皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州のあとに、将軍家茶道指南役となった片桐石州の命日です。
≪人物:片桐石州≫
片桐石州は慶長10年(1605)に大和小泉藩の初代藩主・片桐貞降の長男として生まれました。
賤ヶ岳の七本槍の1人である片桐且元の甥にあたります。
遠州より27歳年下で、関ヶ原の戦からも5年経ってからの誕生であり、当時の著名な茶人たちとは、一回り下の世代に属していました。
石州は千利休の実子である千道安の茶の流れを汲んでおり、道安の弟子である桑山宗仙に学んだと言われております。
やがて遠州の後、将軍家茶道指南役になる人物ですが、茶系としては千家の茶の流れであり、大名茶でありながらも、楽の茶碗を使用するなど、その特徴を随所にみることができます。
遠州の茶会には3回招かれており、他にも金森宗和や松花堂昭乗など、多くの茶人と交わりました。
寛文5年(1665)には、4代将軍徳川家綱の所望によって点前を披露し、その後、茶道指南役となり名を馳せます。
やがて石州を流祖として石州流が生まれ、江戸後期に『雲州蔵帳』を編纂した松平不昧や、大老であった井伊直弼がその流れとして知られております。
延宝元年(1673) 11月20日、69年の生涯を閉じました。
皆様ごきげんよろしゅうございます。
本日は鶉図についてお話いたします。
≪掛軸:鶉図≫
現在、根津美術館には国宝の李安忠の『鶉図』が展示されております。
李安忠は中国・南宋時代(12~13世紀)の画家で、「李安忠と言えば鶉、鶉と言えば李安忠」と呼ばれるほど、鶉に因んだ作品で有名です。
この『鶉図』は、日本には東山御物として請来し、足利将軍家に蔵されていました。
もともと、この『鶉図』には対をなしていた一幅がありました。
しかし、侘び茶の発展と共に、床の間の幅が狭まり、対幅の掛物を掛けられる茶室が減っていきます。
それによって対幅であったこの掛物も、一幅ずつ掛けられるようになり、時代が経つと各々に所有者が表れました。
よって、対幅の『鶉図』は一度離れ離れになってしまいます。
しかし、江戸初期になって、遠州によって書院造りの床の間が復活されると、遠州は真ん中に所持していた徽宗皇帝の鶺鴒を、左に李安忠の鶉を配し、右にそれと同じ寸法で、松花堂昭乗に竹雀の絵を描いてもらい、三幅対としました。
遠州蔵帳には三幅対として、以下のように記載されており、昨年の三溪園茶会では、蔀関月(しとみかんげつ)が写した三幅対が掛けられました。
「左・李安忠 鶉」
「中・徽宗皇帝筆 鶺鴒」
「右・松花堂昭乗筆 竹雀」
今では対幅や三幅対はそれほど珍しい飾り方ではなくなりましたが、拝見した際に、そこに遠州の知恵があったことを思い出せれば、と想います。
根津美術館には対幅であった『鶉図』の一幅が掛けられており、もう一幅は上記の三幅対となって個人像とされています。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は戸川宗積先生の御命日です。
≪命日:宗積先生≫
昭和24年9月5日、先代・紅心宗匠は4年間のシベリア抑留から解放、帰国されました。
その半年後、昭和25年3月19日に、音羽護国寺にて「宗慶」襲名披露の大茶会が開催されました。
そして茶会が終わり、夜の祝膳の時、紅心宗匠の御実弟・宗積先生はご両親、ご姉弟にこのように誓われました。
「己が命ある限り、遠州流茶道発展向上の為に全力を尽くします」
以来、宗積先生は、自己を律した厳しい御姿、分け隔てなく懇切丁寧にご教授される御姿で大勢の方から愛され、紅心宗匠の最も信頼する「宗家事務局長」としてご活躍されました。
慶應大学経済学部をご卒業され、その後就職されましたが、紅心宗匠の復員が遅れ、又、生死も不明であったことから、茶道の世界に身を置き、遠州流茶道の組織造りのために力を入れることとなりました。
その身を砕くほどの働きによって、シベリアからお帰りになった紅心宗匠の眼前には、既に「茶道遠州会(現・遠州茶道連盟)」の下地が出来上がっておりました。
今では51支部を数えるほどになった遠州流茶道の発展は、宗積先生の御尽力があったからこそだと言えます。
紅心宗匠は、宗積先生を追悼する文の中で、歌を詠まれています。
「道守り 其の身心を空となし
力つくして 今日ぞ散りゆく」
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
≪食べ物:白菜≫
お鍋の中でぐつぐつ煮える白菜に出会う季節となりました。
11月上旬に収穫期を迎える白菜は、お鍋はもちろん、漬物や煮物など、様々な形となって食卓に並びます。
原産は華北・満州で、結球白菜と、不結球白菜の二種があります。
日本には昔からあるように感じますが、なんと入ってきたのは明治8年(1875)、中国から東京博物館に出品されたのが始まりとされています。
その時には栽培に至りませんでしたが、その後、日清、日露戦争で出征した軍人が大陸で白菜を認識して帰り、栽培に成功しました。
白菜は現在、日本全土で栽培され、種類も、山東白菜、茨城白菜、愛知白菜など多種にわたります。
ちなみに台湾の故宮博物館の三大至宝の1つと言われているのが、「翠玉白菜」です。
半分が白、半分が緑のヒスイ輝石で、上部にはキリギリスとバッタが多産の象徴として彫刻されており、大変美しい作品です。
来年、東京国立博物館で開催される『台北・故宮博物院展』に海外で初めて出展されるとのことで、注目を集めています。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
