4月 17日(金)
遠州公所縁の地を巡って 「将軍秀忠の御成」
ご機嫌よろしゅうございます。 龍光院に孤篷庵を営んだ年の十一月八日。 遠州公の江戸屋敷に将軍秀忠の御成がありました。 神田と牛込門内にあった遠州公の屋敷のうち 御成があったのは日常の屋敷である神田でした。 現在でいう千代田区駿河台三丁目辺り、オフィスビルが 立っています。 八畳敷の書院に二畳敷きの上段の間格天井などの 豪華な装飾が施された部屋に炉が切られており、 秀忠にはこの書院でお茶を差し上げたと思われます。 将軍が公式に臣下の屋敷を訪問するこの御成は、 将軍の威光を示し、主従関係を再確認する場として 機能していました。 もともと室町将軍家で行われており、それに倣い 新たな嗜好を加え、秀吉も行っていました。 特に二代将軍秀忠は、茶事を公式の行事にとり入れた 「数寄の御成」を展開します。 遠州公江戸屋敷御成の日。 この日秀忠は織部の茶会に出席しており その直後の御成であったようです。 織部から遠州へ 茶の第一人者としての将軍指南引き継ぎの布石と なったであろうことが推察される御成でした。
4月 10日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「孤篷庵(こほうあん)」
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公は慶長十七年(1612)三十四歳
龍光院に江月宗玩を開山として孤篷庵を創設します。
この孤篷は二十代の時に
春屋宗園禅師から賜った号で
以下の偈が残っています。
扁舟聴雨 漂蘆萩間(扁舟雨を聴いて、芦萩の間に漂う)
天若吹霽 合看青山(天もし吹きはらさば、青山を看るべし)
故郷琵琶湖に漂う孤舟にたとえ
いまだ禅において修行の道なかばの状態にある遠州公の姿を、
「天がもし風雨を吹き払ったならば
すがすがしい青山を看ることができる。
すなわち禅の境涯に達することができれば
その道で成功を収められるであろう。」
と将来の遠州公の境涯を看破し、
教え導いています。
春屋禅師は遠州公が最も深く帰依した師で、
「宗甫」「大有」の号も師からいただいています。
生涯の茶会において一番多く掛けられた墨跡も
春屋禅師であり、正月三が日の掛け物は必ず
師の墨跡を掛けたそうです。
後、寛永二十年(1643)遠州公六十五歳のおりに、
現在の地に孤篷庵を移築し、
晩年を過ごすことになります。
3月 25日(水) 遠州流茶道の点法
「釣釜」(つりがま)
ご機嫌よろしゅうございます。
4月も近づき炉辺も暖かくなってきました。
炉の季節も終わりに近づくと
釣釜をかけてお茶を点てます。
昨年のメルマガでも触れましたが、
小間では台目切りの席の場合、
台目柱と直線が重なってしまうため、行いません。
釣釜は広間にかけて使用します。
小間では炉中の灰を深く掘り、火をお客様から少し
遠ざけ、釜の高さを調節しながらお点法を
行います。釜は炉の時より少し小ぶりなもの、
筒形のものをかけます。
現在では春の時期に掛けられる釣り釜ですが
本来は季節を問わず掛けられていたものです。
遠州公は茶会の際、小間から書院へ移る際に
鎖の間といって、釜を鎖でかけた席を通る設えを
用意しました。(書院と小間を繋ぐ鎖の意味
とする説もあります。)
点法では、お点法の前に釜の高さを上げ、
お点法の終わりにはまた高さを下げて
湯を沸かしておくことが特徴です。
3月 23日 (月) 中興名物「忠度(ただのり)」
行き暮れて木の下陰を宿とせば
花や今宵の主ならまし
ご機嫌よろしゅうございます。
中興名物の茶入に薩摩肩衝 「忠度」
という銘のものがあります。
「忠度」は世阿弥が新作の手本として挙げた
能の一つです。
平清盛の末弟であった忠度
ある日須磨の山里で旅の僧がその木に手向けをする
老人と出会います。一夜の宿を乞う僧に、
老人はこの花の下ほどの宿があろうかと勧めます。
この桜の木は、一の谷の合戦で討ち死にした忠度を
弔うために植えられた木でした。
そしてその旅の僧の夢に「忠度」が現れ
