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本日は、「一休さん」という愛称で有名な一休宗純の命日です。
≪人物:一休宗純≫
侘び茶の祖・村田珠光の師とされ、また破格奔放で知られた一休は、茶人の間で大変尊敬されています。
現在、「一休寺」の愛称で知られている酬恩庵ですが、もとは南浦紹明が創建したあと荒廃したままであったのを、一休が宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩に報いるという意味で「酬恩庵」と命名しました。
一休は応永元年(1394)に生まれ、それまでの戒律に縛られない風狂な生き方で天皇や民衆から愛され、晩年を酬恩庵で過ごし、文明13年(1481) 88歳で没しました。
出自は後小松天皇の御落胤とされており、現在、酬恩庵に置かれる一休の墓は宮内庁の管轄となっているため一般の立ち入りは禁止されています。
遠州の茶会にも、一休の墨蹟は茶会で度々掛けられており、そこに尊敬の念が見て取れます。
そして、酬恩庵の境内に黙々寺を建立し、晩年を過ごしたのが、遠州の親友であった佐川田喜六でありました。
豪胆な武人として知られ、関ヶ原の戦のあとには、石田方でありながらも徳川家康の重臣・永井直勝に招かれ、家臣に加えられました。
遠州と同い年で、遠州に茶の湯を学んだ佐川田喜六は風流人としても知られており、共通の友人である松花堂昭乗と共に交流を深めました。
佐川田喜六は寛永20年(1643) 8月3日に、黙々寺で没します。
酬恩庵を起点にすることによって、様々な繋がりを見て取ることができます。
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本日は遠州のあとに、将軍家茶道指南役となった片桐石州の命日です。
≪人物:片桐石州≫
片桐石州は慶長10年(1605)に大和小泉藩の初代藩主・片桐貞降の長男として生まれました。
賤ヶ岳の七本槍の1人である片桐且元の甥にあたります。
遠州より27歳年下で、関ヶ原の戦からも5年経ってからの誕生であり、当時の著名な茶人たちとは、一回り下の世代に属していました。
石州は千利休の実子である千道安の茶の流れを汲んでおり、道安の弟子である桑山宗仙に学んだと言われております。
やがて遠州の後、将軍家茶道指南役になる人物ですが、茶系としては千家の茶の流れであり、大名茶でありながらも、楽の茶碗を使用するなど、その特徴を随所にみることができます。
遠州の茶会には3回招かれており、他にも金森宗和や松花堂昭乗など、多くの茶人と交わりました。
寛文5年(1665)には、4代将軍徳川家綱の所望によって点前を披露し、その後、茶道指南役となり名を馳せます。
やがて石州を流祖として石州流が生まれ、江戸後期に『雲州蔵帳』を編纂した松平不昧や、大老であった井伊直弼がその流れとして知られております。
延宝元年(1673) 11月20日、69年の生涯を閉じました。
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本日は戸川宗積先生の御命日です。
≪命日:宗積先生≫
昭和24年9月5日、先代・紅心宗匠は4年間のシベリア抑留から解放、帰国されました。
その半年後、昭和25年3月19日に、音羽護国寺にて「宗慶」襲名披露の大茶会が開催されました。
そして茶会が終わり、夜の祝膳の時、紅心宗匠の御実弟・宗積先生はご両親、ご姉弟にこのように誓われました。
「己が命ある限り、遠州流茶道発展向上の為に全力を尽くします」
以来、宗積先生は、自己を律した厳しい御姿、分け隔てなく懇切丁寧にご教授される御姿で大勢の方から愛され、紅心宗匠の最も信頼する「宗家事務局長」としてご活躍されました。
慶應大学経済学部をご卒業され、その後就職されましたが、紅心宗匠の復員が遅れ、又、生死も不明であったことから、茶道の世界に身を置き、遠州流茶道の組織造りのために力を入れることとなりました。
その身を砕くほどの働きによって、シベリアからお帰りになった紅心宗匠の眼前には、既に「茶道遠州会(現・遠州茶道連盟)」の下地が出来上がっておりました。
