皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は京都大徳寺で江雲会茶会が催されています。
このお茶会の名に冠されている江雲宗龍についてお話いたします。
≪人物:江雲宗龍≫
江雲宗龍は、小堀家系譜によると、遠州の兄・池田七左衛門の子で、遠州の甥にあたる人物とされます。
小堀家の菩提寺である孤篷庵の開山・江月宗玩和尚に参じて法嗣となり、第一世としてそこに住しました。
当時の文化人と親しく交わり、特に千宗旦が息子である仙叟千室を前田家へ仕官するために江雲を通じて、遠州の弟・佐馬助正春に働きかけた事も『元伯宗旦文書』に残っており、重要な役割を担いました。
孤篷庵が完成してから5年後、江雲は大徳寺百八十四世となり、延宝7年(1679) 6月17日78歳で入寂し、円慧(えんね)霊通禅師の号を勅諭されました。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
11月9日は茶の湯の世界にも大きな影響を与えた「太陽暦採用記念日」です。
本日は太陽暦についてお話いたします。
≪暦:太陽暦≫
明治5年(1872)11月9日、明治政府は太陽暦を採用しました。
この太陽暦がいわゆる新暦にあたり、現在我々が使用している暦となります。
それまでの日本は「太陰太陽暦」を使用していました。
これがいわゆる「旧暦」です。
新暦とは異なり、旧暦は月の満ち欠けを基準としているため、現在のようにひと月が30日、31日ではなく、大の月が30日、小の月が29日とされ、1年を354日としていました。
そのまま進行すると季節にズレが発生するため、度々「閏月」を入れ、「閏月」のある年は1年を13ヶ月として補正していました。
明治政府はこれを不便であるとし、1年を365日、4年に1度ごとに1日だけ多くした閏年を置く太陽暦を採用したのです。
そして日本の暦は明治5年の12月3日をもって、明治6年の1月1日となりました。
しかし、この暦の移行によって様々な季節行事や一般業務に大きな支障が出たと言われています。
もちろん年中行事などを基として進行する、茶道界も大きな影響を受けたといいます。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は椿についてお話いたします。
≪季節の花:椿≫
椿は、日本には有史以前から、海流に乗って南方より渡来したといわれ、その時期や経路などは未だに不明とされています。
椿は他に「海石榴(かいせきりゅう)」、「海紅花」などの名を持っておりますが、「海」の字を冠せられることから、海外から上陸したことを表現しているものと思われます。
「やぶつばき」、「ゆきつばき」の二種を原種とし、大きいものでは10メートル近くの大木になるものもあります。
伊豆の大島や四国の室戸岬などがヤブツバキの名所としてよく知られております。
ユキツバキは新潟などの雪国の椿で、雪をかぶった姿は目の覚めるような色彩の妙をかなでます。
この二種を基とした自然交配や人工交配によって、「江戸」「中京」「京」「肥後」などの名花といわれる花々が生まれました。
茶の湯の世界では「炉」の季節、つまり11月~4月までの半年間、椿が茶花の主役を務めます。
炉を開いた始めの頃は、白玉椿など白椿を主に用います。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
昨日で土用が明けまして、立冬となりました。
本日は立冬についてお話いたします。
≪二十四節季:立冬≫
いよいよ冬の気配が感じられる季節となりました。
既に木枯らしが吹き始め、冬型の気圧配置となります。
今年は11月4日に大阪管区気象台が近畿地方で「木枯らし1号」が吹いたと発表しました。
木枯らしが吹くと冬の気圧配置となり、秋が終わり、立春の前日(2月3日)までが暦上の「冬」となります。
現在の日の入りも17時を切って、16時40分となっています。
冬になればなるほど、日が短くなっていきます。
夜が近づく分、厳しい寒さも早く訪れることとなりますので、どうぞ体調には十分にお気を付け下さい。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
10月20日から入った土用が、本日で明けます。
≪暦:土用明≫
土用は立春、立夏、立秋、立冬前の約18日間を指し、1年に4度あるとされています。
土用は中国の五行思想から成立したものです。
四季を五行に割り当て、分割すると、ひとつの季節が73日となります。
そしてその土の日数を4等分した18日(19日の時もあり)を各季に割り当て、その期間を土用というのです。
五行思想において、「土」は物を変化させる作用があるとされ、季節の変わり目に配置されたと言います。
ちなみに「用」はハタラキを表しますので、「土用」で「物事を変化させる作用」を意味しています。
