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先週ご紹介した古曽部焼と同様、遠州七窯に数えられてはいるものの
遠州公以後の窯と考えられている焼き物に「赤膚焼」があります。
現在では可愛らしい奈良絵でおなじみの赤膚焼ですね。
五条山では室町時代から土風炉(奈良風炉)などがつくられました。
天正期、国主大和大納言秀長が尾張国の陶工与九郎を招き開窯を命じ、
正保期の当主本多政勝のとき、仁清が訪れて開窯したと伝えられますが
詳細は分かっていません。
寛政末年、当主であった柳沢保光(堯三)が御用窯とし、保光没後は一時衰微しますが、
天保期に、郡山在住の数奇者である奥田木白が陶工治兵衛の窯で仁清写等、
写物を焼成し再興しました。
遠州公との関連は定かではありませんが、秀長に仕える父と青年期を過ごした
大和郡山の窯であることが、なにか関係があるのではと思うと大変興味深いです。
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今日は古曽部焼の歴史のお話しを。
寛政三年(1791)五十嵐四郎兵衛新平が京焼風な窯を築いて再興しました。
以後代々「古曽部」の印を用いて京焼風の茶陶や高取・唐津・絵高麗・南蛮写
などの雅陶を制作しました。特に二代信平は名手として知られています。
通常焼き物は集落に何軒かの窯元があり、焼き物を作りますが、
古曽部焼は、五十嵐家を唯一の窯元とする、五十嵐家の家業として生産されていました。
古曽部窯は、五十嵐家の敷地内に設置された登り窯の名称で、
最後に製品が焼かれて後20年以上すぎた1950年代に破損、窯を閉ざしたまま現在に至っています。
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幕末の道具商田内梅軒が著した「陶器考」の中に記される「遠州七窯」の一つに
古曽部焼があげられています。
伊勢姫、能因法師隠棲の地としても知られる古曽部。
古曽部焼の開窯は桃山時代末から江戸初期とされ、
遠州七窯の伝承があるものの、確かな史料がありません。
そのため遠州以後の窯と考えられています。
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今日は遠州公の指導で作られたとされている茶入「大江」をご紹介します。
膳所焼茶入の代表ともいわれる「大江」
細かい轆轤目のついた紡垂形の体、肩には可愛らしい耳が付き、柿茶釉の上に黒釉一筋がめぐります。
膳所焼に因んで近江国粟田郡瀬田村の大江なる地名を遠州公が銘につけました。
内箱と挽家の蓋表には遠州公筆の「大江」の字が金粉字形されています。
遠州所持の後、その遺品として松平備前守に譲られ、文化年間、伏見屋甚右衛門の取り次ぎで松平不昧公が所有しました。
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今日は膳所焼の特徴について。
この地域の瀬田の名をとった「瀬田焼」という焼き物が茶会等の資料に
残っており、これが膳所焼の前身であったと考えられます。
膳所焼は瀬戸・美濃の陶技を基本とし、ねっとりとした細かい白土に、
鉄錆のような色合いの金気釉を素地にかけ、その上から濃い黒釉や
黄色の飴釉などを景色となるようにかけています。
茶会記などの記録から寛永年間(1624-44)を中心に広く使用され
ていたことが知られています。茶の湯の流行にともなって、
遠州好みの瀟洒な作ぶりのものや、
京都の茶人などの好みの茶器や切型によるものを焼いたり、
禅宗寺院で用いる斎茶用の天目茶碗を量産していたようです。
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今月は膳所焼のお話しを。
膳所焼は遠州公との深いつながりが感じられる場所で焼かれた茶陶です。
琵琶湖の南端に位置する近江国膳所。天智天皇の頃湖畔に田を拓き、湖水の魚を取って朝廷にお供えしたことから「膳所」と称されるようになったといわれています。
