9月 18日 松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と大変交流の深かった
松花堂昭乗についてお話しします。
遠州公の正室の妹が、中沼左京元知の妻となったことで
その左京の実弟であった松花堂との交流が始まります。
松花堂は十七歳で男山石清水八幡に登り、
滝本坊実乗に師事します。
寛永の三筆の一人に数えられ、遠州公、江月和尚との
合作も多く残り、その親交の深さが伺えます。
しかし、松花堂、中沼兄弟はどんなに親しくなった
間柄でも自分達の出自を決して語らなかったと
言われています。
遠州公五歳年少でしたが、遠州公より早く
五十六歳、9月18日に亡くなりました。
その死を悼み、遠州公がこんな歌を詠んでいます。
我をおきて先立つ人とかねてより
しらで契りし事ぞくやしき
9月 14日 心に庵(いおり)を…
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州茶道宗家にて、許状授与式が
執り行われます。
受伝者の皆様おめでとございます。
この許状式では、全国から門人が集まり
準師範をはじめ、宗号・庵号を
お家元から直接いただきます。
宗号とは茶道の世界においては茶人としての名前といえるものです。
古へに茶を嗜むものは禅寺で修行を積んだことから由来するものであり、
許状式において御家元から詳しいお話をいただきます。
また庵号はその名の通り、茶室(庵)の名前です。
式中、お家元が受伝者に向けて贈られる
言葉の中に、こんな一節があります。
「庵を持たない方も心に庵を持って
日々の生活を送られて下さい。」
実際に茶室を持つ人も、そうでない人も
常に胸の中に茶の湯の心を意識して日常を過ごす…
それこそが茶の湯の真の修養であり
お家元からいただいた号に恥じない茶人と
なれるのではないかと思います。
9月 8日 七世宗友公命日
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は小堀家七世宗友公についてお話しします。
寛保2年(1742)、5世宗香公が53歳の時に
伏見で誕生します。
宗香公の嫡子には不幸が多く、
孫にあたる政寿を養嗣子として願い出ますが
その後に宗友が生まれ、11歳で元服、
嗣子となることが幕府より許されます。
20歳の時、父宗香が他界すると遺領を継ぎ、
後に伏見奉行となります。
歴代の小室藩主は、遠州公以来伏見奉行などの
幕府の重要な役職に就いていたので、主に江戸にいて
小室藩の実際の治世は、陣屋にいた家臣達が担っていました。
その結果、小室藩の財政は徐々に悪化。
領民への借財や増税などでこの難局を乗り切ろうとした小室藩は、
幕府からそのことを咎められ、天明8年(1788)に改易されます。
小室藩は、遠州公以来の土地を没収され、借金の返済のため、
遠州公以来収集してきた数々の美術工芸品を失い、
宗友公は小田原に退身します。
茶法は父宗香より伝承し、
小堀家茶道頭の富岡友喜(とみおかゆうき)と共に、
「喫茶式」「数寄記録」等の伝書を自書、編纂して、
古法の伝達と共に、今日の遠州流茶道のまとめの役を果たし、
その作品等も数多く伝来しています。
享和3年(1803)の9月8日になくなります。
62歳でした。
8月 29日 遠州公の白
ご機嫌よろしゅうございます。
8月8日に、遠州公が抹茶の製法を
「白茶」に戻したお話をいたしました。
そして織部の緑
これには茶人の好みが反映されています。
それぞれの茶人の好みをシンプルに色で表すとするなら
利休の「黒」
織部の「緑」
遠州の「白」
とお家元は表現しています。
全てを包有する、他の存在を許さない「黒」
己の感性を先鋭に表した「緑」
「黒」も「緑」をも受け入れることのできる「白」
利休、織部の茶は己の精神.主観性を追求するもの。
それに対して
遠州はその日のお客様に合わせて
その好み・趣向を考え、道具の取り合わせを自在に
変えるなど相手の心を映した茶でした。
オリンピック招致で話題となった
「おもてなし」の日本の心ですが、
茶の心、とりわけ
この遠州公の「白」の好みが生きているような気がいたします。
8月28日 道元禅師
ご機嫌よろしゅうございます。
茶道は禅の精神と深い関係がありますが
今日は曹洞宗の開祖道元禅師のご命日にあたります。
若くして両親を失い、出家して後、中国に渡り
修行を積んだ道元禅師は、将軍の帰依を受けながらも
権力に染まることを拒み、
福井の永平寺でひたすら仏道に励まれます。
鎌倉時代に定着していった禅宗の規律は
茶法にも大きな影響を与えていきます。
さて道元禅師と共に中国に渡り、
