11月 17日
心あてに折らばや折らむ
初霜のおきまどはせる白菊の花
古今集 大河内躬恒
ご機嫌よろしゅうございます。
東北から関東にかけては既に初霜の降りた地域も
あるのではと思います。
先ほどの和歌は百人一首にも選ばれている
大河内躬恒の歌です。
当て推量に折るならば折ろうか。
初霜が置いて、その白さのために見分けもつかなく
なっている白菊の花を。
初霜に紛れるばかりの白菊の美しさを詠んでいます。
先人は、寒暖の差によって熟し方の異なる茶の扱いや
炉・風炉の区切りを自然現象によって判断していました。
口切も行う日が予め決められたものではなく
霜が降ってからが良いとされていたのです。
木々が赤く染まり始める頃、
そしてはらはらと散り始める頃
その時々の自然の変化に応じて、
茶の湯も時が流れていきます。
11月 11日 光悦会
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は京都で光悦会が開催されます。
光悦会は東京の大師会に並ぶ
日本の代表的な茶会です。
京都鷹峰の光悦寺において11月11,12,13日の3日間
五都の道具商が世話人となって催されます。
この茶会の舞台となる光悦寺は、
大虚山(たいきょざん)と号する日蓮宗のお寺です。
元和元年(1615)本阿弥光悦が、
徳川家康にこの地を与えられ一族、工匠等と移り住み、
芸術郷を築いていきました。
光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れた
文化人で、光悦の死後、寺(日蓮宗)となりました。
境内には、大虚庵など7つの茶室があります。
さて遠州公と光悦にも縁がございます。
遠州公は寛永13年(1636) 5月21日に、品川林中の御茶屋を新しく造設し、
将軍家光をお迎えして献茶します。
その控えの茶碗として用いられたのが、
光悦に依頼して作製された、膳所光悦と呼ばれている茶碗で、
正式に遠州公が取り上げたのは二碗であると言われています。
11月 2日 遠州公と高取焼
ご機嫌よろしゅうございます。
先月遠州公の国焼指導についてのお話を
致しました。
黒田官兵衛の子・長政が開く福岡藩にも
遠州公指導の御庭焼である「高取焼」があります。
黒田長政は朝鮮の役で、後の高取八山を
妻子共に日本に連れて帰り、
黒田公の召し抱え、しかも月俸七十人扶持、寺社格
という高禄で迎えられます。
慶長六・七年頃に永満寺宅間窯に開窯しますが
遠州公の指導を受けるようになったのは
そのもう少し後。
この遠州公と高取焼の出会いには
ある有名なエピソードがあるのです。
その話はまた改めて…。
10月 29日 武野紹鴎(たけのじょうおう)
ご機嫌よろしゅうございます。
侘び茶を提唱し、利休の師として知られる武野紹鷗
今日はその紹鷗の命日にあたります。
茶の湯の簡素化,草体化をさらにすすめたとされる紹鷗でしたが、武具を生業として
当時室町幕府の威光の衰えから武力衝突が多発した
時代を機に巨万の富を築いた富豪でした。
もとは若狭の守護大名武田氏の一族で,
父信久は諸国を流浪し、姓を武野に改めたとされます。
武田が野に下ったので「武野」というわけです。
三条西実隆に「詠歌大概序」を学び、連歌を得意とした
紹鴎は、茶掛けといえば墨跡か唐絵が主流であった当時
その歌意の真意を悟り、安倍仲麻呂の「天の原…」
の和歌を茶掛として初めて用いました。
六歳の息子を、娘婿の今井宗久に後見として託し、
54歳で亡くなりました。
(1502ー1555)
10月 17日 若き遠州公の話
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州公が茶の湯を始めたころの
お話を。
十五歳で大徳寺春屋宗園禅師に参行し、
修行を積みながら
古田織部のもとで茶の湯を本格的に学んで行きます。
遠州公が十八歳の時に
「洞水門(どうすいもん)」を考案しました。
これは現在水琴窟と呼ばれています。
茶室に入る前には手と口を
蹲(つくばい)で清めます。
当時の蹲は水はけが悪く、
何度か使用すると、周りに水が溜まってしまい
大変使いにくいものでした。
これを若干十八歳の遠州公が
この蹲の地下に瓶を仕込み、
水滴が瓶の中に落ちる時に、ポーンという
美しい反響音がする仕組みを考案し
水はけの問題も解消しました。
遠州公の茶の湯の師であった
古田織部も遠州公の才に大変驚いたと
言われています。
