[東海道旅日記」 庄野でのやりとり

2020-8-21 UP

庄野のあたりにやってきた遠州公一行。
ここでは供の者が、名物のやき米にかけて

ひだるさに行事かたき いしやくし
  なにとしやうのゝ やき米を喰 

と歌を詠み、
「しもびとのうたには よしや あしや」と
遠州公の評価が記されています。
「伊勢物語」の33段(こもり江)をみますと
津の国、菟原の郡(現在の兵庫県芦屋辺り)に住む女に通う男へ、
この女が詠んだ歌が記され、

こもり江に思ふ心をいかでかは
   舟さす棹のさして知るべき
田舎人のことにては、よしやあしや

と、続きます。
このことを踏まえて考察すると
遠州公はこの「伊勢物語」の33段を倣って
自分の歌を下人の歌として記したと想像することができるのではないでしょうか。

浜松城主

2020-3-27 UP

浜松
これまで、この浜松城主は松平重仲と考えられていましたが、
この旅日記が記された1621年(元和七年 辛酉紀行)の浜松城主は
浜松出身の高力忠房の可能性があります。
高力忠房は1619(元和5)年に浜松へ転封。
20年浜松をおさめた後、1638(寛永15)年には
肥前国島原(現:長崎県)へ転封。
幕府から信頼されていたため島原の乱の戦後処理のために
譜代の家臣の中でその任務に耐えられる人物として島原藩転封となり、
藩主として以外にも長崎警備、外様大名の多かった九州のとりまとめを任されています。
また息子隆長の正室は、遠州公と公私に渡り交友の深かった、永井尚政の娘です。
仕事柄、長崎奉行との関わりも深い遠州公ですので、
なんかの関係があったことが考えられます。
旅日記で遠州公の出立まで出向き、名残を惜しんだ様子も頷けます。

浜松城

2020-3-26 UP

旅日記では遠州公の知り合いの浜松城主が、
遠州をしきりに城にうながし、
出発の際にも名残を惜しんで見送る様子が記されています。
この浜松城は「出世城」としても有名です。
天下人となった徳川家康が、29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごし、
有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの時期にあたります。
家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの譜代大名が守り、
藩政260年の間に25代の城主が誕生しました。
歴代城主の中には幕府の要職についた者も多い
(老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人※兼任を含む)
ことから、後に「出世城」と言われるようになりました。

9月28日 訳文

2020-3-25 UP

9月28日 旅日記

28日 朝天晴。
知り合いである浜松の城主が使者をよこしてきた。
中和泉を過ぎて、天龍川の船渡を経て、浜松にさしかかる。
城主がまた遣いをよこしてきたので、案内させて城に入る。
長いこと滞在していたが、お昼頃にぱらぱらと雨が降り出した。
今日は城にお泊りくださいと城主にしきりに引き留められるのを辞して、
今切のほとりまでは進みたいと思っていることをお伝えして城をあとにした。
城主は名残を惜しんではるばる見送りにでてくれて別れた。
細雨が降り、風も静かであった。その名の通りの浜松は二本並んでいる。
汀に寄せ来る浪の音も、松の間を抜ける風の音も美しく響いている。

浪の音に はま松風の 吹合せ 
折から琴の 音をや調ぶる

霧雨のような衣が濡れるほどではない雨が降るなか、新井の渡りに到着する。
急に風が激しくなって、波も音を立てている。雨足も強くなってきた。

山風の 秋の時雨を 吹来ては 
浪もあら井の わたし舟哉

雨と浪で濡れた袖も乾かしおわらぬうちに舟からおりた。
ここで宿を取り一泊。燭の明かりが灯る頃、京都から文が届けられた。
故郷のことなどの話を聞いて過ごした。
夜も更けたが、雨風は止む気配がない。

金谷

2020-1-31 UP

志戸呂

金谷の里に着き、しばし休みを取った遠州公。
金谷には遠州好の茶陶「志戸呂窯」があります。
一時は衰退していた窯を、慶長年間(1596~1615)に徳川家康が瀬戸の陶工加藤九郎右衛門景延を招いて再興。
通説では志戸呂で遠州の好みの茶器を製したのは寛永年間(1624~1644)といわれますので、この旅日記が記された元和七年(1621)には、まだ遠州公と志戸呂とのつながりは始まっていなかったと考えられます。
後世、遠州七窯として名を知られることとなる金谷の地に、遠州公がいつ関わりを持つようになったのか、興味深いです。