帰国した陶工がいます。
この人物が加藤四郎左衛門景正(かとうしろうざえもんかげまさ)
瀬戸焼の祖といわれています。
茶入はもともと中国の小壷などが転用されて、
茶道具となりましたが、瀬戸焼が生まれ、
日本で最初から茶入として焼かれるようになりました。
初代の作を古瀬戸と呼び、名前を略して藤四郎と
いわれることもあります。
8月25日 旧暦 の8月1日
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は旧暦でいう8月1日
この日は秀吉により関八州を与えられた
徳川家康の江戸入城の日でもあり、
後に江戸幕府の大事な式日、
「八朔御祝儀の日」となりました。
江戸城は太田道灌が築城して以後、
荒廃が進んでいました。
要地からも離れ、長年徳川の領地であった
三河を発ち、入った江戸という未開の地。
天正十八年(1590)の8月1日
徳川家康が駿河から始めて江戸城に移った日、
家康とその家臣全員は白装束に身を固め、
城に入ったといいます。
この日から江戸の繁栄はスタートしたのでした。
8月 24日 大膳宗慶命日
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の後を継いだ二代目大膳宗慶のお話を。
元和六年(1620)2月15日、父遠州公四十二歳の
時、藤堂高虎の娘を母として、伏見奉行屋敷で
誕生します。
小さい頃から能書の誉れ高く、そのエピソードは
4月1日にもご紹介した通りです。
茶道修業にも熱心で、父遠州公にその茶法を学び、
二十代前後で大先達の御相伴も勤めるほどでした。
公職を離れた晩年五十三歳
江戸屋敷で連日連夜に渡り33回の茶会をするなどしています。
父遠州公より受け継いだ茶道の正統を文書に残し、
諸道具の整理・遺物帳等も作成しました。
延宝二年(1674)8月24日
五十五歳で江戸屋敷でなくなります。
8月 22日 あるエピソード
ご機嫌よろしゅうございます。
19日にご紹介した定家様にちなんで
エピソードを一つご紹介します。
当時大変な人気のあった定家の一幅を
なんとか手に入れようと皆必死になっていましたので
本物に混ざって定家の筆では無いものも出回っていました。
ある日、加賀前田家でも一幅手に入り、
定家様の権威である遠州公が茶会に招かれました。
遠州公がどんな批評をされるのか
襖の奥から皆注目していましたが、
とうとう茶会の最後まで遠州公はその
掛け物について何もおっしゃいませんでした。
不思議に思った前田公は、茶会の後遠州公の屋敷に
使いを出し
「先ほどの定家はいかがでしたか?」
と尋ねますと
「あれは私が書いたもので、誰かが手に入れて
定家にしてしまったのでしょう。
自分の字を褒めるわけにはいきません。」
と話されたといいます。
8月19日 藤原定家(ふじわらのていか)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は藤原定家の命日です。
定家は平安末期の歌人で、新古今和歌集、
新勅撰和歌集と、二つの勅撰集の編者となりました。
遠州公は当時、「定家様」の第一人者
であり、また「歌銘」も多く付けたことから
定家は遠州流では比較的馴染みのある歌人かもしれません。
「定家様」とは藤原定家の筆跡を踏襲するもので
同じ時代の消息などに比べると流麗とは
言い難い、特徴的な字体といえるでしょう。
これは本人も「悪筆」と認めていたところですが
印刷技術のない当時、書物は全て筆で写していたわけで
一つ一つの文字がしっかりしている
定家の字体は早く正確に書写するのに非常に適していました。
後に定家様、また小倉百人一首を書いた色紙は
茶人の間に大変な人気となるわけですが
この辺についてはまた次回。
8月18日 豊臣秀吉
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は8月18日 豊臣秀吉の命日に当たります。
秀吉と小堀家との所縁は深く、
浅井家が滅亡した天正元年以後、
秀吉が長浜在城の際、
出家の身であった遠州公の父・新介公を、見出して還俗させたと
いわれています。
昨日、また5月25日にも触れました通り
天正4年には信長に初めて茶道具を拝領し、6年に初茶会
その後は数々の大規模な、華やかな茶会の記録を残します。
異例の出世、天下取りの野望を果たしながら、
その後は幼い我が子の前途を案じて
慶長三年(1598) 六十三歳で、こんな歌を残してこの世を去ります。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな
浪速のことは 夢のまた夢