「行き暮れて」の歌を、
「千載集」に詠人不知(よみびとしらず)
とされた心残りを語るのでした。
風流にして剛勇であった忠度のいくさ語りと
須磨の浦に花を降らせる若木の桜が美的に
調和した名曲です。
この忠度が薩摩守だったことから
細川三斎が命銘したとされていて、箱書も三斎の筆
と言われています。
2月27日 大和郡山での遠州公の出会い
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は大和郡山についてご紹介しました。
今日はその地で遠州公に影響を与えた
いくつかの出会いをご紹介します。
遠州公がこの地に移り住んで
十歳の歳、
六十七歳の利休に出会います。
主君秀長が秀吉の御成の際に茶の湯で
もてなすため、その指導に訪れたのでした。
秀長の小姓であった遠州公は、茶会当日
秀吉の給仕をする大役を果たします。
利休切腹の三年前のことです。
十五歳、元服をした遠州公は
利休・織部と茶道の道を極めた人物が参禅した
春屋宗園の下で修行します。
後二十九歳で「宗甫」、同時期に「孤篷庵」の号
を与えられます。
遠州公の茶会の中で一番多く掛けられた墨跡も
春屋禅師のものです。
そして同じ頃、茶の湯の師として古田織部の
門を叩きます。後に伏見に住まいを移してからは
織部の屋敷のあった木幡まで一キロ程度の
距離になり、一層師弟関係を深めていきます。
十六歳にして、既に松屋三名物の一つ
「鷺の絵」を拝見するなど、若いながらも既に
後の大茶人への道の第一歩を踏み出したのでした。
2月 23日 (月)江戸の野菜 小松菜
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「小松菜」についてご紹介します。
この野菜、江戸で取れた野菜で、しかも
名付け親はあの将軍吉宗ということを
ご存知でしょうか?
江戸初期には武蔵国葛飾郡(現:江戸川区)
の小松川付近で多く栽培されていました。
享保4年(1719年)に八代将軍吉宗が小松川村に
鷹狩りに訪れました。
この小松川村は「鶴御成(つるおなり)」
と呼ばれる鶴の猟場の一つで、
当時鶴の肉は鳥類の中でも最高のご馳走でした。
この小松村の香取神社を御膳所(休憩や食事をする場所)
としていたため、神主の亀井和泉守が、
地元で採れる青菜を入れたすまし汁を吉宗に献上しました。
吉宗はこの青菜の味と香りを大変気に入り、その名を尋ねました。
「とくになまえはついておりません」と答えると、
「このようなうまい菜に名前がないのは残念なことだ
この村のなまえをとって、これからは小松菜と名付けよ」
と命じられました。
やがてこの将軍が名づけた小松菜の
評判は全国に広がっていきました。
現在では一年中手に入る野菜ですが、
当時は冬の貴重な緑黄色野菜で、
霜が降りる頃からおいしくなるため、
昔は冬菜・雪菜などと呼ばれていました。
2月 20日(金)遠州公少年時代
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公が小堀村で産まれ、
過ごした時は、そう長くはありません。
天正十三年(1585)
豊臣秀吉が、弟秀長と共に五千人の家来を
連れて大和の郡山城に入城します。
遠州公の父である新介も秀長の八老中の一人
として城内に屋敷をもらい、
遠州公も共に郡山に移り住みます。
遠州公が七歳から
十七歳までの約十年間を
この郡山で過ごすこととなります。
織田信長の支援を受けた筒井順慶が大和を統一し、
天正8年(1580)筒井から郡山に移り、
明智光秀の指導で城郭の整備にかかりました。
この郡山城と光秀の作った福知山城に共通の特徴があります。
転用石といって城郭の石垣に仏塔や墓石など、多目的で
使用されていた石をわざと見えるように、使用したものです。
ところが、本能寺の変から山崎の合戦
(ここで洞ヶ峠を決め込むという言葉が生まれます)
順慶の死、後を継いだ定次の伊賀上野へ国替と
状況は次々と変化していきます。
秀長が入城する五年前に、織田信長はここ
