これまで、この浜松城主は松平重仲と考えられていましたが、
この旅日記が記された1621年(元和七年 辛酉紀行)の浜松城主は
浜松出身の高力忠房の可能性があります。
高力忠房は1619(元和5)年に浜松へ転封。
20年浜松をおさめた後、1638(寛永15)年には
肥前国島原(現:長崎県)へ転封。
幕府から信頼されていたため島原の乱の戦後処理のために
譜代の家臣の中でその任務に耐えられる人物として島原藩転封となり、
藩主として以外にも長崎警備、外様大名の多かった九州のとりまとめを任されています。
また息子隆長の正室は、遠州公と公私に渡り交友の深かった、永井尚政の娘です。
仕事柄、長崎奉行との関わりも深い遠州公ですので、
なんかの関係があったことが考えられます。
旅日記で遠州公の出立まで出向き、名残を惜しんだ様子も頷けます。
宇津谷峠に差し掛かったところ、ここの名物「たうだんご」に出合います。
さては唐の秘法で作られた珍しい餅かと思った遠州でしたが、正解は十づつすくうので「十団子」。
試しにやってみさせると見事ひょいひょいっと面白いように十づつすくって碗のなかに入れていきます。
この「十団子」、室町時代の連歌師・宗長の綴った『宗長手記』にも登場しているので室町時代からあったようです。
「折節夕立して宇津の山に雨やどり。此茶屋むかしよりの名物十だんごといふ、一杓子に十づゝ。かならずめらうなどにすくはせ興じて。夜に入て着府」(大永4年(1524)6月16日)
地元の鬼退治の伝承などとも関係して、江戸時代をすぎると、糸でつないだ形に変化して売られるようになっていったようです。
さもあらむかし そこをゆき過て うつの山に
いたりぬ 此里を見れば しろきもちの
霰のごとくなるを器に入て 是めせと
いふ とへば たうだむごとて此里の名物
也といふ さてはもろこしより渡たる餅に
やあむなるといふ さにはあらず
十づつしゃくふによりて とをだむごとい
ふ也とかたる さらばすくはせよといへば
あるじの女房 手づから いひかいとりて
心のままにすくふ これになぐさみて
暮にけれども うつの山にかかる もとより
つたかえではしげりて と ある所なれば
いとくらふ道もほそきに うつつともわきま
へ侍らず
さらでだに 夢のうき世の
旅の道を うつつともなきうつの山こえ
ゆくえは岡辺の里に着 一宿 其夜は 岡辺
の松風に夢をおどろかし 明れば
宗家研修道場の稽古や遠州流茶道の茶会では「源太萬永堂」の
お菓子をよくいただきます。
源田萬年氏は、修業先で戸川宗積先生のお稽古場にお菓子を納めるようになり
その後独立、宗積先生から本名の「源田」にちなんで、歌舞伎「悪源太」から
「源太」の名前をいただきました。
悪源太は豪勇で知られた源義平のあだ名。強いという意味と源が太るという
縁起の良い字ということでこの名がつけられました。
以来50年、都内の茶室をほとんど知りつくし、その茶室の照明を考慮に入れた上で、
季節やテーマに沿った取り合わせを考えます。
御子息の恒房氏も大学卒業後、父・萬年氏に師事、共に四季折々の菓子を作り出しています。
最近御家元にご指導いただいた中で印象に残っているのは、昨年の東京茶道会の2月、招待茶会のお見本をお届けしたときということで、その際のお話を伺いました。
「例年は新春の茶会ということで梅をモチーフにした菓子をご提案させて頂いておりますが、前年御家元が華甲をお迎えになられたこともあり、もっとおめでたい感じに祝意を表したものにしてはどうかとお話しを伺いましたので、酉年にも因んだものとして
丹頂をイメージしたものをいくつかお持ちいたしましたが、単に丹頂ではありきたりな見慣れた雰囲気で物足りなく思うとご指摘いただきました。
どうしたものかと思っていたところ、見本の中の茶巾絞りでお持ちしたものを
お家元がお手持ちの鶏の香合のような形で出来ないかとお話しがありました。
