10月 30日(金)遠州公所縁の地を巡って
「擁翠亭(ようすいてい)」
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年の2014年は古田織部の400回忌にあたり
あるコレクターの思いがこもった、私設美術館が
北区鷹峯に誕生しました。
この美術館の建物は、昭和初期に建てられた生糸商人
の山荘にある土蔵を改装していて、茶室をイメージした
作りとなっています。
その敷地内には遠州公所縁の茶室
「擁翠亭」があります。
室町将軍足利義満の管領細川満元が築いた岩栖院を
家康が南禅寺に移し、刀装の彫金師後藤長乗に
与えました。長乗とその子後藤覚乗は、加賀藩主前田利常や、
小堀遠州の助力で「擁翠園」を造営します。
ここに作られたのが「擁翠亭」とよばれる小間の茶室で
この茶室は江戸中期に洛西の清蓮院に移築された後、
明治に同寺院が廃寺となって、解体されました。
その材料は保管されていましたが、長い間忘れられており
平成になって図面と供に見いだされて、
太閤山荘内に移築されました。
この擁翠亭は部屋が七つあり、窓の数も多くて十三あることから
別名を「十三窓席」といい、日本一窓の多い茶室と言われています。
先日この茶室でお家元の茶会が行われました。
10月23日(金) 遠州公所縁の地を巡って
「遠州公と宇治」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶の湯にとってかかせない抹茶の生産地
宇治と上林家についてご紹介します。
遠州公は、元和元年(1615)、大阪の陣の後
上方郡代として、また元和九年には伏見奉行として
宇治の地に密接な関わりを持っていました。
また遠州公は御茶吟味役としても、宇治に重要な
関係がありました。
遠州公が、今年お勧めの御茶を試飲して
選ぶと、そのお茶は「将軍お好み」として、
将軍の近臣や大名からの注文が殺到します。
宇治には昔から多くの茶師がいましたが、
優れた技術力を持って上林家が台頭し、また
家康との関係からも上林家は重要視され、
江戸時代には宇治代官となります。
伏見奉行である遠州公はこの隣接する宇治代官
も監察の対象でした。
政治的にも、また茶の湯の面でも宇治に密接な
関わりを持っていた遠州公の茶会には
上林一族をはじめ、多くの宇治茶師や畿内の
政治・経済・文化的中心人物が登場しています。
10月16日 遠州公所縁の地を巡って
「加賀と遠州公」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と加賀の前田家について
ご紹介します。
120万石の大大名であった加賀前田藩ですが、
外様大名であり、監視の厳しい幕府へ反抗の意志なし
との表明として軍事費を極力抑え、財力のほとんどを
文化政策に注ぎました。
三代藩主前田利常は、歴代藩主中傑出した
業績を残した大名です。
その利常の指導役として遠州公が働き、
四代光高に引き継がれ、加賀・金沢に茶の湯を
はじめとする見事な芸術文化が花開きました。
遠州公と前田家では二代藩主利長が遠州公の甥である
小堀重政を、また利常が遠州公の孫にあたる小堀新十郎を
召抱えるなど、茶の湯を通じてできた深い関係がありました。
また熱心に茶の湯指導を仰ぐ利常の書状など
よく残っていますが、他にも庭園についての助言もして
いたようで、遠州公に関わる多くの建物や庭が存在します。
利常は遠州公の一言で大津の別邸で工事中の庭園を取り壊し、
琵琶湖や叡山を借景とした雄大な庭園に造り変え、
遠州公は「これこそ大名のお庭である」とほめたそうです。
また兼六園の一部、金沢城本丸茶室と路地、
兼六園から金沢城二の丸につながる逆サイフォンの技術も、