10月 16日 四世 宗瑞公
今日は小堀家四世の宗瑞公ご命日です。
貞享二年(1685)に小堀家の領主である
近江国小室で生まれました。
元禄七年(1694)正月二日、父である三世
宗実公の他界により、10歳の若さで跡目を継ぎ、
遺領を継ぐこととなります。
その後の
元禄十三年(1700)16歳となって元服し、
翌年結婚。江戸城御詰衆をつとめます。
宝永元年(1704)には将軍の御小姓として居候し
将軍の御前で「論語」の講釈をするなど、元服以前
より大変利発でした。
宝永六年、25歳で従五位下遠江守・諸大夫
に任じられます。
茶法は、父・三世宗実公が亡くなってからは
小堀家茶頭の桜山一有や大叔父小堀土佐守政武
から学びます。
正徳三年(1713)十月十六日
29歳の若さで江戸で亡くなります。
小堀家歴代の中で最も若くお亡くなりになった方です。
10月 3日 三条西実隆(さんじょうにしさねたか)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は三条西実隆についてのお話を。
享徳4年(1455)4月25日生まれ。
飛鳥井雅親(あすかいまさちか)に和歌をまなび
四十七歳で宗祇(そうぎ)から古今伝授をうけます。
一条兼良(かねよし)からは古典学を学び、
和漢の学に通じた当時最高の権威・文化人
として知られました。
茶の湯においては、利休の師匠であり連歌師でもある武野紹鴎が
実隆に和歌を学び、「詠歌大概序」の講義を受け
茶の湯の極意を悟ったと言われています。
また聞香にも優れ、後柏原天皇から
「御香所預(ごこうしょあずかり)」にも任じられました。
御家流香道の祖とも言われます。
天文六年(1537)の10月3日 83歳でなくなります。
最後に実隆の和歌を一首ご紹介します。
花も木もみどりに霞む庭の面(も)に
むらむら白き有明の月 「雪玉集」
9月28日 如水と家康のエピソード
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜日。
官兵衛の時代のお話を。
如水は慶長五年(1600)の関ヶ原の役以後、
豊前に引退し、参禅の師を大徳寺の
春屋宗園に求めた頃から茶の湯を勢力的に
始めたようです。
家康とのエピソードとして面白いのは
黒田家に伝わる「南条」の茶壺です。
慶長六年(1601)の五月
家康が伏見城で宴会を催しました。
関ヶ原の役で活躍した大名が招かれ、その中に
如水の姿もありました。
ここに名物の茶壺が数個並べられ
家康は如水に、冗談半分に
「この中で他人の手を借りずに自分で持って帰れる
ものがあれば、どれなりとも差し上げよう」
と語りました。
すると如水はすっと立ち上がって
一番大きい「南条」の茶壺を自らの手で持ち帰った
ので、家康も如水の豪放さに驚嘆した
といわれています。
9月 27日 名物道具を拝見するには?
ご機嫌よろしゅうございます。
昨日は鷺の絵をご紹介しました。
そして遠州公が若干16歳でこの絵をみることが
できたこともお話ししました。
当時は美術館も展覧会もありません。
観たいと思う道具があったら、
その道具を持つ人の茶会に招待されなければ
みることは出来ないのです。
そして所有者も
この人なら見せてもいいなと思う人しか
呼ばないわけで、客には相応の知識と教養が必要
でした。
つまり、名物道具を拝見出来たということは
茶人として認められたという格を示すことにもなりました。
お金を出せば、いつでも博物館で名物道具を
拝見できる今とは違い
当時の茶人は常に真剣な気持ちで
名物道具と対峙していたのでしょう。
9月21日 如水茶訓
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜日。
軍師官兵衛の時代のお話を。
隠居して如水と名乗った官兵衛ですが、
秀吉の死後となる慶長四年(1599)の正月
茶の湯定書というものを発布しています。
一 茶を挽くときには、いかにも静かに廻し、
油断なく滞らぬように挽くべきこと
一 茶碗以下の茶道具には、
垢がつかないように度々洗っておくこと
一 釜の湯を一柄杓汲み取ったならば、
また水を一柄杓差し加えておくこと
決して使い捨てや飲み捨てにしてはならない
これらは利休流を守った教えであると記しています。
素朴で、華美なところは感じられず、
簡単なことのようでなかなか実践できない
そんな日常の心のあり方を、
如水は定書に記したのでした。