「姥捨(うばすて)」

2016-9-23 UP

9月23日(金)能と茶の湯
「姥捨(うばすて)」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は、先週ご紹介しました謡曲「姥捨」
にちなんだ銘の茶碗をご紹介します。

「姥捨」は姥捨伝説を題材にされていますが、
その悲劇を主としているというよりも、
月光の下で舞う老女の遊舞、人の世界を脱し
浄化された美の世界を表しています。

黒楽茶碗「姥捨黒」左入作
楽家六代の左入が四十八歳の時に赤黒二百碗
連作したうちの一つで、穏やかな作風の黒楽です。

赤楽「姥捨」九代了入作
柔らかな趣の赤茶碗で、赤黒200碗の連作「了入二百」
の一碗です。

また本阿弥光悦の黒楽にも「姥捨」の銘を持つ
茶碗があります。

老婆の魂を浄化する姥捨山にかかる名月の清らかな光
「姥捨」という銘は、そんな情景を連想させます。

8月19日(金) 能と茶の湯

2016-8-19 UP

8月19日(金) 能と茶の湯
「俊寛」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は、先週ご紹介しました能「俊寛」から
銘のついた茶碗をご紹介します。
黒楽「俊寛」は楽焼の初代、長次郎作の名碗です。
利休が薩摩在住の門人の所望により
長次郎の茶碗を三碗送ったところ、
この茶碗を除く二碗が送り返され、
一つ残されたことからこの銘が付けられたということで す。

箱裏にはこの伝えを踏まえた仙叟宗室の狂歌が、
また、この碗の箱蓋表のほぼ中央に利休筆
と伝えられる「俊寛」と書かれた紙が張られています。
遠州流では楽茶碗を使用しませんが、この俊寛は、先代
紅心宗匠も、当代宗実家元も長次郎作品の中で
一番好きな茶碗であるとおっしゃっています。
現在重要文化財に指定され、三井記念美術館が
所蔵しています。
ちなみに俊寛は願いむなしく三十七歳の若さで
島で亡くなります。現在でもお盆には俊寛を
弔う「俊寛の送り火」が焚かれています。

8月12日(金) 能と茶の湯

2016-8-12 UP

8月12日(金) 能と茶の湯
「俊寛(しゅんかん)」

ご機嫌よろしゅうございます。

明日から旧歴のお盆の入りにあたります。
お盆の送り火で有名な大文字山の麓に鹿ケ谷があります。
この地にあった僧俊寛 の山荘で、後白河法皇の近臣により
平氏討伐の謀議が行われました。
今日はこの事件をえがいた「平家物語」の「足摺」の段
を題材にした能「俊寛」をご紹介します。

時は平家全盛の平安末期
平家打倒の陰謀を企てた罪科により、
俊寛は藤原成経、平康頼とともに、薩摩潟
(鹿児島県南方海上)の鬼界島に流されていました。
都では、平清盛の娘で高倉天皇の中宮となった
徳子の安産祈願のため大赦が行われ、鬼界が島の流人も
一部赦されることとなりました。
成経と康頼は、島内を熊野三社に見立てて祈りを
捧げて巡っていました。ある日、島巡りから戻るふたりを
出迎えた俊寛は、谷川の水を菊の酒と見立てて酌み交わします。
ちょうどそこに都の遣いが到着、恩赦の記された
書状を渡します。しかし成経が読み上げるとそこには、
俊寛の名前だけがなかったのです。

驚き嘆く俊寛
舟にすがりついて自分も乗せてほしいと
頼む俊寛を独り残し、舟は都へと戻っていくのでした。

8月8日(月)黒田正玄(くろだしょうげん)

2016-8-8 UP

8月8日(月)黒田正玄(くろだしょうげん)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は遠州公の時代に柄杓師として活躍した
黒田正玄をご紹介します。
正玄は天正6年(1578)越前黒田の武家に
生まれます。主家が関ヶ原の合戦で西軍に与し、
一時改易となったことで黒田も二十三歳で剃髪、
「正玄」と称し、近江大津に移り住み竹細工を生業と
するようになりました。

秀吉に柄杓作り天下一の称号を許された一阿弥に
柄杓作りを学び、また遠州公に茶を学びました。
寒暑雨雪を厭わず遠州公の伏見屋敷に毎日通い
稽古を重ねたので、その熱心さから「日参正玄」
と呼ばれました。
その熱意に遠州公も応え正玄に残らず伝授した
と伝えられています。
江月宗玩に参禅し、江月や千宗旦の柄杓も作りました。
その後二代から八代までは将軍家御用柄杓師として、
三代から千家御用となり、現在まで続いています。

(1653)8月8日享年七十六歳で亡くなります。

7月29日(金)能と茶の湯

2016-7-29 UP

7月29日(金)

能と茶の湯 「兼平」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は先週ご紹介しました香木「柴舟」 の銘の由来となりました謡曲