静岡 十団子

2019-12-16 UP

宇津谷峠に差し掛かったところ、ここの名物「たうだんご」に出合います。
さては唐の秘法で作られた珍しい餅かと思った遠州でしたが、正解は十づつすくうので「十団子」。
試しにやってみさせると見事ひょいひょいっと面白いように十づつすくって碗のなかに入れていきます。
この「十団子」、室町時代の連歌師・宗長の綴った『宗長手記』にも登場しているので室町時代からあったようです。
「折節夕立して宇津の山に雨やどり。此茶屋むかしよりの名物十だんごといふ、一杓子に十づゝ。かならずめらうなどにすくはせ興じて。夜に入て着府」(大永4年(1524)6月16日)
地元の鬼退治の伝承などとも関係して、江戸時代をすぎると、糸でつないだ形に変化して売られるようになっていったようです。
十団子

十団子②

9月26日 原文

2019-12-14 UP

さもあらむかし そこをゆき過て うつの山に
いたりぬ 此里を見れば しろきもちの 
霰のごとくなるを器に入て 是めせと
いふ とへば たうだむごとて此里の名物
也といふ さてはもろこしより渡たる餅に
やあむなるといふ さにはあらず 
十づつしゃくふによりて とをだむごとい
ふ也とかたる さらばすくはせよといへば 
あるじの女房 手づから いひかいとりて
心のままにすくふ これになぐさみて 
暮にけれども うつの山にかかる もとより
つたかえではしげりて と ある所なれば 
いとくらふ道もほそきに うつつともわきま
へ侍らず 
  さらでだに 夢のうき世の 
旅の道を うつつともなきうつの山こえ
ゆくえは岡辺の里に着 一宿 其夜は 岡辺
の松風に夢をおどろかし 明れば 

鞠子

2019-12-13 UP

「うめ若菜、丸子の宿のとろろ汁」
と松尾芭蕉が詠んだように、丸子ではとろろ汁が名物として知られています。
時は戦国、1596年創業の「丁子屋」が現在も営業中です。
こちらは静岡を往来する旅人にとろろ汁でもてなしてきました。
旅日記では触れていませんが、遠州公が訪れた際にもきっと営業していたはず。
東海道中膝栗毛にも「丁子屋」のくだりが出てきます。
丸子とも鞠子とも表されますが、ここで遠州は「沓」を求めようとしたところ、
今は落ちぶれて「沓」を売って生計を立てる、貴族らしき人の「沓」は通常より高く、
結局買わず。蹴鞠の沓と鞠子ということで、
遠州公も面白いと思って書き留めたのでし
ょうか。

駿府 遠州の名の由来

2019-11-15 UP

秋霧の浪間に浮かぶ三保の松原。
眼下に広がる絶景に動くことができずにいた
遠州一行、陽もくれ始めて惜しみつつ寺を降ります。
江尻の里での休息の後、一行は府中へ。
遠州30歳の時、大御所家康の居城駿府城天守閣作事を担当し、
その功績から遠江守を任官し、以後小堀遠州と
呼ばれることになりました。
任務にあたった慶長13年(1608)一年間この地に滞在した
思い出深い地でもあり、当時の場所を尋ねてみると草深く
荒れ果て、人の気配も感じられない様子でした。
  住み慣れし宿は葎にとぢられて 
秋風通ふ 庭の蓬生
と、目の前の寂れた景色に、過ぎていった時の
流れに想いをよせる遠州でありました。

東海道旅日記~出発~

2019-6-23 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
元和7年(1621)9月22日、午時
(うまのとき)、ちょうどお昼を
過ぎた頃。
遠州公は江戸駿河台の屋敷から出発し、
京都への旅が始まります。この時43歳。
前年には嫡子正之が誕生しています。 
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遠州公の屋敷は牛込と駿河台にあり、この駿河台の屋敷には秀忠の御成を迎えた
と考えられています。将軍にお茶を差し上げるにふさわしい数寄屋の整った屋敷
でした。
駿河台は江戸城に近く、武家屋敷が並んでいました。その屋敷の敷地は広く、
明治維新の際に政府に土地が返還された後は、大学等になったそうです。
遠州公の屋敷跡には後に中央大学の校舎が建ち、現在では商業ビルが建てられて
います。