝の自坊であり、家康の東照宮が分祀された
金地院には、各大名や将軍が御成になることも
考えられ、遠州公は家康公への畏敬と崇伝の繁栄も
願って神仙蓬莱式の枯山水を構想しました。
各大名から寄進された名石を配したこの庭は
「鶴亀の庭」と呼ばれています
また三畳台目の茶室「八窓席」は
複数の連子窓や下地窓を機能的に配して
外からの自然光が茶室全体を回るように工夫がされています。
ちなみに全ての窓を数えても六窓ですが、
八窓席と呼ばれています。
遠州公が崇伝の依頼を受け、構想を始めたのは
先週ご紹介した大方丈の庭とほぼ同時でしたが
金地院の方が大方丈の二年後に完成しています。
9月 4日(金)遠州公所縁の地を巡って
「 南禅寺大方丈 虎の児渡しの庭」
ご機嫌よろしゅうございます。
各地の寺社などでは、その庭を
「遠州作と伝えられています」
と解説されていることが多く見受けられます。
その全ての真偽は定かではありませんが、
それだけ遠州公の当時の影響が強かった
ことがわかります。
そのような「伝遠州作」の庭の中で、
この南禅寺は、残された文献等から遠州公作
と確認できる数少ない作品の一つです。
借景、遠近法、大刈込といった、三次元的な技法を駆使し、
別名「虎の子渡し」と呼ばれ,左端の大きな親虎と
その横の小さな虎の子とが瀬を渡る様子を表すと
いわれています。
中国の説話では、虎の児は三頭いれば、一頭は獰猛で、
他の児虎を食べてしまうそうです。
そのため母虎は川を渡るとき、まず獰猛な児虎を
最初に向こう岸に渡して引き返し、次の一頭を連れて
渡ります。そしてまた獰猛な児虎を連れて戻り、
三頭目の虎を連れてまた川を渡ります。
そしてまた引き返して、最後に獰猛な児虎を再び連れて
渡るのだそうです。
母虎の子を児を想う気持ちが表れた
優しく雅雅な印象の庭園です。
8月 7日(金)遠州公所縁の地を巡って
「伏見奉行屋敷の茶室」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は伏見奉行屋敷に作られた茶室
についてご紹介します。
政務と茶の湯が密接に結びついたものであった
ことは先週ご紹介しました。
その屋敷内の三つの茶室
松翠亭・転合庵・成趣庵
についてお話したいと思います。
「松翠亭」は奉行屋敷の東南隅に位置する数寄屋です。
この平面図が寛永十八年の松屋会記に記されています。
四畳台目で採光に工夫が凝らされていて
窓が九箇所、突き上げ窓三箇所、
計十二箇所の窓がついています。この「松翠亭」は
鎖の間である広間に繋がっていました。
現在静岡金谷のお茶の郷博物館に復元されています。
別棟として立つ茶屋として「転合庵」と「成趣庵」が
後に建てられました。
「転合庵」は焼失してしまいましたが、小室屋敷の
茶室と同名で移築したものとも考えられます。
「成趣庵」は転合庵よりさらに奥まったところに
作られ、家臣の勝田八衛が常に茶室に控え、
晩年の遠州公が屋敷内を散策する際にお茶を点てていました。
この成趣庵の露地には紅梅が植えられており
見頃を迎えると親しい友人を誘っていた
手紙が残っています。
宗家の茶室もこの「成趣庵」と同名で、やはり露地には
見事な紅梅が植えられています。
7月 24日(金)遠州公所縁の地を巡って
「二条城二の丸庭園」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は二条城二の丸庭園について
ご紹介します。
寛永元年(1624年)遠州公46歳
後水尾天皇の二条城行幸という
幕府にとっての大変な重要行事に際し、
大改修が催されることになり、
その奉行に遠州公が任ぜられることになりました。
池を中心とした庭園は大広間の西、黒書院の南に位置し、
主として大広間から鑑賞されるものでしたが、
庭園の南に行幸御殿が設けられることになり、
遠州は大広間・書院・行幸所の
三方向から眺めて楽しむことのできる庭園
をつくります。
池に浮かぶ蓬莱島・亀島・鶴島の三島の配置もよくできており
三方向から見られることをよく計算されています。
アメリカの日本庭園専門雑誌
『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』
という雑誌では、毎年日本庭園のランキングを発表しています。
知名度ではなく、純粋にその美と質によって
評価しており、日本人独特の先入観が入りません。
この雑誌の中で二の丸庭園は11位に選ばれています。
ちなみに遠州公所縁の「頼久寺」は16位「桂離宮」は2位
にランクインしています。
7月 6日(月) 長生殿(ちょうせいでん)
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年ご紹介しました日本三大銘菓のうちの
今日は 日本三大銘菓の一つ、長生殿について
ご紹介します。
長生殿の生まれた金沢は前田家が遠州公の指導を受け、
熱心に取り組んだこともあり、茶道が大変に盛んな土地です。
そしてそれに伴い、和菓子の文化も発達しました。
この長生殿のように、茶道の発展とともに、
日本の各地で茶菓子としての
伝統的な銘菓が誕生していきます。
今と異なり、流通の発展していなかった時代には
大変に希少価値のあるものでした。
銘菓「長生殿」は、寛永年間(17世紀前半)
森下屋八左衛門が前田利常の創意により、
遠州公の書いた「長生殿」
という文字を墨型の落雁にした
ことがはじまりと言われています。
この「長生殿」の名は、唐の白居易「長恨歌」の末章
七月七日長生殿 夜半無人私語時
より、唐玄宗と楊貴妃が愛を語りあった場所である
長生殿から由来しているといわれています。
そしてこの詩、後には
在天願作比翼鳥 在地願爲連理枝
と続き、
