旅日記では遠州公の知り合いの浜松城主が、
遠州をしきりに城にうながし、
出発の際にも名残を惜しんで見送る様子が記されています。
この浜松城は「出世城」としても有名です。
天下人となった徳川家康が、29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごし、
有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの時期にあたります。
家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの譜代大名が守り、
藩政260年の間に25代の城主が誕生しました。
歴代城主の中には幕府の要職についた者も多い
(老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人※兼任を含む)
ことから、後に「出世城」と言われるようになりました。
宇津谷峠に差し掛かったところ、ここの名物「たうだんご」に出合います。
さては唐の秘法で作られた珍しい餅かと思った遠州でしたが、正解は十づつすくうので「十団子」。
試しにやってみさせると見事ひょいひょいっと面白いように十づつすくって碗のなかに入れていきます。
この「十団子」、室町時代の連歌師・宗長の綴った『宗長手記』にも登場しているので室町時代からあったようです。
「折節夕立して宇津の山に雨やどり。此茶屋むかしよりの名物十だんごといふ、一杓子に十づゝ。かならずめらうなどにすくはせ興じて。夜に入て着府」(大永4年(1524)6月16日)
地元の鬼退治の伝承などとも関係して、江戸時代をすぎると、糸でつないだ形に変化して売られるようになっていったようです。
さもあらむかし そこをゆき過て うつの山に
いたりぬ 此里を見れば しろきもちの
霰のごとくなるを器に入て 是めせと
いふ とへば たうだむごとて此里の名物
也といふ さてはもろこしより渡たる餅に
やあむなるといふ さにはあらず
十づつしゃくふによりて とをだむごとい
ふ也とかたる さらばすくはせよといへば
あるじの女房 手づから いひかいとりて
心のままにすくふ これになぐさみて
暮にけれども うつの山にかかる もとより
つたかえではしげりて と ある所なれば
いとくらふ道もほそきに うつつともわきま
へ侍らず
さらでだに 夢のうき世の
旅の道を うつつともなきうつの山こえ
ゆくえは岡辺の里に着 一宿 其夜は 岡辺
の松風に夢をおどろかし 明れば
秋霧の浪間に浮かぶ三保の松原。
眼下に広がる絶景に動くことができずにいた
遠州一行、陽もくれ始めて惜しみつつ寺を降ります。
江尻の里での休息の後、一行は府中へ。
遠州30歳の時、大御所家康の居城駿府城天守閣作事を担当し、
その功績から遠江守を任官し、以後小堀遠州と
呼ばれることになりました。
任務にあたった慶長13年(1608)一年間この地に滞在した
思い出深い地でもあり、当時の場所を尋ねてみると草深く
荒れ果て、人の気配も感じられない様子でした。
住み慣れし宿は葎にとぢられて
秋風通ふ 庭の蓬生
と、目の前の寂れた景色に、過ぎていった時の
流れに想いをよせる遠州でありました。
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州流では毎年、全国の各支部が担当し、その場へ門人が一堂に集まる
「全国大会」という大きな行事があります。
今年の担当は東京支部。
そして、その東京支部の全国大会に向栄会が釜をかけます。
向栄会は遠州流の好みの道具を作る職方達の集まり。
ご先代紅心宗慶宗匠が戦争からお帰りになられた後、
御舎弟の戸川宗積先生が職方を組織して向栄会を作られました。
そして、その職方が日頃より研鑽を積み作り上げた作品を
披露する向栄会展が数年に一度催されます。
そこでメールマガジンでは、10月の向栄会展まで、
遠州公縁の茶陶のお話しを少しお休みしまして、来月8月から
向栄会職方の方々をお一人ずつご紹介してまいります。
また皆様からいただきましたお道具に関する質問も
ご紹介していきたいと思っております。
お道具について、菓子・呉服についての疑問ありましたら
メールをお送りください。
どうぞお楽しみに。
上野焼の特徴と遠州好
ご機嫌よろしゅうございます。
細川忠興は千利休の弟子の中でも「侘茶」
の忠実な継承者でした。
その流れを受けて焼き締め調の施釉や
直線的な造形にみられる道具の選び方にも
遊びを最小限度におさえた武人としての
「侘茶」がうかがえます。
