8月17日 秀吉の黄金お茶室
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は官兵衛の時代のお話を。
秀吉といえば黄金の茶室が有名です。
天正十四年、禁中に黄金の茶室を持ち込み、
茶会が行われました。
天井から壁、茶道具に至るまで金色で
埋め尽くされた三畳敷きの茶室。
豪華絢爛の趣向、侘びとは真逆に感じますが
これは決して成金趣味というようなものではなく、
天皇陛下にお茶を差し上げるための相応な設えだった
と捉えるほうが正しいようです。
天皇陛下にお使いいただくお茶道具が
既に人の触れたものであってはならないので
使用するものは全て新品。
そして、不可侵的存在である天皇陛下を茶の湯でもてなす
禁中で茶会が催されたということは
天皇陛下をもてなすのに「茶の湯」が選ばれたということであり
茶人にとってはこの上もない誉れでありました。
8月12日「徹底解剖 茶道テディベア②」
ご機嫌よろしゅうございます。
第②回は、シュタイフ社がどのようなところかをご紹介したいと思います。
創業者のマルガレーテは、車椅子のハンディキャップを乗り越え、シュタイフ社の前身となる会社を創立しました。
1903年シュタイフ社は、ライプチッヒの見本市にクマのぬいぐるみを出展したことがきっかけで、アメリカのバイヤーの目に留まります。そのベアが、ルーズベルト大統領の晩餐会のテーブルディスプレイに使われ、テオドア・ルーズベルト大統領のニックネームにちなんで「テディベア」と呼ばれ大ブームを起こしたのです。
マルガレーテは、障害を持つ人に仕事を与え、子どものいる人には会社に連れてくることを認めるなど、19世紀では珍しい開かれた会社を作りました。
1909年、彼女は天国へと旅立ちますが、その後も現在に至るまで、「うれしい時も、寂しい時も、ぬいぐるみは子供のハートの一番近くにある大切なもの。だからこそ、最良のものを与えてあげたい。」というマルガレーテの精神は引き継がれ、今も最高のテディベアを産み出し続けています。
8月4日 権十郎篷雪命日
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は権十郎篷雪の命日です。
寛永二年(1625)遠州公の次男として生まれ、
後に小堀を改めて小堀家と所縁の深い浅井姓を称し、
権十郎篷雪と称しました。
兄の大膳宗慶とは5歳離れた弟になります。
正保四年(1647)遠州公が没すると、
父の遺領のうち近江国浅井郡の千石を分地されました。
茶会でもよく名を目にする通り、
道具の目利きに優れていたので、その鑑定眼にかなった
道具の箱書が多く伝来しています。
元禄七年(1694)8月4日江戸でなくなります。
70歳でした。
8月3日 明智光秀(あけちみつひで)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜となりましたので
官兵衛の時代のお話しを。
主君信長に反逆する裏切り者としての
一面が目立つ光秀ですが、文武両道で
和歌・茶道の嗜みも深い文化人でした。
天正十年(1582)
6月に本能寺の変の起こる年ですが、
この年の正月7日の朝、
光秀は山上宗二と津田宗及を招き、
茶会を開いています。
床の間には信長直筆の掛物
通常床の間に掛ける掛物は墨跡や唐絵、古歌など
を掛けることが一般的でした。
主君の筆による掛物を飾り、恩恵に感謝していた
ように感じられます。
この数ヶ月後、その主君を討つことになるとは
当時の光秀は思いもよらなかったのではないでしょうか。
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7月 13日 お盆
ご機嫌よろしゅうございます。
東京では今日がお盆の迎え火です。
お盆には先祖の霊があの世から家族の元に帰ってきて、
再びあの世に帰っていく、という日本古来の祖霊信仰と
仏教が結びついた行事です。
正式には盂蘭盆会(うらぼんえ)といい
盂蘭盆とは、「逆さまに吊るされたような苦しみ」
という意味の仏教用語です。
この苦しみから先祖の霊を救うため
供物を備え、供養します。
日本では推古天皇十四年(606年)には
既に盂蘭盆を行ったという記録があります。
お盆の期間は地域によってさまざまですが
東京では7月13日から7月16日、
その他の地方では8月13日から8月16日に行われる
ことが多いようです。
6月 24日 宗中公命日
ご機嫌よろしゅうございます。
今日6月24日は小堀家8世 小堀宗中公の命日です。
天明6年(1786)小堀大膳亮政寿(まさひさ)の嫡子として
近江の小室に生まれました。
