庄野のあたりにやってきた遠州公一行。
ここでは供の者が、名物のやき米にかけて
ひだるさに行事かたき いしやくし
なにとしやうのゝ やき米を喰
と歌を詠み、
「しもびとのうたには よしや あしや」と
遠州公の評価が記されています。
「伊勢物語」の33段(こもり江)をみますと
津の国、菟原の郡(現在の兵庫県芦屋辺り)に住む女に通う男へ、
この女が詠んだ歌が記され、
こもり江に思ふ心をいかでかは
舟さす棹のさして知るべき
田舎人のことにては、よしやあしや
と、続きます。
このことを踏まえて考察すると
遠州公はこの「伊勢物語」の33段を倣って
自分の歌を下人の歌として記したと想像することができるのではないでしょうか。
宇津谷峠に差し掛かったところ、ここの名物「たうだんご」に出合います。
さては唐の秘法で作られた珍しい餅かと思った遠州でしたが、正解は十づつすくうので「十団子」。
試しにやってみさせると見事ひょいひょいっと面白いように十づつすくって碗のなかに入れていきます。
この「十団子」、室町時代の連歌師・宗長の綴った『宗長手記』にも登場しているので室町時代からあったようです。
「折節夕立して宇津の山に雨やどり。此茶屋むかしよりの名物十だんごといふ、一杓子に十づゝ。かならずめらうなどにすくはせ興じて。夜に入て着府」(大永4年(1524)6月16日)
地元の鬼退治の伝承などとも関係して、江戸時代をすぎると、糸でつないだ形に変化して売られるようになっていったようです。
さもあらむかし そこをゆき過て うつの山に
いたりぬ 此里を見れば しろきもちの
霰のごとくなるを器に入て 是めせと
いふ とへば たうだむごとて此里の名物
也といふ さてはもろこしより渡たる餅に
やあむなるといふ さにはあらず
十づつしゃくふによりて とをだむごとい
ふ也とかたる さらばすくはせよといへば
あるじの女房 手づから いひかいとりて
心のままにすくふ これになぐさみて
暮にけれども うつの山にかかる もとより
つたかえではしげりて と ある所なれば
いとくらふ道もほそきに うつつともわきま
へ侍らず
さらでだに 夢のうき世の
旅の道を うつつともなきうつの山こえ
ゆくえは岡辺の里に着 一宿 其夜は 岡辺
の松風に夢をおどろかし 明れば
「うめ若菜、丸子の宿のとろろ汁」
と松尾芭蕉が詠んだように、丸子ではとろろ汁が名物として知られています。
時は戦国、1596年創業の「丁子屋」が現在も営業中です。
こちらは静岡を往来する旅人にとろろ汁でもてなしてきました。
旅日記では触れていませんが、遠州公が訪れた際にもきっと営業していたはず。
東海道中膝栗毛にも「丁子屋」のくだりが出てきます。
丸子とも鞠子とも表されますが、ここで遠州は「沓」を求めようとしたところ、
今は落ちぶれて「沓」を売って生計を立てる、貴族らしき人の「沓」は通常より高く、
結局買わず。蹴鞠の沓と鞠子ということで、
遠州公も面白いと思って書き留めたのでし
ょうか。
ご機嫌よろしゅうございます。
爽やかな青空の下、木々の緑は目にも鮮やかになりました。
そんな風に吹かれるみずみずしい楓の葉を表したお菓子を
ご紹介します。
目には青葉 山ほととぎす 初鰹 素堂
あらたうと 青葉若葉の日の光 芭蕉
源太さんに「こなし」と「練り切り」の違いについて
伺ってみました。「こなし」は米粉などででんぷんを入れて
蒸しており、もっちりとした食感に。
「練り切り」はあんこにつなぎをいれてさっくり、
ずっしりとした食感になるのだそうです。
織部焼茶入「不二」
ご機嫌よろしゅうございます。
織部焼の茶入に「不二」の銘をもつものがあります。
遠州公が
時しらぬ五月のころの色をみよ
いまもむかしも山はふしのね
との歌銘をつけています。
これは「伊勢物語」所載の
時しらぬ山は富士の嶺いつとてか
かのこまだらに雪の降るらむ
をうけての歌と考えられます。詞書には、
さ月の晦に、ふじの山の雪しろくふれるを見て
よみ侍りける
とあり、五月になっても鹿の子斑に雪が降り積もる
富士山を歌っています。
五月といっても陰暦の五月なので、現在の七月初め頃。
夏のまばゆい青空に東路を進み、駿河の国に着いた男が見た
富士の山は頂に雪をかぶり鮮明な印象です。
後窯に分類される織部「不二」は背の高いすっきりとした形で
肩から胴体にかけて富士山の姿があらわれています。
黒釉が一面にかかり、それが柿色に変化して影富士のような
模様となっています。
