4月14日 世の中に
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は桜にちなんだ和歌をご紹介します。
世の中に たえて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
よく知られた在原業平の和歌です。
この世の中に全く桜というものが無かったならば、
咲くのを待ちどおしがったり、散るのを惜しんだりすることもなく
春を過ごす心はのどかであったろうよ。
伊勢物語では
業平が交野(かたの)で惟喬親王の狩のお供をして
そのあと桜の下での酒宴で詠まれた歌と書かれています。
待ち焦がれた春と桜の花
しかし散り急ぐ桜に心は急かされ、いっそなければ…
と、心うらはらの気持ちがよくあらわれています。
返歌が後に続きます。
散ればこそ いとど桜はめでたけれ
憂き世になにか久しかるべき
散るからこそいっそう桜はすばらしいのだ。
この世界に永遠のものなどあるだろうか…
春が来たよと教えるように桜は花を咲かせ
そしてはらはらとその花弁を舞わせて散っていきます。
千年以上前の日本人も、今を生きる私たちも
同じ心でこの桜の姿を見て
心を動かされていることを感じさせてくれます。
4月13日 遠州公の茶の湯はじめ
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は大河ドラマ「軍師官兵衛」の時代
当時の遠州公についてのお話しをさせていただきます。
文禄四年(1595)
秀長の後仕えた羽柴秀保が亡くなり、
大和大納言家はここに滅びます。
遠州公の父、新介正次は秀吉の直参となり
伏見に居を移します。
父に伴い移動したこの伏見での
古田織部との出会いが遠州公の人生を、
決定づけるものとなりました。
文禄二年(1593)
遠州公15歳
この頃に遠州公は古田織部に茶道を習いだしたとされています。
古田織部は利休亡き後、
茶の湯の第一人者として活躍していました。
14歳の時にはすでに
松屋の「鷺の絵」を茶会にて拝見していたことが
記録でわかっています。
この「鷺の絵」についてはまた後日お話したいと思います。
4月12日 遠州公の愛した茶入「玉水」
薩摩 「甫十瓢箪」
遠州公は数多くの国焼きを指導をしています。
薩摩焼でも
遠州公がお好みになられ作らせた十個の茶入を
遠州公の号の宗甫と、数の十にちなんで
「甫十」と呼んでいます。
いずれも茶入の底に「甫十」の彫銘があり
瓢箪形の耳付小茶入とされています。
耳付については昨日御紹介させていただきましたが、
この茶入の胴部分二方が耳を示しています。
新古今和歌集 春歌である
つくづくと 春のながめの 寂しさは
しのぶにつたふ 軒の玉水
から名付けられました。
4月11日 耳付(みみつき)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公のお好みになられた形の一つ
「耳付」をご紹介します。
遠州公以前にも見られた意匠ですが、
遠州公は上の方に小さなアクセントのように
耳をつけた瀟洒な形を好みました。
茶入の小さな耳、笹葉をした耳、遠州茶道宗家の紋である七宝形、
弦(つる)耳、
花入や水指の管耳、福耳、釜の笛耳など、いずれも
優雅な意匠をたたえています。
耳付きの茶入には
丹波「生埜(いくの)」「立花」
膳所の「大江」、薩摩の「甫十」「甫五」
など優れた作品が多く残ります。
4月 10日 柳緑花紅(やなぎはみどりはなはくれない)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は春によく掛けられる禅語をご紹介します。
柳緑花紅
11世紀の中国の詩人・蘇軾(そしょく)の詩からの引用です。
柳は緑色、花は紅色。
そのありのままの姿が真実だということ。
柳は緑色をなすように、花は紅色に咲くように、
全てのものを客観的に捉え、あるがままを受け入れよう
ということを説いている言葉です。
時に、禅宗は自己を追究し「無」の境地を目指すことが
目的であるのに、季節の移ろいに目を向ける禅語に
違和感を覚えることもあるようです。
しかし、この柳緑花紅の語のごとく
季節を捉えた禅語は
季節の移ろいに応える自然の姿、ありのままの姿
それこそが真実と教えています。
ですから、