鶏は新しい年の日の出とともに一番最初に鳴く「明けの鳥」で大変縁起の良いものとされています。
いいアイデアを頂いたので、それなら工夫してなんとか形にしてみようと思いました。
思ったよりもなかなか難しく、最初は思うような形にならなかったり、揃わなかったり、頂点の感じが上手くいかなかったりと、多少苦戦しましたが、、、
当日お届けしてご覧頂いた時にこれならいいんじゃないかというような一言で及第点はいただけたのかなと一安心しました
もうひとつ思案していた菓銘も「鶏頭」となるほどと思うぴったりな(絶妙な)ものを付けて頂きました。席中でも御常家元のご趣向に皆様からも好評でした。」
お茶席で出会うお菓子の一つ一つに込められた意味と想い、
それらを心で感じながら大切にいただきたいものです。
ご機嫌よろしゅうございます。
この時期羽化をはじめる蛍が夜の闇に淡い光をうつす頃
夏の夕べの美しい水と蛍の光はとても幻想的です。
蛍狩りはこの時期の季語でもありますが、
昔は身近だった風景も今では限られた場所で観られる特別な
ものとなってしまいました。
さて、遠州公の所持していた茶入に「蛍」の銘を
もつものがあります。
瀬戸春慶に分けられるこの茶入には、遠州公の書状が添い
織部の同門であった上田宗箇に宛てられたもので、この茶入は
ことのほか出来が良く、五百貫ほどの値打ちがあり、後々は
千貫にもなるのであるといった内容です。
遠州公は浅井家家臣となり、広島に居した宗箇には色々と心を
配っており、その他多くの書状が残っています。
瓢箪の形をしていますが、上部は小さめで愛らしい印象を
受けます。土見せを大きく残し、黒釉がたっぷりかかっています。
この釉薬からの連想か、挽家に遠州筆で金粉字形「蛍」と
記されています。
また、蛍と茶の湯にちなんだ落語を来月7月にご紹介する予定です。
どうぞお楽しみに
ご機嫌よろしゅうございます。
爽やかな青空の下、木々の緑は目にも鮮やかになりました。
そんな風に吹かれるみずみずしい楓の葉を表したお菓子を
ご紹介します。
目には青葉 山ほととぎす 初鰹 素堂
あらたうと 青葉若葉の日の光 芭蕉
源太さんに「こなし」と「練り切り」の違いについて
伺ってみました。「こなし」は米粉などででんぷんを入れて
蒸しており、もっちりとした食感に。
「練り切り」はあんこにつなぎをいれてさっくり、
ずっしりとした食感になるのだそうです。
3月6日(月)今月の菓子
「西王母」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週3日金曜日のメールマガジンが、文章の途中で配信されて
しまいました。大変失礼致しました。
今日は先週の続きと、今月のお菓子をご紹介致します。
先週は「桃」の文様についてご紹介してまいりました。
崑崙山の仙女・西王母が、三千年に一度しか実らない
不老長寿の桃の実を、漢の武帝に贈ったという伝説から、
西王母の銘で桃をかたどったお菓子を茶席で頂いたりします。
桃をかたどった道具には、五島美術館に
松平不昧から姫路の酒井家に伝来した
桃の形の大型型物香合が所蔵されています。
明時代以降の龍泉窯の青磁で
「形物香合相撲」番付の西前頭筆頭に位置しています。
さて、今月のお菓子はその不思議な力をもつとされる桃をかたどった
「西王母」です。まんまると実った実を頂いて、長寿を願いつつ
お茶を頂きます。
2月 13日(月)今月の菓子
ご機嫌よろしゅうございます。
宗家道場のお稽古では、毎週目にも鮮やかな
和菓子を愛でつつ、お客様としてのお稽古を
するのも楽しみの一つです。
今日ご紹介するお菓子は源太萬永堂製「 春の野」です。
春の訪れを迎えはじめた野辺に、小さな芽を出し始めた草木達。
その姿を繊細に表現したきんとんのお菓子です。
春の野にすみれ摘みにと来し我そ野をなつかしみ一夜寝にける
山部赤人
今年の勅題「野」にもつながり、耳で聞き、目で愛でて、
その柔らかい甘さを舌で感じる‥
五感を刺激するお菓子です。