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は船をご紹介しましたので、本日は橋を
ご紹介します。
さむしろに 衣かたしき
今宵もや我をまつらむ宇治の橋姫
この歌を歌銘とした瀬戸真中古窯「橋姫」があります。
遠州公がこの茶入を宇治で見つけ、その成り姿を讃え
この銘をつけたとされています。
この「宇治の橋姫」とは橋の守り神であり女神で
もとは宇治橋の三の間とよばれる欄干に橋姫社が
祀られていましたが、度重なる洪水により現在の
宇治橋西詰に移りました。
ちなみにこの三の間から汲み上げられた水は天下の
名水とされ、秀吉は橋守の通円にこの水を汲ませ茶の湯に
使ったと言われています。(この通円は昨年ご紹介した
狂言「通円」につながります。)
同じく「橋姫」との銘をもつ志野の茶碗が、
東京国立博物館に所蔵されています。
橋の欄干部分が二重線で描かれ、両端に擬宝珠、橋脚が二本
非常にシンプルな絵付けの茶碗です。
この志野や織部とほぼ同時期に流行した画題に「柳橋水車図」
があります。
大きな橋、柳と水車、蛇籠
このデザインは宇治橋の風景を描いており、各派によって
描かれましたが、なかでも長谷川等伯を筆頭とする画師集団
の長谷川派の得意とする画題となります。
茶道具でこの意匠を用いた有名なものに野々村仁清作
「色絵柳橋図水指」(湯木美術館蔵)があります。
3月13日(月) 花入「深山木」
ご機嫌よろしゅうございます。
そろそろ待ち焦がれた桜が、その蕾を膨らませる頃。
今日は遠州公作の竹花入「深山木」をご紹介致します。
ごまと縞模様が味わいのある片見替わりの景色の竹を
遠州公が利休の「尺八」と同様根を上にして切り出したものです。
深山木のその梢とも見えざりし
桜は山にあらわれにけり
この歌は「詞花和歌集」所載、作者は鵺退治で有名な源頼政で
「平家物語」や「源平盛衰記」などにも引用されている歌です。
急に開かれた歌会で「深山の花」という題がだされ
人々が詠めずに困っていたところ、頼政がこの歌を詠み、
皆感心したと「平家物語」に記されています。
深山の木々の中にあって、その梢が桜とは分からなかったが、
咲いた花によって、初めて桜とわかるものだなあ。
なんてことない竹と思われていたが、花入となった途端
その美しさにはっと驚かされた
そんな想いが込められているのでしょうか。
この「深山木」については宗実御家元が昨年出版された
著書「茶の湯の五感」の中で、利休の「尺八」とともに
紹介されており、
利休のスパッと切られた尺八花入と異なり、深山木の切り口は
節ぎりぎりで残すところに、武士としての節度節目を
踏まえた遠州公の姿勢が伺えるとおっしゃっています。
12月 12日 (月) 猿の歌
ご機嫌よろしゅうございます。
ついこの間新しい年を迎えたと思ったら、
もうあっという間に一年が過ぎようとしてる
時の流れの早さを感じずにはいられません。
さて、今日は今年の干支である「猿」が詠まれた
「和漢朗詠集」をご紹介します。
和漢朗詠集巻下 猿
胡鴈一聲 胡雁(こがん)一声
秋破商客之夢 秋、商客の夢を破る
巴猿三叫 巴猿(はえん)三叫
曉霑行人之裳 暁、行人の裳を霑す
北方から訪れた雁の鳴き声は、
秋、旅の行商人の夢を覚ます
暁の巴峡で、猿が哀しげに三度叫ぶ声は
舟行の旅人の袂をしぼらせる。
和漢朗詠集にはこの詩を含め猿の部に
八首がありますが、いずれも猿の声に
寂寥・望郷の念を感じるものが多く、
「巴東の三峡猿の鳴くこと悲し
猿鳴くこと三声にして涙衣をうるおす」
とあることから
当時、暁方の峡谷で猿が悲しげに三声鳴く
様子が旅情をかき立てる
というのが類型化していたようです。
和漢朗詠集については、松岡正剛氏の千夜千冊
でも紹介されていますので、そちらもご覧ください。
0158
5月30日(月)ほととぎす
ご機嫌よろしゅうございます。
先週御紹介しました小倉色紙が登場する
こんな逸話がありますので、御紹介します。
聚楽第にて関白秀次が、
利休をはじめとする客を招いた時のこと
時は四月二十一日、暁の頃茶室には短檠の明かりもなく、
ただ釜の煮え音ばかりが聞こえるだけ
さて一体どういった御作意でろうと思っていると
利休の後ろにある障子が、ほのぼのと赤くなっていく
不思議に思って障子を開けると
月影が床の間を照らしている。
にじり寄って見てみると
ほととぎす鳴きつる方をながむれば
ただ有明の月ぞ残れる
の小倉色紙の掛け物がかかっていました。
なんと素晴らしい御作意であろうと
皆感嘆したのだそうです。