遠州公ゆかりの茶陶
2018-4-30 UP
2018-4-30 UP
2018-4-27 UP
陶工・尊楷
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は上野焼の開祖・尊楷についてご紹介します。
三斉に従い豊前小倉入りした尊楷は、
移住した地の名をとって上野喜蔵高国と改名し、
十五石五人扶持を拝領します。
後に細川家の移封に従い、長男と三男を伴って
肥後八代に移って高田焼を創始しました。
この時、子の十時孫左衛門と娘婿の渡久左衛門を残し、
上野焼を後継させます。
尊楷は、慕っていた忠興が亡くなると自らも
扶持を返上して出家し宗清と名乗り、
承応3年(1654)年、89歳で生涯を閉じました。
熊本県八代市の上野喜蔵の墓が今も残っています。
当時の高僧である清巌宗渭の箱書きを残す
喜蔵作の貴重な八代茶碗・銘「ねざめ」が出光美術館に
所蔵されています。
史料的に喜蔵作と確定できるのはこの茶碗のみと言われています・
2018-4-26 UP
上野焼のいま
ご機嫌よろしゅうございます。
細川家から小笠原家へと藩主が変わって以後も
上野焼は藩窯として幕末まで庇護されていきました。
江戸の後期には楽焼の手法を学び、
また現在の上野の代名詞となっている銅を含んだ緑青や、
三彩紫などの装飾性も高まり、作品を特徴づけました。
しかし明治維新後の廃藩置県により
御用窯としての使命を終え、上野焼は一時途絶えます。
明治35年に再興して以後も、苦しい時代が続きますが、
行政の支援を受けつつ上野焼に挑む陶芸家が次第に増え、
現在では二十軒を超える窯元が点在しています。
上野焼の食器類は、古来から毒を消し
中風になりにくくなると言われてきました。
また、酒の風味を良くし、飲食物の腐敗を
防ぐとも言い伝えられています。
2018-4-25 UP
上野焼の特徴と遠州好
ご機嫌よろしゅうございます。
細川忠興は千利休の弟子の中でも「侘茶」
の忠実な継承者でした。
その流れを受けて焼き締め調の施釉や
直線的な造形にみられる道具の選び方にも
遊びを最小限度におさえた武人としての
「侘茶」がうかがえます。
また同時期にお茶堂として招かれた千道安の
指導も考えられます。尊楷の作は素朴で重厚であり、
朝鮮唐津や斑唐津、古高取に似ています。
そしてその野趣溢れる大胆な作風が時の流れとともに
釉の変遷を重ねていき、次第に豊かな装飾の美しさを
加えていきます。
遠州が指導した記録はありませんが、
古来より遠州好みの窯の一つとして数えられています。
小笠原家に代々伝わる道具には土見せの瀟洒な瓢箪茶入が伝わり、
他にも権十郎蓬露の「あがのやき 瓢箪」と箱書きのつく
茶入などがつたわって「綺麗さび」の好みの影響がうかがえます。
2017-9-1 UP
ご機嫌よろしゅうございます。これまで波の文様を
幾つかご紹介してきました。
今日は「青海波」のお話をしたいと思います。
「青海波」は同心円を幾重にも重ねた波文で、
ペルシャ・ササン朝様式の文様が中国を経由して
伝播したといわれています。
唐楽から伝わった雅楽の舞曲「青海波」で舞人が、
この形の染文の衣装をつけて舞うのが
名前の由来と言われています。
元禄の時代に勘七という漆工がこの波形を刷毛で
描くのを得意とし、大いに流行したため世間で
彼を青海勘七と呼びました。
名物裂では本能寺所伝とされる本能寺緞子や三雲屋緞子
織部緞子などがあります。
本能寺緞子は二重の青海波に捻り唐花と8種の宝尽しの図柄で
大名物油屋肩衝の仕覆として
三雲屋緞子はその色替りとされる裂で中興名物の「染川」や
「秋の夜」の仕覆に。また織部緞子とも呼ばれる
青海波梅花文緞子は大名物の松屋肩衝にそっています。
2017-5-19 UP
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は醒睡笑のお話をご紹介します。
「茶は眠りを覚ます釣り針である」という。
また「茶は食べたものを消化させる」ともいう。
吾門にめさまし草のあるなへに
こひしき人は夢にだに見ず
自分の家には「目さまし草」があるから眠れず、
恋しい人を夢にさえ見ない。などと言って、
人々がほめそやしながら茶を飲んでいた。
その末席に百姓がいて、「それなら、私たち百姓は、
一生茶を断ち申しましょう。一日中頑張っても、
その夜じっくり眠ればその心労も忘れます。
また、食べるのに事欠くことさへあるのに、
