浜松には遠州公作と伝わる庭のある寺があります。
それが龍潭寺。龍潭寺は徳川幕府を支えた筆頭井伊氏の菩提寺です。2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、歴史に翻弄され、一度は出家をしながらも元許嫁の息子直政を井伊家の当主として育てあげるため還俗し、女城主として奮闘する直虎の一生が話題を呼びました。この直虎が出家し過ごしていたお寺です。
四季折々にその姿を変化させる美しいその庭は、遠江国に残る伝遠州作庭園といわれる「遠州三名園」の一つに数えられています。
井伊直政が彦根の佐和山城主になったのを機に、1600年彦根にも龍潭寺の分寺が建てられましたが、こちらの庭も遠州公作と伝えられています。
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これまで、この浜松城主は松平重仲と考えられていましたが、
この旅日記が記された1621年(元和七年 辛酉紀行)の浜松城主は
浜松出身の高力忠房の可能性があります。
高力忠房は1619(元和5)年に浜松へ転封。
20年浜松をおさめた後、1638(寛永15)年には
肥前国島原(現:長崎県)へ転封。
幕府から信頼されていたため島原の乱の戦後処理のために
譜代の家臣の中でその任務に耐えられる人物として島原藩転封となり、
藩主として以外にも長崎警備、外様大名の多かった九州のとりまとめを任されています。
また息子隆長の正室は、遠州公と公私に渡り交友の深かった、永井尚政の娘です。
仕事柄、長崎奉行との関わりも深い遠州公ですので、
なんかの関係があったことが考えられます。
旅日記で遠州公の出立まで出向き、名残を惜しんだ様子も頷けます。
旅日記では遠州公の知り合いの浜松城主が、
遠州をしきりに城にうながし、
出発の際にも名残を惜しんで見送る様子が記されています。
この浜松城は「出世城」としても有名です。
天下人となった徳川家康が、29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごし、
有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの時期にあたります。
家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの譜代大名が守り、
藩政260年の間に25代の城主が誕生しました。
歴代城主の中には幕府の要職についた者も多い
(老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人※兼任を含む)
ことから、後に「出世城」と言われるようになりました。
28日 朝天晴。
知り合いである浜松の城主が使者をよこしてきた。
中和泉を過ぎて、天龍川の船渡を経て、浜松にさしかかる。
城主がまた遣いをよこしてきたので、案内させて城に入る。
長いこと滞在していたが、お昼頃にぱらぱらと雨が降り出した。
今日は城にお泊りくださいと城主にしきりに引き留められるのを辞して、
今切のほとりまでは進みたいと思っていることをお伝えして城をあとにした。
城主は名残を惜しんではるばる見送りにでてくれて別れた。
細雨が降り、風も静かであった。その名の通りの浜松は二本並んでいる。
汀に寄せ来る浪の音も、松の間を抜ける風の音も美しく響いている。
浪の音に はま松風の 吹合せ
折から琴の 音をや調ぶる
霧雨のような衣が濡れるほどではない雨が降るなか、新井の渡りに到着する。
急に風が激しくなって、波も音を立てている。雨足も強くなってきた。
山風の 秋の時雨を 吹来ては
浪もあら井の わたし舟哉
雨と浪で濡れた袖も乾かしおわらぬうちに舟からおりた。
ここで宿を取り一泊。燭の明かりが灯る頃、京都から文が届けられた。
故郷のことなどの話を聞いて過ごした。
夜も更けたが、雨風は止む気配がない。
金谷の里に着き、しばし休みを取った遠州公。
金谷には遠州好の茶陶「志戸呂窯」があります。