1634年、膳所藩主となった石川忠総は、その父、大久保忠隣が小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人で、自身も忠総も遠州公と親交が深かったことから
その指導を受け茶器に力を注ぎました。
膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として
重宝されますが、忠総の死後は衰退していきました。
春日社の大甕
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丹波焼の大甕が意外なところで使われている場所があります。
それは能舞台。
兵庫県篠山市の春日社の能楽殿は、丹波篠山藩主青山忠良が文久元年(1861)に
奉納したもので、そのとき丹波の陶工に焼かせたのが七個の大甕です。
「立杭釜屋村 源助作」とへら描きされています。
春日神社の能楽殿は、“箱根より西では最も立派”と言われているそうで、この舞台を使って、兵庫県能楽文化祭が頻繁に行われているのだそうです。
舞台の音響効果を高めるために大甕が床下に置かれていて、中央に置かれた大甕はシテ柱の方向に口を向けています。足で床を踏み、音を発する。
これも太鼓や笛と同様、舞の音楽として使われる効果で、この演出に丹波の大甕が一役買っています。
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丹波焼は他の古窯と比べると若干異なった歴史を歩んできました。
窯のつくりも非効率、生産性の薄いものでした。しかしこの原始的で不合理な窯であるがゆえに、計算では作りえない自然の傑作が創出されたことも事実です。
また、元々丹波の土は鉄分を多く含んだ酸性土で、釉薬が掛かりにくく、そのために焼き締めによって土味を引き出したのでした。
この丹波焼の渋さを醸し出す土は、耐火度や粘り、白さなど好条件は一つとしてなく、どちらかといえばつくりにくい土。その決して良質とはいいがたい陶土と向き合ってきた陶工の苦労はどんなに大きかったことでしょう。しかしながら土の良し悪しなどといった考え方は人の勝手な言い分であり、
丹波焼を激賞した柳宗悦は
「上下を定める人間の分別の勝手さを考えざるを得ぬ、下品化生の人間の救いを契う他力門のあることを忘れてはなるまい。丹波焼は余すところなくその他力美を示している。
その底知れぬ美しさは人間の不合理性、自然の合理性に遠く由来してくるのである。」
と評しています。
丹波焼と遠州公
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丹波焼がしばしば茶会記に記されるようのなるのは寛永年間にはいってからで
「宗甫居士道具置合拵」には
寛永七年五月二十三日「一茶碗 丹波焼 一水指 丹波焼」とあり
翌八年九月四日に「一水滴(水滴型茶入) 丹波焼」とあります。 さらに
同月二十二日に「一 茶入 生埜」とあります。
この時期に丹波のどこかの窯屋と遠州との間に特別な関係があったことを物語っています。
とくに「生埜」茶入れは、丹波焼茶入第一の名作と評価が高く、
優しい丸みを帯びた輪郭とちょこんとついた耳が印象的です。
遠州公との関わりができるようになってからの茶陶丹波焼は、ほとんど黒飴釉や茶褐色の釉のかかった施釉陶で、瀟洒な作行からは他の窯同様「綺麗さび」の美意識を強く感じます。
丹波焼の歴史
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六古窯の一つに数えられる丹波も、遠州公が関わった窯の一つです。
その発祥は平安時代末期から鎌倉時代のはじめといわれています。
初期の頃の丹波焼は、桃山時代まで穴窯を使った焼き締めの紐作りで、窯の中の炎と灰による自然釉の光沢を帯びた重厚な美しい、口の大きい甕などを主に制作しました。
桃山の終わり頃には釉薬も使われだし、ドベと呼ばれる泥を塗って釉を掛けたような風情のものも焼かれます。
慶長16年(1611)ごろ朝鮮式半地上の「登り窯」が導入され、同時期に蹴りロクロ(日本では珍しい立杭独特の左回転ロクロ)も取り入れられました。
江戸時代に茶陶も焼かれ始めましたが、伊賀焼や、信楽、等の他の窯場に比較すると作風は強い個性を示してはいません。