3月 30日(月)桜ちるの文
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公所持の掛物「桜ちるの文」
をご紹介します。
定家筆のこの掛物には
前十五番歌合にある紀貫之の
桜散る木の下風は寒からで
空に知られぬ雪ぞ降りける
の歌と凡河内躬恒の
我が宿の花見がてらに来る人は
散りなむ後ぞ恋しかるべき
の二首の上句が書かれていることから
「桜ちるの文」と呼ばれるようになりました。
遠州公は定家を崇拝し、その心も自分のもの
とするため定家様の書体をしたためたことは
よく知られています。
寛永13年、江戸品川林中のお茶屋が完成し
遠州公は三代将軍徳川家光に献茶をしました。
この際に床の間に掛けられた掛物が、
この「桜ちるの文」でした。
この茶会によって遠州公が将軍茶道指南役として
天下一の宗匠として認められた、
最高の晴れ舞台となったのでした。
12月 18日 遠州公の選ぶ和歌
ご機嫌よろしゅうございます。
茶の湯の盛んになった時代から、
床の間の一番の掛物といえば、墨跡。
そして唐物などであったことは既にお話ししました。
また、武野紹鴎が「天の原」の和歌の歌意をもって
墨跡に準ずるとして、床の間にかけたことも
何度かふれました。
そのような流れの中で、
茶の湯では暗黙のうちに、和歌の中でも
恋歌は、茶の精神にそぐわないということから
用いられませんでした。
しかし、遠州公はこのタブーを破り、
恋歌を多くの茶道具に用いています。
これは、道具への恋にも似た密かな想いを
歌銘に託しているともとれます。
本来「和歌」は、男女の交流の貴重な手段でした。
遠州公は、その和歌の本質を生かし、
日本らしい奥ゆかしさ・日本の美しさを
茶の湯に取り込んでいこうとしたのではないでしょうか。
11月 17日
心あてに折らばや折らむ
初霜のおきまどはせる白菊の花
古今集 大河内躬恒
ご機嫌よろしゅうございます。
東北から関東にかけては既に初霜の降りた地域も
あるのではと思います。
先ほどの和歌は百人一首にも選ばれている
大河内躬恒の歌です。
当て推量に折るならば折ろうか。
初霜が置いて、その白さのために見分けもつかなく
なっている白菊の花を。
初霜に紛れるばかりの白菊の美しさを詠んでいます。
先人は、寒暖の差によって熟し方の異なる茶の扱いや
炉・風炉の区切りを自然現象によって判断していました。
口切も行う日が予め決められたものではなく
霜が降ってからが良いとされていたのです。
木々が赤く染まり始める頃、
そしてはらはらと散り始める頃
その時々の自然の変化に応じて、
茶の湯も時が流れていきます。
10月 27日 秋は夕暮れ
ご機嫌よろしゅうございます。
あたりの景色を見渡すと
もうすっかり秋を感じられる
のではないかとおもいます。
今日は枕草子の秋の一節を
ご紹介します。
秋は夕暮
夕日のさして 山の端(は)いと近うなりたるに
烏の寝どころへ行くとて
三つ四つ 二つ三つなど 飛び急ぐさへあはれなり
まいて雁などの連ねたるが
いと小さく見ゆるは いとをかし
日入り果てて 風の音 虫の音など
はたいふべきにあらず
日が落ちるのが早くなってきました。
夕日に染まった空を眺めていると
ふとこの一節が頭に浮かびます。
秋の夕暮れはなんとも寂しげで
それでいて美しい。
この季節ならではの味わいです。
9月 29日 天の原(あまのはら)の歌
天の原ふりさけ見れば春日なる
三笠の山に出でし月かも
ご機嫌よろしゅうございます。
冒頭の和歌は、阿倍仲麻呂が遣唐使として渡った先で、
夜空に光る月を眺め、故郷奈良の三笠山にでていた
名月を想い出し詠んだ歌です。
この歌は茶の湯においても大変重要な歌です。
床の間には中国高僧の墨跡を掛けるが主流
であった当時において、武野紹鴎はその歌意が
気宇壮大で、墨跡にも相当するとして、
初めて床の間に、掛けられたとされる和歌です。
秀吉も、和歌の掛け物を初めて拝見し、利休に
その理由を問うと、
この歌の心は月一つで、世界国土を兼ねて詠んだもので
あるので、大燈国師、虚堂祖師の心にも
劣らないものであるので
と、秀吉に言上したと言われています。
9月 19日桂離宮(かつらのりきゅう)
雲は晴れ 霧は消えゆく 四方の岑
中空清く すめる月かな
ご機嫌よろしゅうございます。
上の歌は
桂離宮を手がけたといわれる
八条宮智仁親王の歌です。
この桂離宮は遠州公の好みが色濃く伝わる
建物としても有名で、かつては遠州公作と言われていた時代もあります。
さて、この桂離宮は月と深い関係があります。
仲秋の名月の夜、正面に月が見えるように
作られた「月見台」
これは書院座敷から庭へ突き出るように設置されていて
月を見るための角度や形が計算されています。