一時は衰退していた窯を、慶長年間(1596~1615)に徳川家康が瀬戸の陶工加藤九郎右衛門景延を招いて再興。
通説では志戸呂で遠州の好みの茶器を製したのは寛永年間(1624~1644)といわれますので、この旅日記が記された元和七年(1621)には、まだ遠州公と志戸呂とのつながりは始まっていなかったと考えられます。
後世、遠州七窯として名を知られることとなる金谷の地に、遠州公がいつ関わりを持つようになったのか、興味深いです。
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」
と言われた通り、静岡の大井川は、流れも早いため船も渡せず、
また徳川幕府の軍事上の必要から橋が架けられなかったため、
川越人足の肩にまたがるか、蓮台とよばれる乗り物に乗って
数人の人足が担いで川を渡りました。
明治時代に入って架橋が許され、各所に橋が架けられました。
島田市にある蓬莱橋(ほうらいばし)は、明治12年に大井川に
架けられた木造の橋で、その長さは897.4。
「厄なし(8974)の橋」や「長生き(長い木)の橋」とも呼ばれています。
「木造歩道橋として世界一の長さ」とギネスに認定され、
いまだこの記録は破られていません。
映画やテレビドラマなどの撮影も行われるなど、観光スポットになっています。
撮影:山本幸夫
宇津谷峠に差し掛かったところ、ここの名物「たうだんご」に出合います。
さては唐の秘法で作られた珍しい餅かと思った遠州でしたが、正解は十づつすくうので「十団子」。
試しにやってみさせると見事ひょいひょいっと面白いように十づつすくって碗のなかに入れていきます。
この「十団子」、室町時代の連歌師・宗長の綴った『宗長手記』にも登場しているので室町時代からあったようです。
「折節夕立して宇津の山に雨やどり。此茶屋むかしよりの名物十だんごといふ、一杓子に十づゝ。かならずめらうなどにすくはせ興じて。夜に入て着府」(大永4年(1524)6月16日)
地元の鬼退治の伝承などとも関係して、江戸時代をすぎると、糸でつないだ形に変化して売られるようになっていったようです。
鞠子を通りすぎ、宇津の山に到着。
この里で出された霰のような白い餅を器に入れてお召しくださいと言う。
尋ねると「とうだんご」という里の名物なのだとか。
さては中国(唐)から渡ってきた餅であろうと、どうやら違うらしい。
十づつ杓子ですくうので「十団子」というのだと言う。
ならば実際にすくってみなさいと言うと、主の女房が自ら釈子を手に取り、自在にぴたりと十ずつすくっていく。
この様子をみて時の移るのも忘れ、楽しんだ。
さもあらむかし そこをゆき過て うつの山に
いたりぬ 此里を見れば しろきもちの
霰のごとくなるを器に入て 是めせと
いふ とへば たうだむごとて此里の名物
也といふ さてはもろこしより渡たる餅に
やあむなるといふ さにはあらず
十づつしゃくふによりて とをだむごとい
ふ也とかたる さらばすくはせよといへば
あるじの女房 手づから いひかいとりて
心のままにすくふ これになぐさみて
暮にけれども うつの山にかかる もとより
つたかえではしげりて と ある所なれば
いとくらふ道もほそきに うつつともわきま
へ侍らず
さらでだに 夢のうき世の
旅の道を うつつともなきうつの山こえ
ゆくえは岡辺の里に着 一宿 其夜は 岡辺
の松風に夢をおどろかし 明れば
「うめ若菜、丸子の宿のとろろ汁」
と松尾芭蕉が詠んだように、丸子ではとろろ汁が名物として知られています。
時は戦国、1596年創業の「丁子屋」が現在も営業中です。
こちらは静岡を往来する旅人にとろろ汁でもてなしてきました。
旅日記では触れていませんが、遠州公が訪れた際にもきっと営業していたはず。
東海道中膝栗毛にも「丁子屋」のくだりが出てきます。
丸子とも鞠子とも表されますが、ここで遠州は「沓」を求めようとしたところ、
今は落ちぶれて「沓」を売って生計を立てる、貴族らしき人の「沓」は通常より高く、
結局買わず。蹴鞠の沓と鞠子ということで、
遠州公も面白いと思って書き留めたのでし
ょうか。