小室領地が没収されてからは、京都孤篷庵で育ちます。
この頃の日本は大飢饉が起こり、世の中が疲弊し乱れはじめます。
田沼時代から松平定信が政治の実権を握る時代。
40年という長い間、浪人としての生活が続きますが
要職を歴任し譜代大名並の格式を許された五世政峯宗香公の功績
と遠州公以来の家柄を評価され、
文政11年(1828)に幕臣として召しだされます。
改易の時に親類に引き取られていた、
遠州以来の諸道具も戻され「遠州蔵帳」のほとんどが伝来します。
茶法は父、政寿や小堀家茶道頭の富岡友喜から学び、
多くの弟子を排出します。
尾張徳川家に招かれ御蔵器財の分類、目利き、整理なども行っています。
また、茶道を通じて狩野派など芸術分野の人との交流も多く、
合作で各種の作品を残しています。
慶応三年6月24日、82才で江戸屋敷で亡くなります。
遠州流中興の祖です。
6月 22日 荒木村重(あらきむらしげ)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜日。
軍師官兵衛の時代のお話を。
官兵衛を有岡城に幽閉した荒木村重は
有岡城落城の際には妻子、家臣を置いて
背中に 兵庫壷と呼ばれる茶壷を、
腰には立桐鼓という鼓(つづみ)をくくりつけて
わずかな家来と共に脱出したと言われています。
安岐の毛利を頼り、信長の死後まで生きながらえますが、
城に残された妻子、家臣は信長によって惨殺されてしまいます。
本能寺の変の翌年、「津田宗及茶湯日記」に
堺で荒木道薫という人物の昼会が記されています。
この道薫は剃髪した村重その人で、毛利と秀吉の講和がなされ
堺に戻ってきたと考えられます。
戦に敗れ入道となり、茶湯三昧の日々を送った村重は
後に、利休七哲にも数えられ(十哲とも)る茶人となるのでした。
6月8日 宗湛日記
ご機嫌よろしゅうございます。
日曜日になりましたので、官兵衛の時代のお話を。
この時代の様子を知る資料として
「宗湛日記」があります。
神屋宗湛 (1551~1635)は、 安土桃山・江戸初期の豪商。
筑前博多で、先祖は石見銀山の開発に携わり、
宗湛は朝鮮・中国・ルソン・シャムと通商して巨利を得ました。
畿内の諸大名や千利休、津田宗及らと親交があり
大徳寺にて出家し、宗湛と号しました。
「宗湛日記」は、宗湛が秀吉時代に活躍したことを
まとめた茶会記等を記録し、
津田宗及の「天王寺屋会記」、今井宗久の「今井宗久茶湯書抜」、
松屋三代に渡る「松屋会記」と並ぶ、四大茶会記ともされますが、
現在では後世に作られたとする説もあります。
家康の時代になってからは、急速にその力を失ってしまいますが、
江戸時代には黒田家の御用商人となり
特に官兵衛、後の如水と宗湛は親交も厚く
黒田家が筑前に入国する際には、
如水はしばらく宗湛の家に滞在していたそうです。
6月7日 川越献茶式
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は埼玉・川越にてお家元の献茶式が行われます。
また6月15日には、恒例となりました「茶あそび彩茶会」にて
妖怪茶会・甲冑をつけての茶会などユニークな茶会も
催されています。
川越は、関東最古の茶の産地です。
平安時代には既にこの地に伝わり
鎌倉時代には明恵上人が河越の地に茶を栽植したとされ、
鎌倉末期から室町時代に虎関師錬が著した「異制庭訓往来」
に全国の茶の産地の一つとして「武蔵河越の茶」
と記載されています。
江戸時代初期の川越城主だった酒井忠勝や堀田正盛、松平信綱は
遠州公との交流を通して、川越藩の茶業を活発にしていきます。
それ故川越藩と遠州流の関わりは大変深く、
市内の喜多院や蓮馨寺には遠州流の庭園が残されています。
献茶式にお越しの際は是非足をのばして
ご覧ください。
6月 5日 今井宗久(いまいそうきゅう)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は今井宗久の命日です。
今井宗久は近江に生まれ、後に堺で活躍する商人です。
武野紹鴎の娘婿となり、紹鴎が没すると
紹鴎秘蔵の名物茶器(松島茶壷・紹鴎茄子・玉澗筆波の絵)
を譲り受けます。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛の際には、
松永久秀が九十九髪茄子を献上し、
宗久も紹鴎の遺品である松島茶壷・紹鴎茄子を
献上します。
信長は堺の町衆の懐柔と支配のため宗久を重用し、
茶の湯においても茶堂として活躍しますが、
信長が本能寺の変で倒れてからは
次第に力が衰えていきます。
永正十七年ー文禄二年(1520ー1593)