すぐ消化してしまうのではなんの役にたつのでしょう。
ああ いやな茶ですよ」と頭を横にふった。
そこで「憂喜依人(好き嫌いも人の境遇による)」という題で、
ますらをが小田かえすとて待雨を
大宮人やはなにといはん
農夫が田を鋤きかえして心配して待つ雨を、
大宮人は花が散るので嫌うだろう。と詠んだ。
何となく人にことはをかけ茶わん
をしぬぐひつつ茶をものませよ
花をのみまつらん人に山さとの
雪間の草の春をみせばや
千利休は「侘び」の本意として、この歌を常に吟じ、
心にかける友に対しては、いつも心してお忘れにならなかった。
契りありやしらぬ深山のふしくぬ木
友となりぬる閨のうづみ火
これは牡丹花肖柏の歌で、古田織部は冬の夜の物寂しいときに
この歌を好んで吟じられた。
2017-4-28 UP
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は船をご紹介しましたので、本日は橋を
ご紹介します。
さむしろに 衣かたしき
今宵もや我をまつらむ宇治の橋姫
この歌を歌銘とした瀬戸真中古窯「橋姫」があります。
遠州公がこの茶入を宇治で見つけ、その成り姿を讃え
この銘をつけたとされています。
この「宇治の橋姫」とは橋の守り神であり女神で
もとは宇治橋の三の間とよばれる欄干に橋姫社が
祀られていましたが、度重なる洪水により現在の
宇治橋西詰に移りました。
ちなみにこの三の間から汲み上げられた水は天下の
名水とされ、秀吉は橋守の通円にこの水を汲ませ茶の湯に
使ったと言われています。(この通円は昨年ご紹介した
狂言「通円」につながります。)
同じく「橋姫」との銘をもつ志野の茶碗が、
東京国立博物館に所蔵されています。
橋の欄干部分が二重線で描かれ、両端に擬宝珠、橋脚が二本
非常にシンプルな絵付けの茶碗です。
この志野や織部とほぼ同時期に流行した画題に「柳橋水車図」
があります。
大きな橋、柳と水車、蛇籠
このデザインは宇治橋の風景を描いており、各派によって
描かれましたが、なかでも長谷川等伯を筆頭とする画師集団
の長谷川派の得意とする画題となります。
茶道具でこの意匠を用いた有名なものに野々村仁清作
「色絵柳橋図水指」(湯木美術館蔵)があります。
2017-4-10 UP
ましわりの昔もいまもかはらぬは
み屋ひこころのあへるなりけり
この歌は有栖川熾仁親王の歌です。
遠州公が桂宮智仁親王より拝領した茶入に添えられています。
この茶入の披露のために京都伏見の六地蔵に建てた茶室
「転合庵」が東京国立博物館にあり、茶入も所蔵されています。
4月11日より東京国立博物館ではじまる
「茶の湯」美術展
昭和55年(1980)に名家秘蔵の茶道具をとりあげた
初めての展覧会から、実に37年ぶりの開催となります。
遠州流茶道でも4月28日(金)11時から15時の間
お呈茶席を担当致します。
茶の湯道具の数々の名品をご覧になった後ゆったりと
お茶を一服召し上がって下さい。
2016-12-9 UP
12月 9日(金)能と茶の湯「岩橋」ご機嫌よろしゅうございます。利休作竹一重切花入「岩橋」をご紹介します。竹が侘びた錆味を見せ、裾に未完成とも思える鉋目(かんなめ)があることから遠州公が、明けぬ間をたのむ一夜の契だに尚かけわぶる久米の岩橋の古歌より引用し命銘されました。「久米の岩橋」は能に登場しました伝説上の石橋で、役行者が大和国葛城山の一言主に葛城山から吉野金峰山に架設を命じますが、一言主は己の醜い要望を恥じ、夜だけしか働かなかったため工事は完成しませんでした。この伝説になぞらえて遠州公が命銘されています。
2016-11-14 UP
11月 14日(月)石臼
ご機嫌よろしゅうございます。
茶の湯の世界では、11月は炉開きに口切と続き
お正月にあたるおめでたい月にあたります。
炉開きと口切りについては昨年のメルマガで
ご紹介しましたので、そちらもご参照下さい。
口切で取り出した新しい茶葉は石臼で
挽いていきます。
彦根藩主であった井伊直弼が
「茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)」
において、
「茶を挽くは大事也
挽きもあらくては如何ほどの名器を出し
飾りても、実意あらず」
と書いているように、石臼は茶の味を左右する
大変重要な道具です。
にもかかわらず、石臼についての形や機能
などの資料はあまり残っていないそうで、
なぜ左回しなのか、それ自体についても研究は
あまりなされていないそうです。