郡山城以外の大和の城を全て取り壊していたため
唯一の城下町であり、更に秀長は奈良での味噌・酒・木材の
販売を禁止し、郡山に限る政策を行ったため、
郡山は更に栄えていきます。
また、堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地でもありました。
ここで遠州公は後の人生を方向付ける
いくつかの出会いがありました。
来週はその出会いについてご紹介します。
2月 16日 (月)西行と桜
ねがはくは花のもとにて春死なむ
そのきさらぎの望月の頃
ご機嫌よろしゅうございます。
この歌は平安の歌人西行法師の詠んだ歌です。
西行は裕福な武士の家系に生まれます。
院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」に選ばれ
武勇に秀で歌人としての才もあった西行の名は、
広く知られていました。
しかし、西行は22歳の若さで、全てを捨てて出家
してしまいます。
この歌は60才代中ごろの作といわれています。
2月15日はお釈迦様の入滅の日で
平安時代から涅槃会など、
お釈迦様の遺徳を偲ぶ習慣がありました。
このお釈迦様が涅槃に入ったとされる
「きさらぎの望月」のころに
西行は「死なむ」と詠んでいます。
悟りの世界に憧れ、全てを捨て出家した後も、
現世への執着を捨てきれずもがきつつ
気がつくと花や月に心を寄せ歌を詠んでいた西行。
実際に亡くなったのは
七十三歳で1190年の旧暦2月16日。
(新暦でいうと3月24日頃)
「きさらぎの望月」の翌日。
まさしく「そのきさらぎの望月の頃」に
亡くなったのでした。
さてその死に際して、桜は咲いていたでしょうか?
今となっては定かではありませんが
江戸時代に入って西行を慕う僧がその墓を発見し、
西行が愛した桜の木を、墓を囲むように千本も植えて、
心からの弔いとしたそうで、
現在では千本以上もの桜が墓を抱く山を覆っています。
2月 13日 (金)伊吹大根
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公の茶会記には、菓子として
きひ餅 ささけ掛テ
くりの粉餅 伊吹大こん
はけ目鉢ニミつくり
(「小堀遠州茶会記集成」年不詳十月八日)
という記載があります。
このうち、息吹大こんとは
小堀村にある伊吹山でとれる大根です。
甘辛く醤油煮にして口取りとして
お菓子につけています。
伊吹山のふもとで古くから栽培されてきた
伝統野菜の伊吹大根。
形がユニークで、葉と首が赤紫色を帯びていて
根は太短く丸みをもっています。
「峠大根」とか、先端がねずみの尾のように細長いことから
「ねずみ大根」とも呼ばれていました。
辛味の強い大根で、そばの薬味としても江戸時代から
評判になっていたそうです。
この故郷の大根を、自身の茶会に用いていたことが
茶会記から読み取れます。
この伊吹大根、しばらく作られておらず
幻の大根となっていましたが、近年郷土野菜として
復活しました。
しかし他との交雑を防ぐ必要があり純粋種の
生産量は多くないのだそうです。
2月 6日(金)遠州公出生の逸話
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公は近江小堀村で、新介を父に生まれた…
とご紹介しましたが、
実は、小堀遠州は浅井長政の忘れ形見である
という逸話が伝わっています。
浅井長政は、もともと遠州公の父新介が仕えており
織田信長に攻められ、落城した小谷城の悲劇は有名です。
その際、長政の長男万福丸は極刑となりますが
お市の方とその娘三人が助け出されます。
このとき実はお市の方にはもう一人、
生後間もない赤ん坊がいたのです。
その乳飲み子は、小谷城落城の際乳母に助けられ
無事脱出し、当時神照寺に出家していた
遠州の父新介に預けられたというのです。
そしてその乳飲み子が後の遠州公になったのだとか
真相は定かではありませんが、
遠州公が偉大な功績を残した故に生まれた逸話では
ないでしょうか。