皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は空中茶室についてお話いたします。
《建築物:閑雲軒》
京都の八幡市にあります石清水八幡宮の境内には、遠州と大変仲の良かった松花堂昭乗が宿坊を務めた滝本坊があります。
松花堂は石清水八幡の僧侶で、17歳の時から修行を始め、政界のフィクサーとして活躍しました。
出生については、霧に覆われたように謎めいており、兄の中沼左京と共に、二人の親族について年月日以外まったく分かっておりません。
そのことについて二人はどんなに親しくした人物にも終生語ることはなく、意識して隠し続けたのだと思われます。
ただ、彼が(もちろん中沼左京も)暗い人物であったかというとそうではなく、大変人に愛される人柄で、亡くなった時には多くの人々が悲しみを表しました。
遠州も、旅日記や歌の中で、「松花堂がまだ生きていてくれたら、こんなに寂しい想いはしなかったのに」という、悲しみや寂しさ、悔しさなどを込めて詠んでいます。
そんな松花堂と遠州が共に作った茶室、それが滝本坊にある「閑雲軒」という空中茶室です。
崖から迫り出す設計で造られたその茶室は、7mもの柱で支えられ、中に入って窓から景色を見れば、まさに空中に浮かんだように感じられたでしょう。
現在ではその姿を見ることは叶いませんが、屋敷跡が残されており、当時を知るうえで、貴重な資料として保存されています。
皆様ごきげんよろしゅうございます。
本日は茶壺道中についてお話いたします。
《季節の行事:茶壺道中》
茶壺道中とは、宇治の抹茶が茶壺に詰められて運ばれるその行程のことです。
徳川幕府が寛永9年(1632)に正式に制定。
毎年選ばれた採茶師2名がそれを監督します。
採茶師は4月から5月初めに、幕府の御物茶壺を携えて江戸を出発し、20日程で宇治に到着します。
宇治茶師頭取上林家の庭にある茶壺蔵に厳重に保管され、不寝番(ねずばん)も付けられました。
その後2日間にわたって茶詰が行われます。
御物茶壺は1壺あたり黄金1枚が与えられたので、黄金詰、または大判詰とも呼ばれました。
到着してから20日程のち、採茶師たちは往路の数倍の茶壺を携えて宇治を出発。
採茶師の一行の人数は約500人にものぼり、厳重な警備のもと、江戸へ運ばれました。
茶壺が通行する道は、街道沿いの村人たちによって掃除が命じられ、田畑の耕作も禁じられました。
「ずいずいずっころばし」のわらべ歌は、繁忙期の農民たちが茶壺道中を風刺した歌ともいわれています。
後に倹約令が出され、茶壺の数も一行の人数も大幅に減らされることとなりますが、10万石の格式のあるものとして、江戸後期まで続いた。
皆様ごきげんよろしゅうございます。
本日は遠州流茶道の支部の1つである男鹿支部についてお話します。
《支部:男鹿支部》
昭和38年に、秋田県男鹿市で発足した男鹿支部は、先代の紅心宗匠が家元を継承した後に初めて発会した支部です。
これまで昭和48年と、平成元年に2回全国大会を開催しており、多くの会員数を誇る支部として長く活動されてきました。
男鹿支部のある男鹿半島は出羽山脈の西端に位置し、長い時を経て島から半島になったもので、鯛、サザエ、アワビなどの海の幸と、梨、メロンなどの山の幸に恵まれ、奇勝絶景の地域として知られています。
また、なまはげのゆかりの地でもあり、毎年冬に祭りが開催され、多くの観光客が訪れています。
今年は発会から50年の節目の年。
これからのさらなる発展に期待がされています。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日から、暦が変わります。
《七十二候:霎時施(こさめときどきふる)》
長い小雨がしとしとと降り始める季節となります。
秋の雨は冷たく、物悲しく、空もどこか灰色がかった雲でうっすらと覆われ、これから始まる冬に向けて、なだらかに下降しているような気分になります。
秋雨は、梅雨とは異なり、始まりと終わりが曖昧で、また台風と相まって大雨となる事もあり、表情が変わりやすく、寒暖の差にも注意が必要です。
ただこの時期の雨は、アジア周辺まで含めた広範囲で起こる梅雨とは異なり、日本特有のもので、もののあはれを表す季語として様々な歌や詩などで大切に扱われてきました。
先代紅心宗匠の即興歌、写生を集めた『紅心集』にも、秋の雨を詠んだ歌が収録されています。
今から30年ほど前、昭和52年に行われた富山支部全国大会での即興歌を少しだけご紹介致します。
夜来秋雨過天遠晴
心清而喫茶見立山
やらいしゅううすぎて てんとおくはれ
こころきよくして ちゃをきっし
たてやまをみる
秋も晴れ 心もはれて秋晴れの
空すみわたり 立山の見ゆ
雨ぐもの 晴間に見する剣獄(つるぎだけ)
気高く聳(そび)ゆその山かげは
弥陀の原 秋たけなわに染め分けて
千種の色の いよようるわし
では明日もまた宜しくお願い致します。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日はいよいよ近づいてきた炉開きについてお送り致します。
《季節の行事:炉開き》
炉開きとは、慣習として旧暦の10月に行われ、半年の炉の使用の無事を祈念して亭主が炭点法を行う儀式です。
遠州流では、床の間には瓶子に御酒を供え、三宝に土器(かわらけ)を置き、塩と洗米、鰹節を載せて用意します。
炉には下火だけ入れ、点法の際に、下火の周りに塩を撒いて清め、山の幸の代表として米、海の幸として鰹節を順次撒いて、かしわ手を打ち、皆で炉開きを祝うのです。
この炉開きの際に、初めてその年の新茶が入った茶壺の封紙が切られ、喫せられることになります。
昔の茶人は「一生に一度口切茶事に招かれれば本望である」とさえ言い、何よりも炉開き・口切をめでたいものとしていました。