「兼平」の物語をご紹介します。 木曽に住む僧が、木曽義仲を弔うため、

近江国・粟津の原に向かいます。

琵琶湖の畔の矢橋浦に着くと、 柴を積んだ一艘の舟が通り過ぎ 世の業の、

憂きを身に積む柴船や、  焚かぬ前よりこがる覧 と歌われます。

この柴舟に乗せてもらい、僧は粟津を目指します。 船頭は僧に舟上で、このあたりの名所を教えます。

都の鬼門を守る比叡山の延暦寺、その来歴を きくうちにやがて粟津に到着します。

この粟津原は、木曽殿と今井四郎兼平の終焉の地。 懇ろに弔い野宿をしていた僧の前に、

甲冑を帯した兼平の霊が現れます。

先程僧を導いた船頭は自分であると明かし、 主君である木曽義仲の最期と、それを見届け、

壮絶な自害を遂げた自身兼平の様子を詳しく 物語るのでした。

尚、柴舟の香は 世の業の浮きを身につむ柴舟は 焚かぬさきよりこがれこそすれ の和歌からとられたというのが通説となっています。

6月27日(月)久保権大輔

2016-6-27 UP

6月27日(月)久保権大輔

ご機嫌よろしゅうございます。 明日6月28日は久保権大輔の命日にあたります。 久保権大輔は奈良春日社の神官の家に生まれます。 「長闇堂」とも呼ばれ、侘茶人としても知られています。そして遠州公とも深い親交がありました。 身分も低く貧しい権太夫が、名物道具を拝見するには どうしたらよいかと遠州公に相談したところ、袋師になることを勧められたという話が残っています。 袋を作るには実際に道具が手元になくては作れません。袋を作る間だけ、様々な道具が手元におけるというわけです。 息子の杢(もく)もその後を継いでいます。 また権太夫が方丈の庵を作り遠州公に 額を頼みました。 それが「長闇堂」 この名は遠州公が鴨長明にちなみ、「長明は物知りで明晰であったがあなたは物を知らず”智にも暗いので ”闇”だ」 というわけで長闇堂と名付けたと言われています。 寛永十七年(1640)六月二十七日亡くなります。遠州公は死を悼み、自ら筆をとり 文に歌を書き付けています。

春の日の光をあふぐ法の舟 ちかひのうみは 浪かぜもなし

12月 14日(月)王服茶

2015-12-14 UP

12月 14日(月)王服茶
ご機嫌よろしゅうございます。

12月13日は事始め
いよいよ新しい年を迎える準備を
始める時期となりました。
かつて京都の空也堂では、
事始めから大晦日まで、
僧が手製の茶筅を売り歩く風習がありました。

この茶筅でお茶を点てると無病息災の
御利益があるといわれ、お正月に頂くのが
慣わしでした。

村上天皇の時代、都に疫病が流行しました。
空也上人は観音菩薩に疫病調伏を祈願し、
茶筅で点てた茶を供えて民衆に分け与えました。
この空也上人については11月16日にご紹介しました。
茶を服した者はたちまち平癒したといいます。
これを知った天皇が、正月三ヶ日に茶を
召し上がるようになったそうです。
その風習は「王服茶」と呼ばれ、
この故事に因み、空也堂の僧侶は師走になると、
正月の王服茶を点てるための茶筅を売り歩いたのでした。

11月27日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-11-27 UP

11月27日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」(3)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は道の記下りの一日目
寛永十九年十月八日の日記の一部を
ご紹介します。

「神無月初の八日武府(ぶふ)に赴く為」

洛北の傍より餞別の志を一偈して 消息そへて給ふ
おほやけのことしげきに ひらきもえせで
その日もくれ竹の 伏見のさとを
まだき朝に立て関山をこえて うち出の里に着」

公務が忙しく、出発の前日に江月和尚からいただいた
手紙を読む暇もなく一日すぎてしまった。

「道の記」はこの一文から始まります。
このなかの「ことしげきに…くれ竹の…」
という一節からは、遠州蔵帳所載
遠州公自詠歌銘のついた茶杓

ことしげき 年は一夜に くれ竹の
伏見の里の 春のあけぼの

の歌が思い浮かびます。

11月 16日(月)空也と茶筅

2015-11-16 UP

11月 16日(月)空也と茶筅

ご機嫌よろしゅうございます。

三日前の11月13日は空也忌でした。
空也上人は平安時代、諸国を遍歴して踊りながら
念仏を唱えることで庶民に念仏を勧めました。
「寺を出る日を命日とせよ」と遺言したため、
寺を出たこの日が命日になっています。

さてこの空也上人は、当時流行した疫病を
退散させるおまじないとして柳の木を削り
削り花をつくりました。
これが茶筅の原型と言われています。
そして京都の空也堂の僧が、
青竹茶筅を作り、竹の竿にその茶筅を
藁にさしたものをつけて肩に担いで売り歩く
「茶筅売り」という年末の風物がありました。
この茶筅で正月にお茶を点てていただくのが
「大福茶」とよばれるもので、無病息災の
御利益があるといわれました。
この大福茶についてはまた来月ご紹介します。

11月 13日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-11-13 UP

11月 13日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記(1) 下り」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は遠州公の旅日記「道の記 下り」をご紹介
します。
将軍の特別なお召しがあって、
寛永十九年(1642)京都から江戸に向か
います。この際遠州公は旅日記を綴っています。

六月にご紹介しました上りの日記から
二十一年の歳月が流れています。
五十歳位が寿命であった当時にあって
六十四歳という高齢での長旅はさぞかし
体に応えたであろうかと思われます。
更に「上り」では十三日かけて旅した道のり
をこの「下り」では十日で進む急ぎの旅でした。

文中には「上り」同様、和歌や狂歌など交えて
その日通過した場所について、想いとともに
したためていますが、その所々に「伊勢物語」
や「土佐日記」の影響が感じられます。