また同時期にお茶堂として招かれた千道安の
指導も考えられます。尊楷の作は素朴で重厚であり、
朝鮮唐津や斑唐津、古高取に似ています。
そしてその野趣溢れる大胆な作風が時の流れとともに
釉の変遷を重ねていき、次第に豊かな装飾の美しさを
加えていきます。
遠州が指導した記録はありませんが、
古来より遠州好みの窯の一つとして数えられています。
小笠原家に代々伝わる道具には土見せの瀟洒な瓢箪茶入が伝わり、
他にも権十郎蓬露の「あがのやき 瓢箪」と箱書きのつく
茶入などがつたわって「綺麗さび」の好みの影響がうかがえます。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は先週に引き続き、波の文様についてのご紹介を
致します。
波の上ではねる、鯉のような魚の描かれた図柄
これを「荒磯」とよんでいます。
荒磯裂と呼ばれる名物裂には、有名な荒磯緞子がありますが
穏やかな水流と優しい魚の姿をしています。
一方、緞子に比べると知名度の低い荒磯金襴の
水流と魚形は、激しさと厳しさを持ち、
それぞれの裂地の生まれた土地柄や民間伝承を反映して
できた違いと考えられています。
ちなみにこの荒磯緞子ですが、遠州公がこれを好んで茶入の
仕覆としたことから、更に人気が高まったと言われています。
この仕覆の添う茶入は
中興名物 高取鮟鱇茶入「腰蓑」
瀬戸春慶「春慶文琳」
瀬戸金華山大津手本歌「大津」
丹波耳付「生野」
があります
ご機嫌よろしゅうございます。
磯遊びも楽しい季節
今日は、先週ご紹介した「笹」と合わせて「笹蟹」などの
文様としても親しまれている「蟹」をご紹介致します。
七種の蓋置と呼ばれるものの一つに「蟹」がありますが
これはもともと筆架・文鎮を蓋置に見立てたものです。
足利義政が慈照寺の庭に十三個の唐銅の蟹を景色として
配置し、その一つを武野紹鷗が賜って蓋置として用いたことが
蟹蓋置のはじまりといわれています。
この蟹蓋置が後に遠州公に伝わり、七代目宗友政方の代に
酒井家に渡り、酒井宗雅がこの写しを13個作ったと箱書きに
記しています。
また昨年、宗実御家元は華甲を迎えられました。
この華甲とは昨年にもご紹介しました通り、
蟹の甲羅は干支の最初である甲を想起させることから歳を表し、
華の字は分解すると六つの十と一となることから、還暦を表す
言葉として用いられます。
その華甲にちなんだお道具として、菊と蟹をあしらった
「交趾臺菊蟹香合」や高台を六角形にした沓形の御所丸茶碗を
好まれています
ご機嫌よろしゅうございます。
この時期羽化をはじめる蛍が夜の闇に淡い光をうつす頃
夏の夕べの美しい水と蛍の光はとても幻想的です。
蛍狩りはこの時期の季語でもありますが、
昔は身近だった風景も今では限られた場所で観られる特別な
ものとなってしまいました。
さて、遠州公の所持していた茶入に「蛍」の銘を
もつものがあります。
瀬戸春慶に分けられるこの茶入には、遠州公の書状が添い
織部の同門であった上田宗箇に宛てられたもので、この茶入は
ことのほか出来が良く、五百貫ほどの値打ちがあり、後々は
千貫にもなるのであるといった内容です。
遠州公は浅井家家臣となり、広島に居した宗箇には色々と心を
配っており、その他多くの書状が残っています。
瓢箪の形をしていますが、上部は小さめで愛らしい印象を
受けます。土見せを大きく残し、黒釉がたっぷりかかっています。
この釉薬からの連想か、挽家に遠州筆で金粉字形「蛍」と
記されています。
また、蛍と茶の湯にちなんだ落語を来月7月にご紹介する予定です。
どうぞお楽しみに
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は7月7日七夕です。
七夕については昨年にもご紹介してまいりましたが、
今日は茶の湯の中の七夕を探してみたいと思います。
茶入の銘では、名物「瀬戸金華山真如堂手茶入 銘 七夕」
二代宗慶公が一年に一度取り出すべしという意味で
名付けられたと伝わっています。
機織りを仕事とした織姫にちなんで、糸巻をモチーフと
するお道具もあります。
「型物香合相撲」番付西方二段五位には「染付糸巻香合」
が挙げられています。
また、梶の葉に字を書くと字が上達するとも言われますが、
尾形乾山は「梶の葉の絵茶碗 銘 天の川」を残しています。
宗実御家元が貴美子夫人と共に和歌を梶の葉に
書きつけられた作品は、七夕が近づくと宗家道場に
毎年飾られています。
御家元 あまの川遠きわたりにあらねども
君のふなでは年にこそまで
貴美子夫人 星合の空