遠州公の設計といわれています。
そして、隠居した利常は、遠州公に指示を仰ぎ、数奇屋を築き
できあがった書院や数奇屋を「遠州屋敷」と呼んでいました。
金沢の地にも遠州公の綺麗さびの心が根付いていることが
わかります。
10月 5日(月) 藤堂高虎(とうどうたかとら)
ご機嫌よろしゅうございます。
10月 5日 は、藤堂高虎の命日です。
遠州公の義理の父であることは皆様よくご存知の
ことと思います。
高虎は遠州公の才をいち早く見抜き、
養女を迎えて遠州公に嫁がせ、縁戚関係を結びました。
遠州公の父・新介と同じく、浅井氏の没後は、
豊臣秀長に従い、その才覚から後に家康にも
重用されました。
その信頼ぶりは家康の臨終の際に呼ばれ、
家康亡き後、万が一のことがあれば、戦陣の一番手を
高虎に任せよ。と遺言したことからもわかります。
また家康の念願であった、孫の和子入内も、
高虎の働きによって公武の話し合いが進められ
ついに実現しました。
この高虎が実現させた入内のために、
遠州公も後に作事奉行として
大いに活躍することとなるわけです。
寛永七年(1630)十月五日、七十五歳で亡くなります。
7月 1日(水)遠州流茶道の点法
旅箪笥(たびだんす)
ご機嫌よろしゅうございます。
夏の暑い時期、正午のお茶事などが
行われることは少ないようです。
そのような暑い時期にも気軽に茶の湯が楽しめるよう
宗家の稽古場では、旅箪笥や、茶箱といった
野点や外出先でのお茶に最適なお点法の稽古をしています。
旅箪笥は、その名前の通り旅先にも持ち歩ける
移動用に考案されたものです。
千利休が豊臣秀吉の小田原の陣に従った際に
考案したといわれています。
茶箱とは異なり、柄杓が入るようになっており
野点で手取り釜に合わせたり
また携帯用としてだけでなく、小ぶりな風炉釜で、
楽しむ夏の気軽なお茶にもよく合います。
差し蓋となっている戸の裏には、短冊が挟めるように
なっており、時候の歌などを入れて、席中で
楽しむことができます。
6月 12日(金)遠州公所縁の地を巡って
「大坂城」
元和六年(1620) 遠州公42歳
大坂の陣で焼失した大坂城の再建に関わります。
この時は城の周縁部の櫓や門の修繕の奉行をつとめました。
寛永三年(1626)には天守本丸作事奉行となっています。
さて2014年、2015年は
大坂冬の陣(1614年)・大坂夏の陣(1615年)
から数えて400年を迎える節目の年となります。
そこで2014年・2015年は「大坂の陣400年」と位置づけ、
大坂城を拠点として大阪全域で「大坂の陣」
の史実に触れるイベントを開催しています。
昨年には大阪城公園内の「一番櫓」「千貫櫓」「多聞櫓」「金蔵」
の4箇所が公開となりました。
この特別公開された櫓は、大坂の陣で焼失後、
徳川幕府の手によって建造されたもので
このうち「千貫櫓」は遠州公が大坂城作事の際
担当した櫓と言われています。
大坂城内に残る建物の中では、西の丸内にある
乾櫓と並んで最も古い建造物です。
公開期間中、櫓の成り立ちや役割、機能を解説する展示を
中心に、大坂城築城普請に大きく貢献した人物、
徳川秀忠・藤堂高虎、それに遠州公の紹介も詳しくされました。
6月 8日 (月) 太田道灌と蓑傘
ご機嫌よろしゅうございます。
梅雨の時期の外出に傘は欠かせません。
そして昔は雨の時、蓑を使用していました。
今日はこの蓑にまつわる太田道灌のお話をご紹介します。
太田道灌は江戸城を造ったことで有名です。
築城の名人で、また歌人としても知られた武将でした。
さて、神田川の桜並木に「面影橋」という橋が架かっており
この面影橋に「山吹の里」という石碑があります。
ある日、鷹狩に出かけた若き道灌が、
にわか雨に遭遇し、村のあばら家で蓑を借りようとしました。