今では51支部を数えるほどになった遠州流茶道の発展は、宗積先生の御尽力があったからこそだと言えます。
紅心宗匠は、宗積先生を追悼する文の中で、歌を詠まれています。
「道守り 其の身心を空となし
力つくして 今日ぞ散りゆく」
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本日も引き続き、京都では光悦会茶会が催されています。
この名も、有名な本阿弥光悦から取られたものであり、彼も遠州にとって近しい人物でありました。
≪人物:本阿弥光悦≫
寛永14年(1637) 2月3日、本阿弥光悦は80歳で没しました。
その訃報を受けた遠州は、お悔やみの書状を書き、光悦の養嗣子の光瑳に宛てて送りました。
遠州と光悦の関係の中で、最もよく知られている事柄は「膳所光悦」の茶碗誕生の一件です。
寛永13年(1636) 5月21日に、品川林中の御茶屋に将軍家光をお迎えして献茶された際に、その控えの茶碗として用いられたのが、光悦に依頼して作製された、膳所光悦の茶碗でありました。
この大事なお茶会に遠州が光悦を選んだことは、当時光悦を最も優れた芸術家として、またその人間性をも含めて尊敬していたからに他ならないと言えます。
また光悦自身も、遠州が指導した膳所窯の性質を認めたことからこの茶碗が完成しました。
したがって、遠州と光悦の、心と心の通いあいの結晶が、膳所光悦の茶碗となったといえます。
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本日は京都大徳寺で江雲会茶会が催されています。
このお茶会の名に冠されている江雲宗龍についてお話いたします。
≪人物:江雲宗龍≫
江雲宗龍は、小堀家系譜によると、遠州の兄・池田七左衛門の子で、遠州の甥にあたる人物とされます。
小堀家の菩提寺である孤篷庵の開山・江月宗玩和尚に参じて法嗣となり、第一世としてそこに住しました。
当時の文化人と親しく交わり、特に千宗旦が息子である仙叟千室を前田家へ仕官するために江雲を通じて、遠州の弟・佐馬助正春に働きかけた事も『元伯宗旦文書』に残っており、重要な役割を担いました。
孤篷庵が完成してから5年後、江雲は大徳寺百八十四世となり、延宝7年(1679) 6月17日78歳で入寂し、円慧(えんね)霊通禅師の号を勅諭されました。
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11月4日は小堀宗吟先生の祥月命日です。
宗吟先生は先代紅心宗匠の母、当代宗実御家元の祖母にあたる方で、長年遠州流茶道の発展にご尽力されました。
《人物:小堀宗吟》
11代其心庵宗明宗匠の妻である宗吟先生は、戦前から数多くの出張稽古をされ、戦時中においてはモンペ姿でも全国をまわるなど、亡くなるその日まで遠州流茶道全体の育成に努められました。
また先代紅心宗匠、またその御兄弟の目には、大変厳しい母親として映ることもありましたが、何事も最後までやり遂げ、人を激励し続ける姿は「勤勉努力、実践垂範」の人として尊崇されました。
昭和44年、宗吟先生と紅心宗匠は広島の全国大会へご出張の際、宮島の旅館で紅葉を眺められました。
それが二人でご一緒された最後の風景となり、その後、亡き母を偲び、と紅心宗匠は歌を詠まれています。
「想いでは 唯ほほえみの母の顔 紅葉に映えて 美しく見ゆ」
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本日は加賀百万石を築いた前田利常公についてお話いたします。
≪人物エピソード4:前田利常≫
前田利常は遠州の14歳年下で、文禄2年(1593)11月25日に前田利家の四男として生まれた。
9歳で兄・利長の世嗣となり、徳川秀忠の二女珠姫を正室として迎えている。
そして兄が引退したため、13歳で家督を継ぎ、119万石を領した。
先日のメルマガでもお送りした通り、利常は茶の湯を大変好み、遠州とも懇意であった。
そのため遠州は道具の目利をしたり、墨蹟を表装したり様々な面で利常からの厚い信頼を得ていた。
また、利常の嫡男である光高も遠州に茶を習い、茶会にも参会している。
何よりも挙げておきたいのが、遠州、利常、千仙叟の関係である。
裏千家を興した仙叟は、千宗旦の四男として1622年に生まれた。