天上にあっては、鳥の両翼となり
地上にあっては、連理の枝となりましょう
と永遠の愛を誓う歌が続きます。
遠州公はどんないきさつでこの長生殿という字を
書かれ、利常公がこの菓子をつくられたのか
明日の七夕の日に、そんなことに想いを巡らせながら
このお菓子を頂きたいと思います。
7月3日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」3
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公が旅をした様子を書き綴った「道の記」
当時の旅の様子が詳しく読み取れ、
大変に興味深いのですが、
その中には各地の名物も多数登場します。
今日はそのうちの一つ「十団子」をご紹介します。
九月二十六日
江戸を出発して五日目。
現在の静岡のあたり、
物語にも多く登場する宇津谷峠に差し掛かった時
その麓の里で、名物の「たうだんご」に出会す。
遠州公ははじめ「唐団子」と聞き間違い、
中国から渡ってきた珍しい団子かと思っていたところ
そうではなく、
霰のような白い餅を器に十ずつすくうので
「十団子」なのだとのことでした。
それでは実際掬わせよと遠州公が言うと
お店の女房は杓子で自在に掬って見せたとあります。
その様子が遠州公の旅情を慰め、
時の経つのも忘れた様子です。
さて、遠州公の東海道旅日記には、
もう一つ「上り」があります。
こちらは、「下り」の書かれた四十三歳から二十一年後の
六十四歳の折の様子が綴られており、
二つ読み合わせると、その時の経過を感じることができます。
こちらについてはまた後日ご紹介したいと思います。
6月26日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記 」(2)
ご機嫌 よろしゅうございます。
今日は道の記の始まりの内容をご紹介します。
道の記は9月22日
午時許(うまのときばかり)、今で言うと
午後12時から2時にかけて
江戸駿河台の屋敷を出発するところから始まります。
午後4時から6時頃品川を通過
午後6時から8時に神奈川の宿に到着
駿河台から品川まで約9キロ
品川から神奈川まで約20キロ
計29キロを約六時間かけて歩いています。
この日は鶏の鳴き声を聞くまで夜を明かし、
日数経ば 末は都や 近からむ
別物うき 昨日今日かな
と、江戸をたち、別れを惜しみつつ
懐かしい京都へ向かう喜びと不安
これから始まる旅への想いを歌にしています。
6月 19日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」その1
ご機嫌よろしゅうございます。
元和七年(1621)四十三歳の折、
江戸から京都への道中を記した旅日記が残っています。
まだ人々が自由に旅を楽しむことができなかった時代。
遠州公は公務のため江戸をたち、京都へ戻ります。
9月22日に江戸を出発、
10月4日に京都へ到着するまでの12泊13日の
様子を、和歌や詩を交え書き記しています。
道のりにして500キロ
東京から京都まで、新幹線に乗れば3時間かからない
現在に比べると、時間ははるかにかかります。
大変なことも多かったことと思いますが
四季の移り変わりを直接に感じ、
道みちの様子を眺めながら、そして知己との交流
を深めながらゆっくりと進む当時の旅は、
とても楽しそうです。
この旅日記は各大名から書院飾りとして求められた
りしたようで、二代目大善宗慶、権十郎蓬雪、
三男十左衛門正貴などが、父である遠州公の旅日記を
書写しています。
来週はその一部を紹介します。
6月17日(水)遠州流茶道の点法
「茶碗披き(ちゃわんびらき)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶碗披きについてご紹介致します。
亭主が拝領した茶碗や名物茶碗を手に入れ
初めてお客様に茶碗をお披露目する際に
されるお点法がこの「茶碗披き」です。
通常の点法では、茶碗は他の道具に比べ
拝見にだす機会が少ないかと思います。
このお点法での主役は茶碗ですので、
通常とは逆に、席入りの時から予め茶碗を飾り付けて
茶入を持ち出して点法を始めます。
また通常の濃茶の点法の最中であっても、
お客様から所望があれば、途中から
「茶碗披き」の仕舞いにしていき、
自分で茶碗を清め拝見に出すことが出来ます。
その場合は水屋に下がった際に、
仕舞い込み茶碗を用意し、茶道口に置きます。
風炉の場合は、席入り前の柄杓の飾り付けも特殊で
華やかな印象のお点法です。
6月 12日(金)遠州公所縁の地を巡って
「大坂城」
元和六年(1620) 遠州公42歳
大坂の陣で焼失した大坂城の再建に関わります。
この時は城の周縁部の櫓や門の修繕の奉行をつとめました。
寛永三年(1626)には天守本丸作事奉行となっています。
さて2014年、2015年は
大坂冬の陣(1614年)・大坂夏の陣(1615年)
から数えて400年を迎える節目の年となります。
そこで2014年・2015年は「大坂の陣400年」と位置づけ、
大坂城を拠点として大阪全域で「大坂の陣」
の史実に触れるイベントを開催しています。
昨年には大阪城公園内の「一番櫓」「千貫櫓」「多聞櫓」「金蔵」
の4箇所が公開となりました。
この特別公開された櫓は、大坂の陣で焼失後、
徳川幕府の手によって建造されたもので
このうち「千貫櫓」は遠州公が大坂城作事の際
担当した櫓と言われています。
大坂城内に残る建物の中では、西の丸内にある
乾櫓と並んで最も古い建造物です。
公開期間中、櫓の成り立ちや役割、機能を解説する展示を
中心に、大坂城築城普請に大きく貢献した人物、
徳川秀忠・藤堂高虎、それに遠州公の紹介も詳しくされました。