12世宗慶宗匠命日

2014-4-24 UP

4月24日  十二世宗慶宗匠命日

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は4月24日
先代 紅心 宗慶宗匠のご命日です。

昭和25年 音羽護国寺において
二代小堀正之 備中守大膳宗慶公の宗号
「宗慶」を襲名されました。

並々ならぬ才を持ちながら、父である遠州公の存在に
かくれてしまい注目されることが少なかったことや
十一代の宗明宗匠から一巡した新たな一代目と捉え
二代目の「宗慶」を名乗ることとなりました。

そして当代家元は三代宗実公の名を襲名。
小堀遠州から続く綺麗さびの血脈は、
今も確実に受け継がれ、そしてこれからも
繋がっていきます。

根津美術館で行われた米寿の茶会の折
ご先代の無事と長寿を願って
お家元が床にいけられた
袋藤と延齢草の花

そしてその床の間をお二人でご覧になる姿が
今でも鮮やかに胸に蘇ってきます。

春眠暁を覚えず

2014-4-23 UP

4月23日  春眠暁を覚えず

ご機嫌よろしゅうございます。
今日はこの漢詩をご紹介します。

春眠不覺曉 (春眠暁を覚えず)
處處聞啼鳥 (処処啼鳥を聞く)
夜来風雨聲 (夜来風雨の声)
花落知多少 (花落つること知んぬ多少ぞ)

孟浩然の春暁の詩です。

一般的には、次のような意味に解釈されています。

春の眠りは心地よく、うっかり寝過ごし、
夜明けに気付かない。
目覚めてみると、ところどころで
鳥がさえずっていて天気が良さそうだ。
そういえば、昨夜は風雨の吹き荒れる音がした。
せっかくの花がどれほど落ちたことか。

近年では
春は日の出が早いので、同じ時刻に起きても
すでに空は明るい。
という意味で解釈する説もあるようです。

ただ、春のうららかなあたたかさとのどかさを表すのは
やはりこれまでの解釈の方があっているのではかなと思います。

桜鯛

2014-4-22 UP

4月22日  桜鯛(さくらだい)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は、この時期旬を迎える「桜鯛」について
お話しします。

桜鯛は、春に旬を迎えるマダイのことを指します。
マダイは桜の花が咲き始める3~6月頃
産卵の為に浅瀬に来るので、この時期のマダイのことを
桜鯛と呼びます。
産卵期の鯛は赤みが増し、身が肥えて脂がのり、
一番美味しくなります。
他の季節のものと区別され珍重されています。

この時期、大阪の船場では親戚や親しい家の間で
とびきりの桜鯛を贈答する風習が、
江戸時代から大正頃まで続いていたそうです。

会席でも旬の食材を取り入れた献立が考えられ
その季節にあった旬の食材でお客様をもてなします。
これまでもいくつか「旬」の食材という
お話をしてきましたが
旬の時期においしくなるのは何故だかご存知でしょうか?

それは1年のサイクルの中で、
その生物が次の世代を産むために体に栄養を蓄える時期
と重なることが多いからなのだそうです。

初花(はつはな)

2014-4-21 UP

4月21日  初花(はつはな)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は漢作唐物「初花」茶入についてご紹介します。

楢柴・新田肩衝と並んで、天下三肩衝の1つ。
もとは楊貴妃の油壷であったとも伝えられます。

初花とはその季節に一番に咲く花を指します。
この銘は足利義政が、
その形姿を天下に先駆ける初花にたとえて

くれないの はつ花ぞめの色ふかく
思ひしこころ われわすれめや

に因んで付けた銘であろうと『日本陶瓷史』
にありますが定かではありません。

織田信長が名物狩りで商人の大文字屋から取り上げたもので、
信長・秀吉・家康という三人の天下人の
所有するところとなり
柳営御物として三百年もの間を
幕府の権威を誇示することとなります。

現在は国の重要文化財に指定され、
東京の徳川記念財団に保管されています。

この初花と並んで好まれる「遅桜」茶入を
来週月曜日にご紹介します。

穀雨(こくう)

2014-4-20 UP

4月 20日 穀雨(こくう)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は二十四節気の穀雨です。

春雨が百穀を潤すことから名づけられたもので、
雨で潤った田畑は種まきの好期を迎えます。
もとは、秋に種蒔きした麦類の生長を助ける雨のこと
を指し、麦は穂が出て実をつけるようになります。
のちに稲にも適用されるようになりました。

「清明になると雪が降らなくなり、
穀雨になると霜が降りることもなくなる」
といわれますが
変化の多い春の天気もこの頃からようやく安定し、
日差しも強まってきます。
昔から、この日に合わせて田畑の準備をするそうです。

また穀雨が終わる頃に八十八夜を迎えます。

いよいよ春から初夏へ向かう季節になりました。
この穀雨の恵みを受けて
山野は5月の美しい新緑の準備をしているのですね。

遠州公の愛した茶入 春慶瓢箪(しゅんけいびょうたん)

2014-4-19 UP

4月19日 遠州公の愛した茶入                     春慶瓢箪(しゅんけいびょうたん)