やはり柳が青々として、花が紅に染まる頃
この言葉を目にして、その真理を追求するのが
自然な姿。
季節外れに掛けるのは
それこそ「不自然」なのではないでしょうか。
4月9日 春雨(はるさめ)
「春雨じゃ、濡れてまいろう」
大正時代人気を得た新国劇
「月形半平太」の有名な台詞です。
この戯曲のモデルは坂本龍馬の僚友・土佐藩士武市半平太
こと武市瑞山(1829年 – 1865年、35歳没)
といわれています。
旧暦三月頃
細い雨滴のしとしとと長く降る雨を春雨といいます。
草木の芽を吹き出させ、花の蕾をほころばせる
静かな暖かい雨です。
傘をさすのもためらうような
しっとりとした風情が
春雨にはあるようです。
ちなみに「春の雨」は春雨を含め、
正月から3月頃まで降る雨全部を指して
春雨と区別しています。
4月8日 はなまつり
ご機嫌よろしゅうございます。
今日4月8日はお釈迦様が誕生した日です。
この日は灌仏会(かんぶつえ)、はなまつりなどと言われます。
お寺などで、花で飾った花御堂(はなみどう)
という小さなお堂が作られます。
ここに甘茶で満たされた盤を置き、その中に
御釈迦様が誕生したときの姿を表した
誕生仏という仏像が安置されます。
お参りするときには、柄杓で
誕生仏の頭へ甘茶をかけてお祝いします。
お釈迦様が誕生したとき、天から甘い露が降り注いで身体を清めました。
するとお釈迦様はすぐに立ち上がり、
7歩進んで右手で天を指し左手で大地を指し、
「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」
とおっしゃったのだそうです。
「この世に自分より尊いものはない。
人間ひとりひとりが一つしかない命をいただいている尊い存在である。」
いうことを意味しているのだそうです。
さて、この8日にはお家元が宗家の稽古場で
様々な種類の椿を集めて鉄鉢に盛り、
お釈迦様に供えます。
4月ともなると椿もいよいよ見頃を終える頃ですが
生けられた椿達は、それぞれが美しく咲きほこり、
その華やかな姿で私たちの目を楽しませてくれます
4月7日 桜
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「桜」について
お話します。
満開の桜を眺めると心躍る気持ちがします。
皆さんがお花見に行かれてご覧になる
桜のほとんどは「染井吉野」という
種類のようです。
この桜
桜好きの日本人のために手っ取り早く満開の桜を咲かせたい
ということで、江戸時代末期に
染井村(現在の東京駒込あたり)の植木職人が
何種かの桜を掛け合わせてつくったのだとか。
それまで全国的に有名だった奈良原産の吉野桜を
意識して名付けられたそうです。
葉が育たないうちに開花し散りやすいのですが
その散り際の見事さが日本人に受け
また栽培しやすいことからたちまち全国に広がり
従来の吉野桜を押しのけ
桜といえば染井吉野という程普及しました。
4月6日 天正19年の出来事
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜日。
大河ドラマ官兵衛の時代の
遠州公のお話しを。
天正十九年(1581)
この年は、茶の湯にとっても
遠州公にとってもお大きな意味をもつ年でした。
1月22日に 秀吉の弟・秀長が亡くなります。
そして2月28日 千利休が切腹。
8月には士農工商が定められ、
身分制度が出来上がるのと同時に
下克上の時代に終わりを告げることとなります。
主君秀長が亡くなった翌年は遠州公の母
(磯野丹波守員正娘)が亡くなり
遠州公にとっても
苦難のときであったと思われます。
年号変わって、文禄二年
15歳の遠州公は
その悲しみを乗り越えて、
大徳寺の春屋宗園禅師に参禅します。
茶道を古田織部に習うのもこの時期です。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳所載の茶入について。
桜にちなんだ銘を持つ遠州公ゆかりの茶入は
たくさんあります。
そのうちの一つが
「山桜芋子」です。
正面にかかる釉薬の具合が
山に咲く桜の姿を連想させることから
遠州公がこの名を付けたとされています。
芋子とは文字通り、その形が里芋の子のような形
をしていることからの名称です。
茶入の入った箱には遠州公の自筆で
「芋子」と書き付けがあります。