10月の名残りの侘びた雰囲気から一転し、華やかなしつらえとなります。
掛物は格調の高い墨蹟、花入れは古銅や青磁などが好まれます。
しかし特にそれは決められたものではなく、道具の取り合わせによって自由に変更しても良いとされています。
ちなみに、炉開きを行う日は、旧暦の10月の亥の日であったり、庭に植えた定めた樹の葉の色が具合によってであったりなど、定まっていません。
しかし、いずれにせよ「無事」と、「祝い」を皆で祈る儀式には変わりはなく、茶道ではたいへん重要な日とされています。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は24節季で「霜降(そうこう)」。
72侯で「霜始降(しもはじめてふる)」です。
いよいよ霜が降り始め、田舎の畦道など、朝方に歩けばパキパキと音がする季節となりました。
この頃になると、茶道では「霜柱」という御菓子に出会うことが多くなると思います。
口に含むと踏まれた霜のようにパキパキと音がしますが、あっという間に溶けて無くなります。
しかし、そのあとにほんのりと甘さの残る仙台の銘菓です。
いよいよ炉開きの季節に近づいて参りました。
次回は炉開きについてお送りします。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
一昨日の20日に秋の土用に入りました。
≪暦1:秋の土用≫
土用とは、暦の雑節で立冬の直前18日が「秋の土用」となりました。
期間は立冬の前日まで。
土用は、特にその18日間が、農業などにおいて、季節の変わり目で土の気が盛んになるとされ、土をいじる作業を避けていました。
ただ実際的なことをいえば、寒暖の差が激しくなる時期にあまり身体を動かさず、体調に気を付けることを戒めた先人たちの知恵でありました。
台風が通過するとともに、がらりと様子変えた気候に、どうぞ十分にお気を付け下さい。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
今から37年前の10月、歌舞伎座でどんな演目が上演されていたかご存知でしょうか。
本日はそのことについてお話ししたいと思います。
≪これまでの行事1:歌舞伎『小堀遠州』≫
1976年10月、歌舞伎座では『小堀遠州』が上演された。
田中喜三作、戌井市郎演出、そして先代の紅心宗匠が監修をし、遠州、織部、細川忠興の三者を中心とし、史実を基にして物語が作られた。
主役の小堀遠州を演じた17代目の市村羽左衛門は、後に人間国宝となる名役者で、8代目坂東彦三郎の父親である。
物語は、遠州が起こした将軍の公金一万両流用事件を、ライバルであった細川忠興が、遠州との問答の末、遠州の茶の湯に対する心を認め、手を差し伸べて解決する、というものであった。
この演目は、その年の脚本の中で、「芸術的純正度のみに偏らない、特に娯楽性に富んだ」脚本に対して与えられる『大谷次郎賞』を受賞した。
現在でも『大谷次郎賞』の解説があるHPのページには、はっきりとその写真の中に『小堀遠州』の脚本表紙が見て取れる。
また月刊『遠州』の昭和53年7月号~10月まで、この演目の脚本が写真入りで連載されているので、もしご一読されたい方は大有にてお求め頂きたい。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は旧暦で9月9日、『重陽の節句』です。
なので本日は菊についてお話いたします。
≪花:菊≫
重陽の節句で見られる着せ綿。
菊の花に染料で染めた真綿を着せたものであり、宗家道場でも先月生けられていた。
平安時代の貴族より習慣があり、菊の露が染み込んだ真綿で体を拭うと、無病長寿となるとされていた。
菊は古くから日本人の習慣や、景色の中に深く溶け込み、江戸時代になるとさらに多くの品種が改良され、品評会なども多く行われた。
ちなみに世界には2万種ほどの菊があり、その点を見ても、いかに人間が菊を好んでいるかがわかる。
また食べ物としても知られ、和え物や天ぷら、団子など様々な調理方法がある。
現在でも国会議員の議員記章や、パスポートなどに菊が用いられ、最も身近なところでいえば50円玉であろう。
本日は菊の節句、重陽。
ふと気づくと、道端に野菊が意外と咲いている。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は加賀百万石を築いた前田利常公についてお話いたします。
≪人物エピソード4:前田利常≫
前田利常は遠州の14歳年下で、文禄2年(1593)11月25日に前田利家の四男として生まれた。
9歳で兄・利長の世嗣となり、徳川秀忠の二女珠姫を正室として迎えている。
そして兄が引退したため、13歳で家督を継ぎ、119万石を領した。
先日のメルマガでもお送りした通り、利常は茶の湯を大変好み、遠州とも懇意であった。
そのため遠州は道具の目利をしたり、墨蹟を表装したり様々な面で利常からの厚い信頼を得ていた。
また、利常の嫡男である光高も遠州に茶を習い、茶会にも参会している。
何よりも挙げておきたいのが、遠州、利常、千仙叟の関係である。
裏千家を興した仙叟は、千宗旦の四男として1622年に生まれた。
仙叟は加賀藩前田家に召し抱えられるのだが、その斡旋をした人物が、前田家の茶頭として仕えていた遠州の弟・佐馬助正春であった。
長いこと仕える先を探し続けていた仙叟であったが、31歳にしてようやく大藩に就職ができ、76歳の宗旦はそれを大変喜び、小堀佐馬助にも礼状を出したという。
これらのエピソードは『元伯宗旦文書』の中に記録され、裏千家創世と、また裏千家と遠州流とを繋ぐ重要な資料として今でも残っている。
本日10月12日は前田利常の命日である。
享年66であった。