東海道旅日記「下りの記」  訳文1

2021-1-15 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
今日から本文の訳をご紹介致します。
以下訳文

10月の8日江戸に向かうことになり
江月和尚より餞別の志を一偈にして、
手紙を添えてよこしてくださった。
公儀の用が忙しく、手紙を開く暇もなく
日も暮れ、伏見の里を朝も早くから出発し、
関山を越えて内出の里に到着する。
そこかしこから人が集まってきて、
心せわしくあわただしくしているうちに時も過ぎていった。

瀬田の長橋を渡ろうとするが日が短いので、
うち出の濱から渡し船に助けられて琵琶湖をすすむ。
北を見れば焦がれてやまない滋賀の故郷がみえる。
唐崎の松も懐かしく思われる。

ふるさとの 松としきかば旅衣 
たちかへりこむ しがのうら浪

東海道旅日記「下りの記」 遠州の江戸詰四年

2021-1-8 UP

遠州公の「下りの記」は神無月、
10月の8日から始まります。

そしてこの寛永19年10月に遠州公は
江戸の飢饉対策奉行となっています。
「公の事しげくに…」と記されていた背景に
はこのお役目があったのでしょうか。

この年、寛永の大飢饉がおこり全国的な
飢饉にみまわれます。
農民たちは作物の育たない田畑を手放し、
身売りや江戸へ流入し、
飢えに苦しむ人々であふれていました。

その対応に追われていた幕府は、知恵伊豆と
言われていた松平伊豆守信綱を中心に、
畿内の農村掌握の第一人者であった遠州公も
連日評定所にて協議を行いました。

このとき、将軍に茶道指南を請われたともいわれ、
この先4年間江戸にとどまることとなり、
俗に「遠州4年詰め」と呼ばれています。
この飢饉対策の対応のため動く幕閣や、
江戸に参集していた各地の大名に
遠州公の茶が広まるきっかけともなるのでした。

きれいさびの日々

2021-1-2 UP

皆様あけましておめでとうございます。
今年一年の皆様のご多幸とご健康を
心よりお祈り申し上げます。

本年もメールマガジン「綺麗さびの日々」を
どうぞよろしくお願いいたします。

今年は、昨年ご紹介してまいりました小堀遠州公筆
「東海道旅日記」の「下りの記」をご紹介してまいります。
「上りの記」が綴られてから21年の歳月が流れ、
遠州公64歳での日記となっています。
当時の平均寿命が50歳位であったことを考えると
多忙な日々を過ごしながらも、大変長寿であったといえます。
 
 元和七年の「上りの記」と比較すると、13日であった
旅程を10日という急ぎ旅で、
書体も心なしか走り書きの様子が感じられます。