仙叟は加賀藩前田家に召し抱えられるのだが、その斡旋をした人物が、前田家の茶頭として仕えていた遠州の弟・佐馬助正春であった。
長いこと仕える先を探し続けていた仙叟であったが、31歳にしてようやく大藩に就職ができ、76歳の宗旦はそれを大変喜び、小堀佐馬助にも礼状を出したという。
これらのエピソードは『元伯宗旦文書』の中に記録され、裏千家創世と、また裏千家と遠州流とを繋ぐ重要な資料として今でも残っている。
本日10月12日は前田利常の命日である。
享年66であった。
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本日10月5日は達磨忌です。
達磨忌とは、達磨大師を偲ぶ日であります。
さらに遠州流にとってはもう一人、重要な人物の死を悼む日でもあります。
寛永7年10月5日は藤堂高虎の命日です。
藤堂高虎は、遠州の正室の父、つまり義理の父親です。
ただ、それよりも前、遠州の父・新介正次の頃から関係は深くありました。
正次も、高虎も似たような生涯を送っており、特にターニングポイントが重なっていることは、二人を結びつける重要な出来事でした。
もとは、両者とも磯野員昌に仕えており、その後、豊臣秀長の家臣となります。
秀長が没すると、嗣子秀保に仕え、秀保も没すると秀吉に仕えます。
そして秀吉が亡くなると、今度は家康の下へ。
関ヶ原の戦後、その活躍により、新介正次は備中国松山城を預かり、高虎は伊予国今治城主を預かり、大名となりました。
高虎は武将としての名も高く、慶長の役では朝鮮水軍を破る武勲も持ちます。
また、秀保が没した際に、一度出家し、高野山に入りましたが、秀吉の招きにより、還俗した過去もあります(ちなみに正次は二度還俗)。
高虎も正次も、次なる世には茶の湯が重要な位置を占めることを感知していました。
それは織部との交遊や、松屋会記、特に高虎は『藤堂伊賀』という独自の陶器を作成するなど、様々な面から見て取れます。
また、小堀遠州という人物がこの世に誕生したことは、この二人の戦国時代を走り抜けた鋭い先見の眼が無ければ成しえなかったことです。
晩年は失明したようですが、生涯茶の湯を愛好し、自会を催したり、家康・秀忠の茶会に参会したりしました。
また、徳川幕府と公家の仲を取り持った人物でもあり、寛永2年9月22日の遠州の茶会には、近衛応山、藤堂高虎、三宅亡羊の三者が揃っており、茶の湯により、心を通い合わせていたようです。
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本日から神無月。
全国の神様が出雲へ集合する月です。
そのため、出雲だけは神有月と言われることはよく知られていることです。
遡ること370年、寛永20年(1643)10月1日は、江月宗玩が没した日でもあります。
江月宗玩は遠州より5歳年上で、天正2年(1574)に堺の豪商天王寺屋津田宗及の子として生まれ、春屋禅師のもとで頭角を表し、黒田長政の請に応じて大徳寺に龍光院を創設しました。
茶は遠州に学び、松花堂昭乗とは昵懇の間柄で、この両者との茶の湯の交渉はとても深いものでありました。
遠州との関わりで特筆すべきはやはり孤篷庵創建のことです。
現在の孤篷庵とは規模も性格も異なる最初の孤篷庵は、慶長17年(1612)、遠州34歳の秋に建てられました。
江月が遠州に建てるように勧め、黒田長政が援助をし、広大な龍光院の一角がその敷地となりました。
ちなみに黒田長政は遠州の11歳年上で、筑前福岡に52万石もの領地をもつ大名であり、弟子である速水頓斎を茶頭として黒田家に送るなど、茶の湯を通して深い関わりがありました。
遠州の生涯に大きな影響を与えたこの二人を結びつけたのが、春屋宗園禅師でした。
おそらく春屋禅師が、再三にわたり、遠州にも江月にも、また長政にも孤篷庵建立について話していたのではないだろうか、と推測できます。
慶長16年に春屋禅師は入寂します。
そして、その意志を実現すべく、三人は協力し、完成に至ることとなったのです。
孤篷庵の開山となった江月が住した龍光院には、曜変天目、鶴首茶入、丸壺茶入など、多くの名宝も伝来しております。
江月宗玩の茶の湯に対する愛好の深さが見て取れます。