皆様ご機嫌よろしゅうございます
本日は遠州茶道宗家で炉開きが行われます。
《亥の子餅》
5日はいわゆる旧の「亥の子餅」「炉開き」の日です。
旧暦では10月3日にあたります。
古来の風習は西が中心でありました。
そのため、古来から行われていたこの風習の月日は、江戸開府以前の、関西の気候風土より定められたものであるといえます。
関東以北では、この日以前から既に寒くなっておりますので「亥の子餅」を食べ、この日に炉を開ける習慣は関東にはなく、一部の人々を除いて、一般的ではないと言えます。
ちなみにこの古来からの風習における「炉」とは、茶道における炉ではなく、炬燵や火鉢などのことを指します。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
11月4日は小堀宗吟先生の祥月命日です。
宗吟先生は先代紅心宗匠の母、当代宗実御家元の祖母にあたる方で、長年遠州流茶道の発展にご尽力されました。
《人物:小堀宗吟》
11代其心庵宗明宗匠の妻である宗吟先生は、戦前から数多くの出張稽古をされ、戦時中においてはモンペ姿でも全国をまわるなど、亡くなるその日まで遠州流茶道全体の育成に努められました。
また先代紅心宗匠、またその御兄弟の目には、大変厳しい母親として映ることもありましたが、何事も最後までやり遂げ、人を激励し続ける姿は「勤勉努力、実践垂範」の人として尊崇されました。
昭和44年、宗吟先生と紅心宗匠は広島の全国大会へご出張の際、宮島の旅館で紅葉を眺められました。
それが二人でご一緒された最後の風景となり、その後、亡き母を偲び、と紅心宗匠は歌を詠まれています。
「想いでは 唯ほほえみの母の顔 紅葉に映えて 美しく見ゆ」
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
11月3日は一の酉の日。
本日は酉の日についてお話したいと思います。
《酉の日》
古来より十二支は年月・時刻・方位に当てはめられ、それは日にも対応しており、11月はその酉の日に酉の市が寺社で行われます。
今年は三の酉まであります。
三の酉とは、月の始めに酉の日がくれば、酉の日が一月で三回くるときがあり、三の酉がある年は、火事が多いとされ、年末にかけて「火の用心」の心がけが肝腎です。
11月に酉の日を祭る由来は、神道や仏教によって異なり、またこの信仰は関東特有のものともされ、あまり西では見られません。
酉の市では「鷲が獲物を捕らえる爪」を模した熊手が、「福集める」縁起物として売られています。
他にも「頭の芋」や、「切山椒」といった縁起のある食べ物も売られ、関東を中心に、様々な寺社が大勢の人で賑やかになります。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は72侯についてお話し致します。
《72侯について》
72侯は、一年の太陽の周期を24等分した24節季をさらに3つに分け、丁度その頃に合った季節を表す「花鳥風月」の表現から季節の特徴を挙げたものです。
旧暦の時代は、月の運行による「暦」と、太陽による四季の変化との季節のズレを、24節季で訂正していました。
24節季が「春分」や「立冬」のように「2字」で簡潔に記されるのに対して、72侯は分かりやすく表現されているため、たいへん親しみやすいと言えます。
また、72侯は幾種類もあり、代表的なものを挙げると「宣享暦」「貞享暦」「宝暦暦」「寛政暦」「略本暦」などです。
前回までの72侯は明治7年(1874)に改訂された「略本暦」を基としておりましたが、これからは上記より季節に合った暦を選んでお伝えしていきます。
皆様ごきげんよろしゅうございます。
いよいよ11月になりました。
日本の暦では11月を霜月と言います。
今日は霜月の語源などについてお話し致します。
《暦:霜月》
「霜月」の語源は『奥義抄』の中に「十一月(しもつき)、霜しきりにふるゆえに、霜降月というを誤れり」とあり、霜降月の変化したものと言われています。
また霜月の他にも、神帰月、神楽月、雪待月、仲冬、子月、つゆこもりの月、雪見月、広寒月、食物月など様々な名称があります。
この中で特徴的なのは、食物月(をしものつき)です。
霜月の語源も、この食物月が縮まったとする説があります。
11月には新嘗祭などの収穫を祝う行事が多くあり、それらを食べる月として「をしものつき」という名が付いたと言われています。
そして普段一般的に誰もが使用する「食物(たべもの)」という言葉ですが、これはもともとは「多米都物(タメツモノ)」といい、米などの収穫物にあてられたものです。
魚や鳥などの類は「美物(ビブツ)」といい、その点からみても、「収穫」ということを意識して11月の名称を「食物」としたことに、昔の人々が霜月を感謝の月として大切にしていたことが分かります。
美味しいものが増える季節。
体調管理にも十分お気を付け下さい。