また「月波楼」という名の茶室
「浮月」という手水鉢
襖の引手も月型です。
他にも月にちなんだものがたくさんあり
親王の月を愛する心が伝わってきます。
5月13日 竹酔日(ちくすいび)
降らずとも 竹植うる日は 蓑と笠
松尾芭蕉
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「竹酔日」と呼ばれる日で
先述の俳句はこの「竹酔日」を詠んだ句です。
蓑笠を着た姿は、竹を植えるのに相応しいので、
雨が降らなくても竹を植える日には
蓑と笠を着て植えたいものだ
というような意味です。
この日は移植が難しい竹の植え替え日といわれています。
中国の古書に
「この日は竹が酒に酔っていて移植されたことに
気づかないから」と記されていたことに由来するようですが
根拠は不明です。
もしこの日に竹を植えられなくても、
「5月13日」と書かれた紙を竹に貼るだけで
同様の効果が得られると言われています。
また、この日はかぐや姫が月に戻った日とする説もあります。
旧暦5月13日は現在の6月23日頃にあたり
奈良の大安寺では、毎年6月23日に「竹供養」が行われます。
4月14日 世の中に
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は桜にちなんだ和歌をご紹介します。
世の中に たえて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
よく知られた在原業平の和歌です。
この世の中に全く桜というものが無かったならば、
咲くのを待ちどおしがったり、散るのを惜しんだりすることもなく
春を過ごす心はのどかであったろうよ。
伊勢物語では
業平が交野(かたの)で惟喬親王の狩のお供をして
そのあと桜の下での酒宴で詠まれた歌と書かれています。
待ち焦がれた春と桜の花
しかし散り急ぐ桜に心は急かされ、いっそなければ…
と、心うらはらの気持ちがよくあらわれています。
返歌が後に続きます。
散ればこそ いとど桜はめでたけれ
憂き世になにか久しかるべき
散るからこそいっそう桜はすばらしいのだ。
この世界に永遠のものなどあるだろうか…
春が来たよと教えるように桜は花を咲かせ
そしてはらはらとその花弁を舞わせて散っていきます。
千年以上前の日本人も、今を生きる私たちも
同じ心でこの桜の姿を見て
心を動かされていることを感じさせてくれます。
2月21日 「雪間草」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は昨日ご紹介した
「雪間の草」の和歌に因んで銘をつけられた
茶碗をご紹介いたします。
「丹波(たんば) 銘・雪間草」
こちらは
日経新聞・文化面の≪心に残る名碗十選≫
でご先代が紹介されています。
花をのみ待つらん人に
山里の雪間の草の春を見せばや
桜を待ち焦がれる人に、雪の間から芽生えた
草の息吹を感じてもらいたい
これを利休がわび茶の心としたということをふまえ
松平不昧がこの銘をつけました。
松平不昧は出雲松江藩の第7代藩主で、
茶の湯を愛好し、遠州に私淑した大名として知られた大名です。
遠州公は各地の国焼きを指導しており、
丹波もそのうちの一つです。
六古窯にも数えられ、古い窯の一つですが
茶碗はほとんど焼かれていないようです。
丹波では
「生野(いくの)」という茶入が有名です。
【告知】
本日をもちましてテアトル新宿での映画 父は家元の上映が終了いたします。
上映時間
(1)10:00(2)17:25
映画 父は家元 公式ホームページ
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ご機嫌よろしゅうございます。 今日は今年の干支にちなみ、馬が登場する和歌についてお話したいと思います。
平安時代以降は「馬」を優雅な表現として「駒」と表すようになります。 有名なものに 『駒並めていざ見に行かむ故里は雪とのみこそ花は散るらめ 古今』 馬を並べてさあ見に行こう。 故里(旧都奈良か)はただ雪のように桜の花が美しく散っていることだろう。
『駒とめて袖打ち払ふ陰もなし 佐野のわたりの雪の夕暮れ 新古今』 道中どこか物陰に入って袖にかかった雪を払おうとしたら、辺りには物陰がない。 馬をとめて袖の雪を払う物陰もないのだなあ。 この佐野の渡し場の雪降る夕暮れ時よ。
この歌は藤原定家の歌で、遠州流と定家は深い関係がありますが、また改めてお話したいと思います。
さてさて、毎年恒例の点て初めでは お家元がその年の御題に因んだ和歌を詠み、 自作の茶杓に歌銘としてしたためたものが使われます。 今年はどんな茶杓が拝見できるか楽しみです。