しかし家から出てきた少女は無言のまま、
山吹の一枝を道灌に差し出します。
その意味が分からない道灌は怒って
その場を立ち去りましたが
あとで家臣から
七重八重 花は咲けども山吹の
実の一つだになきぞ悲しき
という後拾遺集の歌に寄せて、少女が
蓑のひとつさえ持てないかなしさを
山吹の枝に託したのだと聞かされます。
自分の無学を恥じた道灌は
それ以降歌道に精進したといわれています。
6月 5日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「江戸城での茶会」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸城で行われた茶会について
ご紹介します。
元和六年(1620)
江戸城で秀忠の茶会に諸事承る
将軍秀忠が行った茶会についての
遠州公の自筆記録が残っています。
年号が記されておらず、明確ではありませんが
遠州公四十三歳の頃には既に将軍秀忠の茶会に
たずさわっていたと考えられ、
織部が亡くなった翌年から元和四年(1618)
の間三十八歳から四十歳の間に
秀忠の将軍茶道指南役になったと思われます。
また元和九年(1623)から寛永九年(1632)の約十年
遠州公四十五歳から五十四歳の頃は
伏見奉行、大坂城や仙洞御所の作事奉行を
兼務し同時に、茶の湯においても
大御所となった秀忠・将軍となった家光の
双方の指南役として活躍し、多忙な日々を送っていた時期でした。
5月 29日(金)遠州公所縁の地を巡って
小室の領地へ
ご機嫌よろしゅうございます。
元和五年(1619)遠州公四十一歳の時
備中国から、近江国に転封となります。
この近江は遠州公の生まれ故郷であり、
浅井郡の小室の地が領地となります。
これから小堀家は七代宗友公まで、
代々小室藩主となります。
遠州公はこの小室の屋敷内に「転合庵」と「養保庵」
という茶屋を設けましたが、多忙な遠州公は
ここにはほとんど住まわず、二つの茶屋も
小室に帰国した際に楽しむために作られた
ようです。
二代宗慶公の時代に陣屋が建設されました。
小室藩の陣屋は、藩主が住まう館と、
それを囲むように家老や家臣団の屋敷が配置され、
藩の政治機構が整えられました。
二代目以降もほとんどこの小室の陣屋に藩主は
おらず、小室藩の実際の治世は家臣達が担っていました。
現在、かつて小室藩の陣屋が置かれていた付近には、
小室藩が祀ったとされる山王社(現日吉神社)や
稲荷社や弥勒堂などの祠堂、家老の和田宇仲の屋敷に
湧き出ていた泉から引かれているという宇仲池など
のみが残っています。
5月22日(金) 遠州公所縁の地を巡って
女御御殿
ご機嫌よろしゅうございます。
元和四年(1618)遠州公40歳の折
秀忠の末娘・和子の入内が決まり、遠州公は
その女御御殿の作事奉行となります。
この作事は、何人かの奉行の内の一人として
一部分を割り当てられたのではなく、
最も格式の高い常御殿や居住所などの重要部分を
担当しており、遠州公の作事の技量が高く評価
されての任命といえます。
元和六年(1620)に和子は入内し、
後水尾天皇の女御となります。
寛永四年(1627)には、幕府の政策に耐えかねた
後水尾天皇が三十二歳で譲位を決意、寛永六年には
譲位されます。
遠州公は天皇の譲位後の住まいとなる仙洞御所の作事と
天皇譲位後東福門院となった和子の女院御所も
奉行しています。
またこの御所は建物が寛永七年に完成した後も
庭は未完成で、この作庭に遠州公が任命され、
寛永十年から十三年まで三年を費やしました。
この時期遠州公は二条城の二の丸作事、水口城
伊庭の御茶屋など、毎月作事奉行を仰せつかり
四ヶ所も兼務するなど、多忙をきわめます