ご機嫌よろしゅうございます。  今日は遠州蔵帳所載「春慶瓢箪」についてお話します。

春慶とは、瀬戸窯の初代である加藤四郎左衛門  (藤四郎)が、晩年に春慶と称してから作ったものであると言われてる 茶入れの一群です。   この茶入は形そのままに、遠州公が命銘したものです。

瓢箪の形については 遠州公の好みの形で昨日ご紹介させていただきました。

お茶会ではおよそ七回使用されていて、第一回を除いて  いづれもお正月に使われています。

瓢箪という形は縁起の良い形です。 また遠州公が好んだ意匠でもあり、  遠州公が関係する様々なところで、この瓢箪の形を目にします。

瓢箪(ひょうたん)

2014-4-18 UP

4月 18日  瓢箪(ひょうたん)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は遠州公の好んだ形「瓢箪」について。

12日にもご紹介しました
薩摩の窯に注文して焼かせた「甫十瓢箪」
と呼ばれる茶入をはじめ
遠州公は瓢箪の形をとても好みました。

これは禅の教えとも関係があります。
水に浮かべた瓢箪は上から押すと、
一度は沈みますが、手を離すと別の場所に
ぽこっと浮かんできます。

「至りたる人の心は
そっとも(少しも)ものにとどまらぬことなり
水の上の瓢を押すがごときなり」

相手の心に逆らうのではなく、素直に意に従い
しかも自分の心というものは決してまげないという
「瓢箪の教え」からくるもののようです。

茶道具の他に、文様や透かしにも瓢箪を
多く用いています。

徳川家康

2014-4-17 UP

4月17日  徳川家康

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は4月17日
徳川家康の命日です。

家康の茶の湯に関する逸話はあまり見当たりませんが、
文禄元年頃の名護屋の陣営で、神谷宗湛を招き茶を振舞ったり、
慶長十六年(1611)には織田有楽斎を招いて楢柴肩衝で茶会を催したなど
当時の日記や文章をみてみると少しはあるようです。

しかし、通常家康が使用していた道具などは比較的素朴なものが多く
信長、秀吉に比べ、茶の湯に熱心であった様子は見受けられません。

江戸時代
家康によってようやく平和の世が訪れ、
それを維持する秩序が必要となりました。
茶の湯は武家の故実・礼法として修むべき教養となります。

この時代、遠州公は大名や、貴族など様々な肩書きを持った
人々が共に茶を喫するための
調和の美の茶の湯を創り出しました。

寛永十三年、将軍家光は、日光東照宮の大増築を行い、
4月17日の家康の命日に参詣しています。

これに随行した遠州公は

日の光 東を照らす 神風は
今日より君の   万代の声

と「日光東照神君」の文字を詠み込んだ和歌を作っています。
遠州公五十八歳の年です。

長命寺の桜餅

2014-4-16 UP

4月16日 長命寺の桜餅

ご機嫌よろしゅうございます。
お花見のシーズンになると店先に並べられる「桜餅」。
今日は有名な「長命寺の桜餅」についてお話しします。

桜葉三枚に包まれた薄皮の桜餅
江戸時代に生まれた
花見とともに愛されるお菓子です。

向島の長命寺の寺男だった山本新六が
堤の桜の葉を何かに使えないものかと考え、
まず作ってみたのが桜の葉のしょうゆ漬けでした。

しかしこれはあまり売れず、次に作ったのが
薄い小麦粉の皮に餡を包み、桜の葉を塩漬けにして
巻いた桜餅。

これは大変人気がでて、1日700個以上売れたとか。
それから約300年、隅田堤の桜と共に名物となり
その人気は現在まで続いています。

ちなみに明治の俳聖正岡子規は若い頃
この長命寺のお店の二階に下宿しており、
その娘と恋の噂が立ったそうです。
桜餅屋の2階で書いた子規の手書き文集「七草集」には、
娘を主人公にした戯曲や恋の短歌などが書き連ねられています。

さてこの桜餅、葉を残すか食べるか
好みのわかれるところです。
お店によっては、皮ごとを勧めるところもあれば
葉は外して、桜餅に残った香りを楽しむことを
勧めるお店もあるようです。

梅若(うめわか)の涙雨(なみだあめ)

2014-4-15 UP

4月15日  梅若(うめわか)の涙雨(なみだあめ)

旧暦3月15日の江戸は
雨になることが多かったといいます。

この日に降る雨を
「梅若の涙雨」と言っていました。

謡曲「隅田川」の梅若丸は、
大変頭の良い稚児でしたが、寺院内での争いに悩み
京都の寺をこっそり抜け出したところ、
人買いに誘拐されてしまいます。
東国へ連れていかれる途中に病気になり
隅田川のほとりに捨てられます。
それを哀れんだ土地の人達の、手当ての甲斐も虚しく
梅若は3月15日に息を引き取ります。

たずねきて問はば答えよ都鳥
すみだ川原の露と消えぬと

我が子の死を知った母はこの地で剃髪し、妙亀尼と名乗り
庵を立てて念仏三昧の日々を送ります。
それから3年後、池の水に映る我が子の姿をみてそのまま飛び込み
死んでしまったといいます。

現在も隅田川のほとりには梅若を祀る木母寺に
梅若塚が建てられています。