昨日の七五三に因んで、千歳飴のお話をいたします。
≪食べ物:千歳飴≫
起源は、元和年中(1615~1624)、大坂で初めて水あめを作った豊臣家の平野甚右衛門が、江戸へ出て浅草寺の境内で売り始めたという説と、また元禄宝永のころ、江戸の飴売り七兵衛が、その飴を千歳飴あるいは寿命飴と呼んだのが初めてとする説の2つがあります。
梱包する袋には、鶴亀や、松竹梅、翁、大婆が描かれ、縁起の良い図案が載せられます。
また、飴が神社に結びつくのは、飴が供物であったからとされています。
細長い千歳飴を食べると長寿になるとされ、子の成長を願います。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は七五三です。
≪年中行事:七五三≫
七五三は3歳・5歳・7歳の子供の成長を祝う日本の年中行事です。
もとは吉日を選び、一定の日を選びませんでしたが、江戸時代、徳川綱吉の子・徳松の祝がこの日に行われたことから、11月15日に七五三を行う風習が生まれました。
3歳・7歳は主に女児の祝で「帯の祝」といって付紐を取って帯を締め始めます。
5歳は主に男児の祝で、「袴着の祝」といって袴をつけます。
七五三という名称が全国的に一般化されたのは明治以後で、商業政策によって盛大化し、関西でも盛んに行われるようになっていきました。
7歳に「紐通しの祝」といって、帯をし始めます。
この年から幼児は一人前の生存権を認められたこととなり、「7つ前は神の子」とされてきた子供にとって、第2の誕生ともいうべきものでありました。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は「選日」のひとつ、不成就日です。
≪選日:不成就日≫
不成就日は、何をやっても不首尾の結果を招く凶日とされ、昔から事を起こすには用いてはならない日とされており、婚礼、開店、柱建て、新生児の命名、移転、使用人の雇用、契約事、相談事などは見合わせたほうがよい日とされています。
干支・六曜・十二支などとは関係がなく、陰陽から生まれた説もありますが、根拠は明らかになっておりません。
いつの日がそれにあたるか、と申しますと、1年を2つに分け、各月の順に3・2・1・4・5・6の日とそれから9日目の日を不成就日としています。
つまり、
1月・7月は3、11、19、27日。
2月・8月は2、10、18、26日。
3月・9月は1、9、17,25日。
4月・10月は4、12、20、28日。
5月・11月は5、13、21、29日。
6月・12月は6、14、22、30日。
となります。
また、不成就日は不浄日(ふじょうにち)ともいわれ、特に正月3日を初不祥の悪日といって、何もしない日とされています。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は空也上人が東国教化のために寺を出立した日であり、忌日とされています。
京都空也堂では、11月の第2日曜に空也上人を偲んで法要が営まれます。
≪茶道具:空也≫
【中興名物「空也」後窯・新兵衛作茶入】
瓢箪茶入である空也は、その形から念仏僧・空也上人の念仏踊りに因んで、遠州がその銘を付けました。
というのも、空也上人の念仏踊りは、瓢(ひさご)を叩いて唱えながら市中を徘徊することで知られ、そのことが由来となっているのです。
注目されるのは、底の釉裾から土見へかけて文字が彫られていることで、その内容は「早く御やき 頼入申候 有」とあり、恐らく唐物屋・有来新兵衛がその焼成を急がせるべく彫り込んだものと見られます。
挽家、内箱書付共に遠州筆で、仕覆は鎌倉間道、鷹羽切の二つが添っています。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は七十二侯(略本暦)で「地始凍(ちはじめてこおる)」です。
≪七十二侯:地始凍≫
今や都会の地面はアスファルトによって敷き詰められており、地面が凍ることは、降雪のあった翌朝などに限られます。
そこが柔らかな土であれば、空気が夜を越えて朝に向かって冷やされ、地表へと吸い上げられた水分を凍らして、霜柱となります。
また、張り付いた水分が凍り、霜が降りることもあります。
冬の朝、澄んだ陽光に照らされた地面は煌めいて、とても美しく輝きますが、一方で地面を盛り上げたり、農作物へ被害を与えたりと、悩みの種としても知られています。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日も引き続き、京都では光悦会茶会が催されています。
この名も、有名な本阿弥光悦から取られたものであり、彼も遠州にとって近しい人物でありました。
≪人物:本阿弥光悦≫
寛永14年(1637) 2月3日、本阿弥光悦は80歳で没しました。
その訃報を受けた遠州は、お悔やみの書状を書き、光悦の養嗣子の光瑳に宛てて送りました。
遠州と光悦の関係の中で、最もよく知られている事柄は「膳所光悦」の茶碗誕生の一件です。
寛永13年(1636) 5月21日に、品川林中の御茶屋に将軍家光をお迎えして献茶された際に、その控えの茶碗として用いられたのが、光悦に依頼して作製された、膳所光悦の茶碗でありました。
この大事なお茶会に遠州が光悦を選んだことは、当時光悦を最も優れた芸術家として、またその人間性をも含めて尊敬していたからに他ならないと言えます。
また光悦自身も、遠州が指導した膳所窯の性質を認めたことからこの茶碗が完成しました。
したがって、遠州と光悦の、心と心の通いあいの結晶が、膳所光悦の茶碗となったといえます。